こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスに出会った人になることが真の救い

2021-06-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/6/27(No.1128)
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年間第13主日(マルコ5:21-43)
イエスに出会った人になることが真の救い
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B年の年間第13主日は「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の奇跡物語です。説教の準備に苦労する朗読箇所とは思っていませんでしたが、思いのほか苦労させられました。もしかしたら、苦労させられたことで、私はイエスに出会うことができたのかも知れません。

会堂長ヤイロが、幼い娘が危篤状態にあって助けを求めに来るところから始まります。物語は途中十二年間も出血の止まらない女性のいやしがはさまれています。実は二つの出来事には関連があって、同じ体験を積ませるためのものです。

十二年間出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と考えてイエスに近づき、服に触れると確かに出血は止まりました。この女性にとっての目的は十分果たされたのですが、イエスはそれでも女性を探しています。イエスにとって女性に積ませたい体験は、まだ終わっていないからです。

女性が勇気を出して名乗り、イエスから声をかけてもらいます。イエスを信じる人になってイエスと出会うこと。それが女性に積ませたい体験だったのです。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験を、この女性は積んだのです。

会堂長ヤイロは、きっとその光景を目に焼き付けたでしょう。すでにイエスを信じ始めていましたが、試練を受けることになります。会堂長の家から人々がやって来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(5・35)と、人間的な希望を断ち切られてしまうのです。

会堂長にとって、娘が回復することがイエスに近づいた目的ですから、人間的にはもうイエスに期待することは何もありません。そんなヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)と言いました。イエスにとって会堂長ヤイロに積ませたい体験は、まだ終わっていないからです。

「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)これに対し周囲の人々はイエスをあざ笑います。人々の嘲笑は、会堂長ヤイロにとっても試練です。これ以上イエスを信じ続けることができるだろうかと、迷いやためらいが生じても不思議ではありません。

しかしイエスはヤイロの娘を生き返らせ、父親に返してくださいました。「タリタ、クム」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(5・41)。ここでヤイロは自分が最初に持っていた目的にたどり着いたのでしょうか。

それだけではないと思います。会堂長ヤイロは、娘の回復という目的のその向こうに、たどり着いたのです。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験を、ヤイロは積んだのです。ここまで、会堂長ヤイロの物語とイエスの服に触れる女性の話が、イエスによって同じ体験を積ませるための物語であることが理解できたと思います。

さて私たちに当てはめてみましょう。イエスはすべての人に、同じ体験を積ませようと考えておられます。イエスの服に触れるだけの出会いではなく、自分の娘を返してもらうだけの出会いでもなく、イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験を、すべての人に与えようとされるのです。

私の父は肺がんで亡くなりました。71歳でした。担当した医師はカトリック信者でした。「余命半年でしょう」と告知を受けて、その通り半年で旅立っていきました。最後の半年、どのような精神状態だったか知るよしもありませんが、担当した医師には「自分は神様を信じているから何も怖くない」と、それだけ伝えたそうです。実際にはそれだけではなかったと思いますが、根底にある覚悟は揺らぐことはなかったのでしょう。

私なら「余命半年です」と担当医に言われたら食ってかかるでしょう。「そんなはずはない。認められない」と。しかし私の父は、自分のことだけ考えていたのではなく、司祭となった息子のためにも、最後の教えを残そうとしていたのだと思います。「私は神様に出会ったから、恐れずに自分を委ねることが出来る。」もしそうだとしたら、私は父親の最後の半年を通して、イエスと出会わせてもらったのだと思います。

伊王島から月に一度、病院を見舞いました。刻々と姿が変わっていく中で、ついに一度も「父を取り上げないでください」とは祈りませんでした。「信仰の道から逸れないように、最期まで歩ませてください」その思いだけでした。5月31日の命日が来るたび、祭服を着てイエスに触れるだけではない、私を救ってくださったイエスに出会わせてくださった父に感謝しています。

イエスはすべての人に、「ご自身と出会って救われた」そういう体験を積ませようとしています。最終的にはそれが人々に証しすることの出来る唯一の体験です。これまでの人生を振り返って、人に証し出来る救いの体験、信仰の体験に思い当たるでしょうか。

イエスが必ず、この体験をすべての人に積ませようとしているのであれば、それは必ず見つかるはず、あるいは必ず体験するはずです。ですから私たちは、人に証しするだけの救いの体験を積んで、必ず宣教する人になれるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マルコ6:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼国の重要文化財である田平天主堂の耐震補強工事には国・県・市・所有者が関わってくるが、現在の平戸市文化交流課の渉外担当の方は私と野球の話が合う。広島カープファンかどうかは分からないが、この前も「神父様、交流戦で今シーズンは終わっちゃいましたね」と言われ、「そうそう。完全に終わったね」と返した。
▼私は広島カープのファンではあるけれども、カープの歴代選手、カープの歴史まで掘り下げてのファンではない。私がテレビで観た範囲の選手しか知らないので、「江夏の21球」みたいな話では盛り上がることができない。
▼ところがこの文化交流課の担当者は実に詳しい。負けても負けても嫌いになれないカープの話をしながら、今年計画している耐震工事の事前の準備を着実に前に進めていこう。

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今週の1枚
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第735回目。YouTubeにアップするミサ動画、これからこの画像で統一。いかが?

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年間第12主日(マルコ4:35-41)御父に信頼するイエスを現す人になろう

2021-06-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/6/20(No.1127)
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年間第12主日(マルコ4:35-41)
御父に信頼するイエスを現す人になろう
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「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(4・35)唐突とも思えるイエスの願いを掘り下げることから始めましょう。ガリラヤ湖は非常に広い湖です。南北に21キロ、東西に13キロ広がっています。日本一大きな琵琶湖と比べると面積で4分の1になります。

「夕方になって」イエスは湖の向こう岸に渡りたいと言っています。群衆を解散させるためでしょうか。しかし日が落ちてから移動することは危険を伴うでしょう。あえて危険を、信仰体験の場に選んだのでしょうか。

「向こう岸に渡ろう」と言っています。イエスはカファルナウムを活動の中心にしていましたから、向こう岸はガリラヤ湖の東岸になるでしょうか。そうなると、東西は最大で13キロの幅があります。13キロがどれくらいの距離かというと、平戸港から定期船が出ている的山大島港くらいの距離です。仮に、「神父さん、船外機で大島まで渡してくれ」と言われても、私でしたら「勘弁してくれ」と言うでしょうね。

なぜか?私はふだん生向港から出港しておりますが、対岸はちょうど「梅屋敷偕楽園(うめやしきかいらくえん)」です。対岸までおよそ3キロ、13キロはその4倍以上です。3キロの対岸でも急に雲行きが怪しくなるとか、何が起こるか分からない時があるのに、13キロ先の対岸まで二千年前にエンジンも付いていない舟で渡るというのはかなり勇気が要ったことでしょう。

こうしたことを踏まえると、何の目的もなく「向こう岸に渡ろう」と言ったとはとても思えません。先に述べたように、危険の中で、信仰体験を積ませるためだったと考えるべきでしょう。単に危険な場面を乗り切る体験ではなく、危険な中にあって、どのようにイエスへの信頼を保ち続けるか。そのために出来事が用意されていたのです。

小舟で海に出ると、自然の大きさの前に自分があまりにもか弱いと思い知らされます。波に翻弄され、航行する何千トン、何万トンの船に怯え、時々やって来る海上保安庁の巡視船に説明責任を果たす。司祭館で大きな顔をしていても、海の上では小さな存在です。

漁師のベテランであるはずの弟子たちがうろたえるほど、湖は荒れてきました。ガリラヤ湖は周囲を山に囲まれた上に、海抜はマイナス213mです。300mの山から吹き下ろす風は、実際には500mの吹き下ろす突風になり、恐ろしさで気が動転したのでしょう。無理もありません。

弟子たちは慌てふためいているのに、イエスは艫のほうで眠っています。ここには、御父へのイエスの絶対の信頼が示されているのですが、弟子たちは自然の脅威に対処することしか頭にありませんでした。私たちが同じ場所に居合わせても、同じことになっていたでしょう。

イエスは眠っておられたとは言え、弟子たちの心配を十分ご存知だったはずです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。」(4・39)イエスが弟子たちの心配に寄り添ってくれたのは、弟子たちの心配をまず取り除きたかったからです。

もちろん、それだけでは終わりません。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(4・40)自然の脅威に震えている弟子たちに、自然を支配しておられる方に目を向けさせ、そのお方にすべてを委ねるなら平安が得られると、身をもって示したのです。人としては、イエスも木の葉のように揺れる舟に翻弄される一人の人間ですが、神の子としては自然を支配する御父に全幅の信頼を寄せて、危険の中でも動じないのです。

一度だけ、模範を示すことが出来た場面がありました。大島崎戸が管轄だった太田尾小教区時代に、希望者を募って上五島巡礼に行きました。ところが滞在中に天気が悪化して、フェリーが欠航してしまいました。帰りの予定を延期すればよかったのでしょうが、宿泊費がかさみます。お財布も心配だったので、瀬渡しの船を出している業者に電話したら、船を出してくれることになりました。フェリーが欠航する悪天候です。

瀬渡しの船内に入った婦人部の皆さんは、大島に帰ることが出来る喜びで浮かれていました。料理の小皿を取り出して「チャンカチャンカチャンカチャンカ」皿踊りをしています。ところが出港して湾を出た途端、船がジャンプし始めまして、頭が天井に付くくらいになりました。すると婦人部の皆さんは、手の裏を返したように「めでたし聖寵、めでたし聖寵!」と言い始めたのです。

私はと言うと、「フェリーが欠航するくらいだから、まぁこんなものだろう。船長と神様に任せるしかない」そう考えて、おびえる女性部の皆さんの前で堂々とあぐらをかいて座っていたのです。慌てない私を見て、女性部はようやく落ち着きを取り戻したのでした。具合が悪くなりながらも、帰り着くことが出来ました。

イエスのような絶対の信頼ではなかったにせよ、イエスを知る人が誰か一人でも、周りの人の恐れや不安を取り除く「しるし」になれたらいいと思います。私たちは「旅する教会」であり、たくさんの人と出会い、キリスト教の信仰を知らない人にはキリストを知らせる「しるし」となることが期待されています。

イエスは御父への完全な信頼を見せて、私たちのそばで眠っておられます。ときには「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(4・38)と言いたくなることもあるでしょう。それでも、イエスがそばにいることは間違いありません。どんな恐怖の中でも、「私はイエスが共にいてくださるから大丈夫」と言葉や態度で人々に証明できるように、勇気と力を願いましょう。

今になって考えるのですが、冬の時化の中で何年も実家と神学校を往復した五島の神学生たちは、心配そうな顔をしていた多くの乗船客にとって、安心感を覚える拠り所となっていたのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日(マルコ5:21-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼今は司教様となられた先輩から、「最近広島カープの話が出ませんね」と声をかけられた。絶好調のチームを応援する先輩だから、余裕のコメントが出るのは当然のことだ。広島カープは交流戦で徹底的にたたきのめされ、今シーズンは「誰が個人タイトルを取るか」「FAで誰が流出するか」そんなささやかな話題しか残っていない。
▼交流戦はあまりにも痛かった。3勝12敗3引き分け。これで今シーズンは終わりだ。だが収穫も確実にある。キャッチャーとしてドラフト一位指名した中村奨成選手、初勝利が見えてきた玉村昇悟選手。そしてごひいきの小園海斗選手。この3人の成長ぶりを目を細めながら、今シーズンは辛抱して過ごそう。

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今週の1枚
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第734回目。話せば長くなるがここで大物がかかったらしくラインを切られた。

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年間第11主日(マルコ4:26-34)イエス・キリストは身を寄せる陰、巣を作る拠り所

2021-06-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/6/13(No.1126)
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年間第11主日(マルコ4:26-34)
イエス・キリストは身を寄せる陰、巣を作る拠り所
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年間の主日に入りました。今週から「年間第11主日」のように単調な呼び方の主日を重ねていきます。少しでも福音朗読の学びを工夫して、記憶にとどめるようにしたいと思います。

「福音朗読の学びを工夫する」と言いましたが、韓国語で「勉強する」という単語の基本形は「コンブハダ(韓国語)」といって、日本語では「工夫する」を連想させる単語が使われています。なぜ韓国語の単語を思い出したかというと、まだ勉強を諦めていないからです。

今もNHKハングル講座にしがみついておりまして、韓国語でミサをささげて、皆さんが呆気にとられながらミサにあずかる。これが私の韓国語学習の最終目的であります。ミサにあずかって呆気にとられるのはあくまでも田平教会の皆さんであって、他の教会の信者ではありません。気持ちはまだ失っておりません。

さて今週のたとえは、「成長する種」のたとえでした。具体的に「からし種」のたとえが紹介されていますので、「からし種」のたとえから学びを得ることにしましょう。

いろいろ調べてみると、「からし種」と言われている種はひょっとしたら「からし」ではない可能性があります。それはここでは取り扱いませんが、仮に「黒からし」の種だとすると、この種は成長すると2メートル半くらいまで伸びるようです。ただ、2メートル半に伸びた植物に鳥が巣を作るのかと言われると、これはこれで疑問であります。

いずれにせよ、「種の小ささ」と「成長した時の大きさ」が強調されて神の国を説明しているわけです。神の国の始まりは、あまりにも小さい。けれども、成長して陰を作るし、成長して鳥が巣を作るのです。

カンカン照りの中で、陰を作る場所がどれだけありがたいかは皆さんもよくご存知でしょう。私はボート釣りに出て、どこにも陰がない中で2時間釣りをしたりしますが、釣れなければそれはバーベキューの鉄板で焼かれているようなものです。時々通過する雲のなんとありがたいことでしょう。

鳥が巣を作ることにしても、か弱いいのちである雛を安全に育てるための巣です。天敵から身を守れる場所でなければなりません。今年はツバメが教会に来ていませんが、毎年決まって、教会の南側玄関に巣を作ります。巣を作るスペースはほんの僅かですが、この場所の風を避けるためには、この聖堂のような大きなよりどころが必要なのでしょう。

さてここまで考えてきて、神の国とは何なのか。分からなくなってきました。今日皆さんに、神の国をどう示せば良いのか、頭を抱えてしまいました。ようやく出てきた答えは「神の国とは、イエス・キリストのことである」ということでした。

そう思って考えてみると、イエス・キリストはこの地上に御父から種蒔かれた神の独り子です。小さな国に過ぎないユダヤのヘロデ王から命を狙われるほど、「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さい」(4・31)始まりでしたが、語られることばと一つひとつの振る舞いは、「成長してどんな野菜よりも大きくなり」(4・32)、信じる人々には陰を提供し、か弱い命を守り育てる巣を作る拠り所となったのでした。

もし、「成長する種」のたとえで言われている神の国がイエス・キリストであるなら、私たちはどう振る舞えば良いのでしょうか。一つはイエス・キリストの陰に身を置き、巣を作る拠り所とすることです。私たちが陰として身を置くのは権力や金ではないのです。巣を作る拠り所もそうです。

もう一つの振る舞いは、神の国がイエス・キリストであるなら、私たちもイエス・キリストと一緒に、まだ教えを知らない人、信仰に導かれる可能性のある人たちの身を寄せる陰、巣を作る拠り所になるということです。

田平教会は聖堂の保存修理と耐震補強に取りかかる準備を始めました。あと2年もすれば、聖堂に足場がかけられて、しばらくは聖堂が使えなくなるでしょう。しかし保存修理と耐震補強を終えれば、安全性が高まった聖堂に生まれ変わります。これまで以上に、私たちの身を寄せる陰、拠り所となるでしょう。

さらに耐震工事を終えた同じ聖堂は、すべての人にとって拠り所となるでしょう。その日はまだ来ていませんが、一つずつ段階を踏んで、生まれ変わった聖堂を祝う日が必ず来ます。これは私たちにできる証し、イエス・キリストが神の国であることを人々に知らせ、すべての人の拠り所にしてもらう具体的な取り組みなのです。

神の国には、暑さをよける「陰」があります。弱い命が守られる「巣」を作る場所もあります。その「神の国」とはイエス・キリストそのものでもあります。イエス・キリストのもとで陰を見つけ、巣を作る場所を得ましょう。そしてイエスを知らない多くの人にも、陰を求めることが出来る、巣を作ることが出来ることを証ししていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日(マルコ4:35-41)
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ちょっとひとやすみ
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▼QRコード。見事に生活の一部になった。この前、学校説明会のポスターにも「詳しくはコチラ」と書いて、QRコード。これにはビックリした。
▼ただし、田舎の生活の一部になったか?と言われたら、まだまだと言わざるを得ない。田平教会の小教区報「瀬戸山の風」にも、主任司祭の記事にQRコードを埋めているが、すべての小教区信徒がこれを活用できる日はいつ来るだろうか。

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今週の1枚
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第733回目。夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。

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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)そこにわたしたちのために準備をしておきなさい

2021-06-05 | Weblog
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「今週の説教」
2021/6/6(No.1125)
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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
そこにわたしたちのために準備をしておきなさい
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「すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」(14・15)キリストの聖体の祭日を迎えました。私たちが囲んでいる祭壇で用意される聖体の秘跡を、冒頭に引用した言葉をヒントに学ぶことにしましょう。

佐世保市にハウステンボスというレジャー施設があります。田平教会に転勤してからはとんとご無沙汰していますが、以前は年に三回、気分転換に出かけていました。それには理由があって、年間パスポートを維持していたからです。年に三回利用すれば、しっかり元が取れていました。ある年から、割に合わなくなったので年間パスポートを更新せず、それっきり行かなくなりました。

利用していた頃、施設内のちょっとお高いレストランで食事をすることがありました。皆さんご存知か分かりませんが、「上柿本勝シェフ」監修の料理が出るレストランでした。ふだん食べる食事代の三倍くらいするでしょうか。まぁそれでも、サービスも含めて値段に見合っていたと思います。

たぶん、そのレストランであっても、実際に上柿本シェフが腕を振るっているのはまれでしょう。ですから私が食べた料理は、十分教育されたお弟子さんたちが調理場に立って腕を振るっていたのだと思います。もし、「本日は総料理長が直々に腕を振るいました」なんてことがあったら、それこそ幸運な話です。

さて、私たちが囲んでいる祭壇は、誰がどのような料理を振る舞ってくださるのでしょうか。司祭が料理を振る舞うのでしょうか?いいえ、違います。私たちに振る舞われているのはイエス・キリストの御体と御血ですから、私のような者が料理することは不可能です。

誰も、イエス・キリストの御体と御血を取り分けて、「取って食べなさい」と言うことはできないのです。ここではイエス・キリストが確かに食事を用意してくださり、「みな、これを取って食べなさい」「みな、これを受けて飲みなさい」と招いてくださるのです。

司祭はあえて言えば、今週の福音朗読に登場する「水がめを運んでいる男」かも知れません。あるいはカナの婚礼でぶどう酒に変わった水を宴会場に運ぶ給仕係かも知れません。祭壇に供えられた最上の食べ物を、修道者、信徒に給仕する。その忠実な僕が司祭と言えましょう。

ここまで、祭壇上の食卓のことを話しましたが、朗読台で読み上げられている「みことばの食卓」についても同じです。この朗読台で用意される食卓に並ぶ食べ物も、「神のことば」です。特徴的なのが司祭が福音朗読後に唱える言葉「主のみことば」です。皆さんはそれに対して「キリストに賛美」と答えます。

みことばの食卓の中心はあくまで「神のことば」、司祭は神のことばを何とかして会衆に届けるのが務めです。司祭それぞれの工夫をして、神のことばが配られ、修道者、信徒を通してすべての人に届けられるようにと、日夜努力しているわけです。

ある叙階式ミサの講話で印象深い話を聞きました。司祭のミサは地上で行われる最高の活動であり、一度だけのミサであっても、そのミサがもたらす恩恵は計り知れない。もし、叙階されたばかりの新司祭が初ミサを終えてそのまま天に召されたとしても、地上での最高の活動を終えて天に召されたと言える、そういう内容でした。

振り返って私は、そこまでの意識が司祭になった当時あったのかと問うと、残念ながらそこまでの自覚はありませんでした。今は、祭壇でささげられるイエス・キリストの犠牲に、私を使ってもらっていることがどんなに尊い働きか、感じられるようになりました。そこで私たちみなが、どのような心構えでミサにあずかるかが問われてきます。

地上での最高の働きにあずかるために、どのような心構えが必要なのでしょうか。少なくとも「聖体拝領の一時間前には、飲食を終えること」が求められています。ただし、これは最低限の教会の掟です。たとえば皆さんが、日本最高のシェフが直々に振る舞う料理に招待されたなら、一時間前に飲食を終えるだけで準備は事足りるでしょうか?

私なら、どんなシェフなのか、予備知識を持って食事に備えます。また、サンダルにジャージで行ったりはしないでしょう。お財布も、仮にご招待券を持っていたとしても、持っていくと思います。これらをミサに当てはめるなら、聖堂内にある「聖書と典礼」に目を通して、今日のミサの予備知識を入れてミサに備えましょう。

服装は短パンとTシャツよりも、たとえば自分が聖書朗読をお願いされたらどんな服装で出席するだろうかと考えてみると良いでしょう。そして、お賽銭の用意です。最高のシェフが振る舞う料理のお会計は何十何円の一円単位ではないでしょう。私も一円までお賽銭を数えるのは疲れます。

十分な準備があれば、最高のもてなしの恩恵を十分に受けるでしょう。イエスが「席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と言ったのは、私たちがよりよい準備をして、着席することを言っているのではないでしょうか。今日も、すべての人が食べて満足する「神の小羊の食卓」を、イエス自らが、私たちに振る舞ってくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日(マルコ4:26-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼YouTube(ユーチューブ)で公式ミサのあるなしにかかわらず動画をアップしている。どこで見られているのかは分からないが、必要としている人がいることは確かに感じる。もう少し同じような取り組みがあればいいのに、と思うが、出来ないのかそれとも興味が無いのだろうか。
▼最近ミサ動画以外の動画の視聴数が増えている。目的を限定している動画なので、「これくらいの人数が視聴するだろう」と想定している視聴数を超えることがある。不思議な現象だと思っていたが、視聴数増加の思わぬ原因が分かった。
▼詳しい内容までは控えるが、きっとこのまま視聴数が増加すると思う。視聴数を意識しすぎるのは良くないが、これからも充実させる動機付けにしたい。

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今週の1枚
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第732回目。ありがたいことに、聖霊降臨の主日ミサ動画が、視聴100回を超えた

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