こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マタイ21:28-32)自分に能力があって「後で考え直す」のではない

2017-09-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/10/1(No.906)
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年間第26主日
(マタイ21:28-32)
自分に能力があって「後で考え直す」のではない
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今週年間第26主日の福音朗読「二人の息子」のたとえは、さらっと書かれていますが疑問が残ったままです。この疑問に正面から向き合うことが、たとえをよりよく理解する鍵なのではないかと考えました。

月が替わり、9月のことはすべて忘れてしまいました。司祭団ソフトボール大会でわたしと地区長神父様が打線の大ブレーキになったことも、守備に就いているときに浦上教会のK・Y神父様から痛烈な二塁打を浴びたことも、簡単なライトフライを右手、左手、右手とお手玉して落球したことも、すべて忘れました。

いやなことはすべて置いて帰ってきたのに、なぜかわたしの手元には珍プレー賞の商品があります。守備でお手玉したのが授賞理由だそうです。いらないのでとっとと木曜会に持っていこうと思います。とにかくすべて、忘れました。

福音朗読に戻りましょう。たとえの中で父親が二人の息子それぞれにぶどう園に行って働きなさいと促します。兄は「いやです」と答えましたが後で考え直して出かけました。この兄は問題ありません。

問題は弟です。同じことを言うと弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかったのです。では弟が出かけなかったことを、父親はいっさい気にもかけず、問題にもしなかったのでしょうか。

イエスはこのたとえを神の国に入る人になぞらえています。神の国に入るかどうかという重大な問題につながるとすれば、「後で考え直して」取るべき行動を取らなかった人々をいっさい気にもかけず、問題にもしないのでしょうか。

先週の「ぶどう園の労働者」のたとえを踏まえて考えると、むしろイエスは「後で考え直して」行動を取らない人々をいつまでも気にかける方だと思います。先週のぶどう園の主人は、最後まで、広場で何もしないで立っている人をぶどう園に送り込みました。このことを合わせて考えれば、「お父さん、承知しました」と答えたのに出かけなかった息子のうちの弟は、いつまでも気にかかっていると思うのです。

たとえから読み取れるわけではありませんが、神の国に入る人々を示そうとするたとえの中で、どちらの息子も、父親の望みに応じてほしいと願っているはずです。先週も話しましたが、ぶどう園は日没になるまでに収穫を終えるために、猫の手も借りたいほどになるのです。

本来ならぶどう園での作業は、農夫たちに任せて息子たちにはさせたりしないのかもしれません。けれども背に腹は代えられず、「悪いけれども、手伝ってくれないか」と声をかけたのではないでしょうか。

ひょっとしたら「いやです」と答えて後で考え直して出かけた兄は、最後の一時間しか働かなかったかもしれません。そして弟には、収穫も終わろうとしている夕方五時に声をかけ、「お父さん、承知しました」と答えたのにそれでも出かけなかったのかもしれません。一時間しか働かなかったとしても、兄は父親の望みに最終的には応じてくれたのですから、父親は喜んでいるのだと思います。

父親が一日の初めに息子の兄のほうに声をかけて、あとで考え直して兄が最後の一時間働いた。弟は最後の一時間になって声をかけて返事だけは良かったけれども応じなかった。もちろんそこまで書かれてはいませんが、これはわたしたちの人生の縮図なのかもしれません。

神はある人には人生の初めから声をかけて、神の望みに応じてくれるように促します。ある人は人生の最後になって神の呼びかけがあっていると感じます。早くから洗礼を受けて、教会につながっている人と、人生の終わりになってキリスト教を意識する人に当てはめてもよいでしょう。

小さいころから教会に行けと言われていると、ある人は「いやだ」と感じるかもしれません。それでも後で考え直して、教会とのつながりを優先する人は、神の国から遠くない人々です。「歳を取ったら洗礼受けます」「定年したら教会に行きます」と色よい返事をして、とうとう教会のお世話にならなかった。こうなるとその人たちが神の国に入るのは、ずっと後になるのかもしれません。

いずれにしても、神の国に入る道となってくださったイエスを、ほとんどすべての人は人生のどこかで目にするのです。教会という見える集まりを通して、書物を通して、キリスト者一人ひとりを通して、招きを受けるのです。

わたしたちも弱さがあるので、ある時期は「いやです」と言うかもしれません。けれども後で考え直す。その機会をイエスは与えてくださいます。広場に何度も労働者を雇いに行くぶどう園の主人のように、何度も考え直す機会を与えて、人生全体が最終的に神の望みに答える人生となるように、辛抱強く見守っておられるのです。

「わたしたちはいざとなれば教会に戻ることができる。」もしこのように言う人がいるなら、一つだけ考えてほしいのです。「いざとなった時」は、本当にわたしが用意できるだろうか、ということです。未来を用意するのは人間ではなく、すべてを導いている神です。神が「いざとなった時」を用意してくれないなら、わたしたちが立ち返るつもりにしていた時もやってこないと思うのです。

「道、真理、いのち」であるイエスに、謙虚に従っていく人生を積み上げましょう。「いやです」と答える時期があったとしても、「後で考え直す」人であり続けましょう。わたしたちがこのような生き方を示せば、「わたしは自分でいつでも反省して神の国に入ることができる」と思い違いをしている人にも、良いお手本となることができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マタイ21:33-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団ソフトボール大会。第一試合は長崎(あ)チーム対五島チーム。互いに打ち合いで5対5の引き分け。第二試合、五島チーム対佐世保・平戸チーム。互いに打線に活気がなく、1対0で最終回に引き分けに。
▼この試合で佐世保・平戸チームの6番ライトで先発したが、捉えたと思った当たりはセンターフライ。あとひと伸びがないのは風のせいと言いたいが、力がない証拠。この試合でまずM・T神父に痛烈な二塁打を浴びる。明らかに狙われている。
▼第三試合は午後いちの試合。長崎(い)チーム対佐世保・平戸チーム。この試合は相手チームの打線が活発で、いいところに球が落ちた。その上にまたわたしの守備のライトを狙い打たれ、F・T神父のポテンヒットと二塁打、仕上げは浦上のK・Y神父に痛烈な二塁打を打たれた。K・Yとはよく言ったものだ。出身教会は田平教会なのだから、ちょっと遠慮してくれよ~。
▼バッティングは当たってはいるのだが、最後の伸びがない。この試合でも捉えた、と思った球が外野を越えなかった。もはや力任せにバットを振っても、チームには貢献できないのだろうか。
▼そんな中、R・Y神父だけは、ホームランラインが何メートルだろうが、それをはるかに越えてホームランをかっ飛ばした。しかも一人で二本である。彼の打球はたとえたら大谷選手の打球である。あっけにとられた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第513回目。珍プレー賞でも嬉しそうだな。

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年間第25主日(マタイ20:1-16)あなたの計る物差しは天の父が与えてくださる

2017-09-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/9/24(No.905)
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年間第25主日
(マタイ20:1-16)
あなたの計る物差しは天の父が与えてくださる
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今週の朗読は「ぶどう園の労働者」のたとえで、たとえに登場する主人の考え方にどこまで賛成できるかが問われています。何かが引っかかって、このたとえに登場する主人の考え方に賛成できないわたしたち。どこをどう変えていけば、喜んで賛成できるようになるのでしょうか。

18日敬老の日、甲子園球場に行ってきました。感激しました。この話だけでも30分は語りたいですが、だれも喜ばないので手短に。

まず福岡空港から飛行機で伊丹空港に飛びました。飛行機で大阪に降りてみると、すでにタイガースファンがうろうろしていまして、「大変な場所に来てしまった」とつくづく思いました。周りは敵ばかりという張り詰めた雰囲気で球場に向かうバスに乗りました。

球場が近づくとあら不思議。わたしと同じユニフォームを着た人たちが続々と集結しているではありませんか。これには勇気づけられました。いちばん危険な場所に行って、優勝を勝ち取って来る。並大抵の勇気ではできないことです。

おかげで甲子園を後にするときも、誰彼問わずカープファンから「ヘーイ!」とハイタッチを求められて、気軽に応じました。若い女の子ですら、おじさんのわたしにハイタッチをしてくるのですから、どれだけ盛り上がったかが想像できるでしょう。阪神ファンの皆様、大変聞き苦しい話になってしまったことをお詫びいたします。

福音朗読に戻りましょう。ぶどう園の主人は、時間を変えながら何度も労働者を雇いに出かけています。早くから雇った労働者はきっとやる気に満ちた人たちだったでしょう。

彼らは最終的にぶどう園の主人に不平を言いました。なぜか?わたしの想像ですが、賃金をもらう頃には雇ってもらった恩は忘れ果て、「働いてやったのにどういうことだ?」と開き直っているのです。開き直る権利などないはずなのに。

その後も定期的に労働者を雇い入れます。ぶどうの収穫は一刻を争う仕事なのだそうです。ですから最終的には猫の子も借りたいくらいになります。しかしながら広場に残っているのはやる気もあまりない人たちです。

やる気を見せていたら、とっくに雇われていたでしょう。最後の人たちとは、いわば履歴書の段階ではじかれ、面接すら受けさせてもらえず「どうせ俺たちを雇ってくれる人などいない」と投げやりになっている可能性が高いのです。

しかしぶどう園の主人は、この人たちの中に飛び込んで手を差し伸べます。「あなたもかけがえのない人です。わたしはあなたに人としてまともに暮らせるだけの仕事と賃金をあげましょう。」

やる気のあるなしにかかわらず、能力の有無にかかわらず、一人ひとりをかけがえのない人として受け入れる。これがぶどう園の主人が示した気前の良さでした。

投げやりになっていた人をかけがえのない人として扱ってくれたぶどう園の主人に、最後に雇われたグループの人たちはどう思うでしょうか。ただただ、感謝しか浮かばないのではないでしょうか。

今日も見捨てられるに違いない。今日もきっと人として扱われない。そう諦めていた人の中に飛び込んで手を差し伸べる。能力のある人だけが価値があり、ほかは価値がない。そうやって差をつける社会に、広場で突っ立っている人の中に飛び込むお方は問いかけるのです。「わたしは誰も拒まない。わたしの声に耳を傾けなさい。」

ある年の叙階式ミサで、司祭に叙階される方を育てた小教区の主任司祭が次のような説教をしました。「司祭がキリストの身分においてささげるミサは、永遠の価値がある。たとえ、司祭に叙階された者が一度しかミサをささげることができず、翌日には亡くなってしまったとしても、その人は完全に司祭職をまっとうしたのである。」言葉はまったく同じではないかもしれませんが、おおよそそのような説教でした。

わたしは、「そうかなぁ」と思いながら聞いたのを覚えています。「十何年、司祭職を目指しで準備を続けたのに、一日しかミサをささげることができなかったとしたら責任を問われるでしょう。」わたしはそう考えたのです。

きっとわたしも、賃金をもらうために行列に並んでいる一人なのだと思います。しかも、25年このかた司祭として働いて、数えきれないほどミサをささげて、それなのに父なる神の気前の良さを忘れ果て、「働いてやっているんだから報酬をくれ」と列に並んでいる者に違いありません。そして一日しかミサをささげることができなかった司祭を見て、「あの人よりはましだ」と思っている人間。それがわたしなのだと思います。

どうすれば、最初から初めて最後の者まで気前良くしてくださる神の思いに賛成ですと答えることができるのでしょうか。わたしは大切なことを忘れていました。主の祈りは次のように祈っています。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」

「みこころ」とは、たとえ話のぶどう園の主人が示した「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(20・14)という態度にほかなりません。どうか、みこころが地にも行われますようにと、わたしたちは毎日、もしかしたら日に何度も、願っているのでした。

言葉に裏表があってはいけません。わたしたちは祈っているのですから、最後に一時間だけ協力した人に神がねぎらいの言葉をかけるのならば、わたしたちはそれに賛成しますと、答えなければなりません。わたしたちが神の子となるためです。この世が大切にしている仕事の量、仕事の質で計る物差しを横において、わたしたちが計る物差しは、天の父が示した物差しですと、きっぱり言える生き方をしましょう。そのための恵みをミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マタイ21:28-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼危うく小教区報に穴を開けるところだった。田平小教区は月末の日曜日に小教区報を発行しているが、今月は24日が最終日曜日である。わたしはもう一度日曜日があるくらいに考えてのんびりしていたがよく考えると来週は10月1日が日曜日ではないか。
▼あわてて原稿作成に取り組む。主任司祭が用意するものは3つ。1つは主任司祭に割り当てられている毎月1頁のお話。1つは人物の動静。1つは主任司祭の来月の行動予定。分量としては1頁の話がいちばん多いが、作業としてはいちばん楽かもしれない。
▼むしろ人物の動静と、来月の日程表の提出が大変だったりする。来月の日程などはいつも「来月の分は早めに準備しておこう」と思うのだが、結局ギリギリになって予定を埋めていく。そうして、3つの責任が重なって重荷になる。
▼まあ、それでも仕事をしているのは楽しいものだ。今週の「ぶどう園の労働者」のたとえでも、主人が雇い人に最後まで仕事を与えるのは、人が労働をすることで人間らしさを回復することを知っているからである。毎日、時を無為に過ごせば、いつか人間としての誇りも失ってしまう。
▼それでも、同じ仕事をいつまで同じようにできるか、心配になることは多い。キーボード入力しているこの両手も、いつまで正常に動いてくれるかわからないし、声もいつまで失わずにいられるか分かったものではない。人間はいつまでも期待するが、それは期待しすぎである。
▼今週も、何とか説教も仕上がったし、締め切りの迫った小教区報の原稿も整った。大きな仕事としては、百周年記念誌の原稿が気がかりだ。無事に原稿が集まり、日の目を見ることを切に願っている。

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今週の1枚
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第512回目。甲子園で、真っ赤。甲子園で、胴上げ。甲子園で、泣いた。

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† 神に感謝 †
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年間第24主日(マタイ18:21-35)この世の損も神との絆には代えられない

2017-09-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/9/17(No.904)
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年間第24主日
(マタイ18:21-35)
この世の損も神との絆には代えられない
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年間第24主日A年の朗読で紹介されたたとえは、この世での損をあえて取ってでも、恵みが働く体験を失うべきではないと教えています。わたしたちの生活を見まわして、神の望みに答えていく具体的な道を考えることにしましょう。

最近司祭館玄関で面白い会話がありました。20代かなぁと思う女性がおいでになって、用件が済んだので帰ろうとしました。玄関は網戸が閉めてあったのですが、女性が網戸ではなくサッシの扉に手をかけてこう言いました。「お閉めしましょうか?」

わたしはとっさにこう答えました。「お構いなく。」ていねいに言ったつもりなのでしょうが、あの場面では「お」を付けずに「閉めましょうか?」で十分だと思いました。20代の女性にあらためて指摘はしませんでしたが、わたしには「おしめ」「しましょうか」に聞こえました。

今日は焼罪殉教祭です。この説教を書き終えたのは14日(木)なので、当日どうなっているのか見当もつきませんが、おそらく天気は良くはなっていないでしょう。残念ながら焼罪公園でのミサは取りやめになって、田平教会でのミサに変更になっているでしょうか。あるいはもっと天候が悪化して、田平教会での開催も断念しているでしょうか。

また17日の前後も天気に左右される予定がありました。前日の保育園運動会は、どうにか実施となっているのでしょうか。それから18日敬老の日は、甲子園球場に出かける予定です。台風がどこまで移動しているかで、飛行機も影響を受けます。こうしてみると、自然の力には、人間の思惑などひとたまりもないと思い知らされます。

福音朗読に入りましょう。先週の「兄弟の忠告」を念頭に置いて考えると、イエスの「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18・22)の意味がより分かりやすくなると思います。

兄弟の忠告に際して、最後まで見捨てないで忠告し、仲間を得ようとする態度が必要でした。今週のたとえでも、主人は僕を最後まで赦して、できれば僕との絆を失いたくないと考えています。イエスが求める赦しの本質がここに現れています。赦しは、最後まで相手との絆を保ち続けようとする天の父の思いの現れなのです。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18・21)「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(18・22)

わたしはゆるしの秘跡の場で、「赦しは恵みです。赦す心が備わっているから人を赦すのではなく、赦す力を恵みとしていただいて、人を赦すことができるのです」と話してあげることがあります。赦しが人間の努力とか能力であるなら、ゆるしの秘跡という恵みの場は必要ありません。

そうではなく、人を赦すのは、いつもそこに恵みが働いているのです。たとえ話に登場する一万タラントン借金している僕は、自分に百デナリオン借金している仲間を赦す力があったはずです。百デナリオンの借金を取り立てないと、明日を迎えられない人ではなかったでしょう。それなのに、仲間に憐れみをかけませんでした。自分が王に憐れみをかけてもらって王の僕であり続けることができたというのに、自分の仲間には仲間であり続けるための憐れみを拒んだのです。赦す能力を持ち合わせていても、そこに恵みが働かなければ、体験できないのです。

赦しが、つねに恵みの働く場であるなら、七回まで赦して恵みの体験を制限してよいでしょうか。「七の七十倍まで」つまり恵みの働く体験を何度でも、制限なく味わうべきではないでしょうか。イエスが赦しに限度を置かなかったのは、恵みが働く体験を制限する必要があるだろうか、そう問いかけたかったのです。

わたしの耳には、小教区内のいろんな人の声が聞こえてきます。腹立たしい話も、赦しがたい話も聞こえてきます。しかし、腹立たしさをこらえて、赦しがたいことも忍耐するとき、そこに恵みが働き、ゆるしの体験ができるのだと思います。

腹立たしいことをしていて自覚がない。赦しがたい振る舞いに気が付かない。はたから見れば哀れな人ですが、そうした人を赦してあげなければ、恵みの体験をみすみす逃すことになります。たとえ話を通してイエスは、天の父がどれだけ損をしても赦しを与え、わたしたちを滅びから救い出そうとなさるのだと教えておられます。人が神との絆を失って滅びるよりも、一万タラントン損して絆を保つことを天の父は選ぶのです。

そうであるなら、わたしたちも田平教会家族という絆を断ち切るよりも、自分が損を取ってその人を赦してあげましょう。この世の損は、だれかを田平教会家族から断ち切る損に比べれば小さいのです。この世の損は、天の父が弁償してくださいます。田平教会家族を切り捨てる損は、弁償できない損なのです。

わたしたちがお手本とするのは、一万タラントンの損を取って、王との絆を保とうとするお方です。この方向に舵を切る力は、恵みによってしか与えられません。神が赦しの恵みをわたしたちに与えてくださり、田平教会家族を一人も失うことのないように、このミサで願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼説教を準備するとき、パソコンに向かって準備を進めるわけだが、勉強部屋にはテレビも置かれていて、木曜日は本当に説教準備の難しい日だった。なにせ広島カープがマジック2でこの日を迎え、マジック対象チームの阪神は巨人が相手、しかも菅野が先発になっていた。
▼これはほぼほぼ、「広島勝利」「阪神負け」で優勝決定、という願ってもない状況に見えた。だからテレビを背に、ほんの少し音声が聞こえるようにして、説教を書き続けていたが、一球ごとに声援が地鳴りのように聞こえて、背中のテレビを振り向いては勇気を振り絞ってパソコンに向き直る、その連続だった。
▼説教原稿もほぼ見通しがついて(適当に終わってではない)、ようやくパソコンの電源を落とし、テレビを見る。息詰まる試合展開、3対3の同点になった時は「18日に甲子園球場に行く予定だから、負けてもいいか」と本気で思っていた。
▼その後、広島の助っ人外国人がホームランで4対3と逆転する。そうなると安定したリリーフ陣と抑えがいるから、「仕方がない。ナマで優勝を観ることができないけれども、テレビを見ながら祝杯をあげるか」気持ちは固まりつつあった。
▼ところがまた同点。引き分けでは困る。負けてもいいよ、と思ったところ、またもや助っ人外国人が勝ち越しの犠牲フライ。試合も抑えがピシャリ締めて、あとは阪神に負けてもらえば・・・ところが30分以上待った結果は引き分けだった。
▼優勝は土曜日以降になる。ただし、台風の影響で17日(日)は試合が中止になる可能性が高い。もはや、土曜日の優勝ではなく、敬老の日(月)に、肉眼で優勝を見届けたい気持ちが高まってきた。阪神。かかってこいや。


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今週の1枚
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第511回目。ブラックモンブラン風エクレア。一人で食べ切るにはちょっと重。

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年間第23主日(マタイ18:15-20)忠告するのは神の光のもとに置くため

2017-09-09 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
忠告するのは神の光のもとに置くため
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わたしの車はETCが取り付けてあります。通常ETCレーンで降りるのですが、考え事をして佐々から乗って佐世保中央を通過してしまい、次の大塔でも動揺していたのか、ETCレーンではなく一般レーンに入り、そのまま通り過ぎようとしたのです。

すると係員が叫びながら飛んできました。「お金払って~。お客さんお金~。」係員の目には、一般レーンを不正通行しようとしている車に映ったのだと思います。ぼーっとしていたとは言え、わたしがそんな間違いをしたのがちょっとショックでした。監視カメラにもしっかり映ったことでしょう。

今週年間第23主日は「兄弟の忠告」について取り上げられています。誰かに忠告するのは難しいものです。上手な人でも難しいのですから、下手な人が忠告すれば、忠告したことがかえって分裂を引き起こしたり争いのもととなったりします。

ちなみに忠告が下手な部類の人たちがいます。ここに集まっている人の中では、主任司祭がいちばん下手だと思います。なぜかと言うと、主任司祭はいきなり祭壇の上から忠告したりするからです。

イエスは手順を踏んで忠告しなさいと言われました。「行って二人だけのところで忠告」「ほかに一人か二人、一緒に連れて行き、忠告」「それでも聞き入れなければ、教会に」教会の場を借りて忠告するのは最後の手段と考えるべきですが、主任司祭はいきなりそれを用いる危険があります。だから下手ということになります。

むしろ、問題を抱えている人に、二人だけのところで忠告したり、二人または三人の証人の口によって忠告したりできる皆さんのほうが、忠告は上手なのだと思います。主任司祭の忠告は「下手な人が忠告している」と思いながら聞いてください。

この前、今月の木曜会が開かれまして、お父さんたちと時間を過ごしておりました。ある教会行事にまつわることでわたしは改善を求めたくてある人に忠告しようと身構えて行きましたが、結局言わずじまいでした。イエスが示す原則に外れていたからです。

みんなが集まっている場で忠告すれば、「二人だけのところで忠告」に外れますし、自分一人で思い悩んで忠告しようとしていたので「一人または二人を連れて」という原則にも外れます。結局その場では言えませんでしたが、もし気付く人がいれば、主任司祭のせっかくの好意を台無しにされると主任司祭も気分が悪いよと、それだけヒントを言っておきたいと思います。司祭の下手な忠告でした。

忠告をするのは皆さんのほうが上手なことはすでに言いましたが、さらにその忠告を効果的なものとするために、イエスは次の言葉を付け加えました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18・19)

「わたしたちの忠告に耳を傾けてほしい。」言葉を選び、聞き入れてくれそうな場所や環境を整えて忠告しますが、本当に聞き入れてくれるかどうか、相手の心まではわかりません。そんな時、イエスの言葉は力強いと思います。心を一つにして祈り、聞き入れてくれるよう願うならば、その願いをかなえてくださるのです。

ここでも司祭と信徒の皆さんとの能力の差が現れます。司祭は家族もいないので、いつも一人で祈るしかありませんが、信徒の皆さんはより容易に誰かと一緒に心を一つにして祈ることができます。家族と祈るとか、パートナーと祈るとか、修道院でも共同体の姉妹とともに祈ることができます。ここでも司祭よりお集りの皆さんのほうが忠告に必要な恵みを神にかなえていただけるのです。

忠告を何度か試みる中で、最後の砦に教会がなっているのはなぜでしょうか。司祭の忠告が優れているからでしょうか。先ほどから申し上げている通り、司祭の忠告がいちばん下手なのです。そうではなく、教会が忠告の最後の砦になっているのは、教会の忠告は相手の人を神の光のもとにさらす働きがあるからです。

罪を犯した人を神の光のもとにおいて自分の過ちに気づき、悔い改める。そのために教会は最後の手段となっているのです。すると、二人だけのところで忠告する場合も、ほかに一人か二人連れて行って忠告する場合も、神の光のもとに相手を置くよう促すことが最も効果的な忠告なのだと言えるでしょう。

わたしは夢に描いていることがあります。わたしのもとに助任司祭が派遣されたとき、どんな共同生活をしようか、ということです。助任司祭をいただいたなら、初めてほかに一人、心を一つにして祈ることができるかもしれません。

ひょっとしたら、助任司祭に忠告することがあるかもしれません。その時、二人だけのところで忠告しようと思います。また、助任司祭が神の光のもとに自分を置くきっかけを与えられるような忠告をしたいと思っています。そんなことを、夢見ることがあるのです。

皆さんは違います。夢見なくても、今すぐにでも、イエスの勧めを取り入れて忠告することができます。忠告の必要な人を神の光のもとに置いて、一人でも多く兄弟を得ることができますように。神に願うことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マタイ18:21-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼辛抱が足りなくなってきているかもしれない。若い頃は短気を起こして迷惑をかけることがあったが、50歳を過ぎて短気を起こすと血圧が上がるとか何とか、そんなことを本気で思うようになって短気を起こすことはめったになくなっていた。
▼ここ最近で二度、やかんが沸騰した。一度は召命フェスティバルの時に、帰り際に田平教会の子供たちの集合写真を撮って帰ろうとしていた。ほとんどの子供がさっと集まって写真撮影に協力してくれたが、一人ノロノロと近づいてくる。周りは会場の後片付けをしていて、わたしたちが居残っているのが申し訳ない雰囲気になっている。
▼早く集合写真を撮影して、迷惑をかけている状況を脱したい。わたしは焦っていた。それなのにその一人の子は遠くから、ゆっくり歩いてくる。二度ほど、「写真を撮るからおいで」と促したのに聞こうとしない。そこでしびれを切らして「早く!」と怒鳴ってしまった。
▼今一度は、評議会の時である。自分に任せられた務めの大変さをいろいろ並べている評議員がいて、そのうちの一つの務めは、わたしが所有している道具を貸してあげれば何の問題もない用件だった。「わたしのところに○○○○があるよ。それを使えば問題ないでしょ。」
▼しかしその人はその後も大変な作業をして務めを果たしていると説明する。わたしは面倒くさくなって、「さっきも言った通り、○○○○を貸すと言ってるじゃない!」明らかにわたしは自制心を欠いて、イライラしていた。そのあとの返事がまた引っかかった。「本当に貸してもらえると思ってなかったもので。」
▼どうも、うまく伝わらない。道具があるといった本人が「でも貸さないよ」と言うだろうか。貸すに決まっているのに「本当に貸してくれるのですか」と言われ、そのあとは腹を立てたまま会議の席に座っていた。二度にわたり、辛抱が足りなくなってきていると感じる場面だった。当然、自分に何かを言い聞かせる必要があると感じている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第510回目。先週と同じ上五島子供巡礼の写真。紺碧の海にうっとり。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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年間第22主日(マタイ16:21-27)崖っぷちにいる人にも駆け寄るイエス

2017-09-02 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/170903.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)

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こうじ神父
「今週の説教」
2017/9/3(No.902)
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年間第22主日
(マタイ16:21-27)
崖っぷちにいる人にも駆け寄るイエス
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今週年間第22主日はフィリポ・カイサリア地方でイエスへの信仰を表明したペトロに、これからご自分が歩む道を示します。人間の理解を超える道で、ペトロも戸惑います。イエスに従う力を願い求めましょう。

ずいぶん前の話です。浦上教会の助任司祭だったときに侍者と聖歌隊の子供たちを遠足に連れて行けるように大型の免許を取りに行きなさいと主任司祭に言われました。はい分かりましたと言って、当時大型自動車の免許が取れるいちばん近くの学校だった「浦上自動車学校」に通い始めました。

名前は忘れてしまいましたが、小柄な教官がわたしを指導してくださいました。車の構造で、決定的な違いを学びました。それは、タイヤの位置です。一般の車と違い、トラックやバスは、簡単に言うとお尻の下にタイヤがあるのです。

タイヤの位置が違うと、どんなことが起こると思いますか?運転をしてみると分かりますが、例えば段差がある場所で車を段差のある場所ギリギリに頭から停めるとしましょう。一般の車ですと、タイヤは運転手よりもかなり先にあるので、ギリギリまで停めるのはそう難しくありません。

しかしトラックでは同じようにはいきません。自動車学校の教官が、「車止めに向かってトラックを寄せなさい」と指示しました。これくらいかなと思うところまで寄せてみましたが、「ダメだ。もっと寄せなさい」と言うのです。「先生。もう無理です。」わたしがこう言うと先生は「降りて確認してごらん」と言います。降りて見てみると、まだ1mくらい余裕があったのです。

教官が言いました。「タイヤはお尻の下にあるのだから、『崖から落ちた』と思うくらい前に出して、ようやく一般の車と同じくらいなんだよ。よく覚えておきなさい。」一般の車とトラックでは、こんなに違うものなのだなとつくづく思ったのでした。

普通車を、十何年も運転していても、トラックなどの大型自動車の感覚は教官に教えてもらわないと理解できませんでした。車止めにすら、前輪をぴったり寄せることができませんでした。わたしの感覚で「これくらいだろう」「これ以上は無理だろう」と思っても、正確な場所までかなりの開きがありました。似たような体験を、ほかの場面で味わったことのある人も、皆さんの中にはおられるかもしれません。

イエスがこれから進もうとする道についても、イエスと弟子たちとでは理解にかなりの開きがありました。イエスが踏み込もうとされる場所を指し示しても、ペトロをはじめとする弟子たちは、十分理解できなかったのです。今週の朗読個所の直前でペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16)と信仰を表明したイエスの踏み込もうとされる場所を、「多分ここまでだろう」「まさかここまでなさるはずがない」そういう思い込みがあったのだと思います。

しかしイエスははっきりと、ご自分が進まれる道の険しさを知っておられました。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(16・21)

人間の救いのために、多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する。人の救いはここまで働けば可能だろうとペトロは思いました。想像を超えたとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・22)と言いたくなるのです。

しかし実際には、想像を絶するような働きがなければ、人を救うことはできないのでした。手の指の働きで人間を救うことも可能なお方が、血まみれになった人間を救われるのです。あえて危険を冒さなくてもすべてが可能なお方が、いのちを投げ出して人間を救うのです。

これが、イエスの進まれる道でした。そのイエスが、従おうとする人々にこう呼びかけるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16・24-25)

この十字架が身につける飾りとかペイントとか、その程度でないことは明らかです。自分の命を救うとは、この人生で手に入れた一切のものを手放してでも、失ってはいけない大切なものなのです。

「ここまで努力した」「もうこれ以上は無理だ」人がそう思ってイエスに答えを仰ぐと、イエスはこういうでしょう。「あなたがどこまで近づくことができているか、見に来てごらん。」そして見に行ってみると、目標と程遠いところで立ち止まっていることに気づくでしょう。

だから、イエスのあとをついていく必要があるのです。血まみれになって人間を救おうとされるイエスの前に立ちふさがって、自分の考えのほうが合理的で優れているなどと主張することは、あってはならないのです。わたしたちは常に、「イエスについて来たい者」であって、「イエスの先に立つ者」を自称してはいけないのです。わたしごときが考える答えなど、神が導こうとする答えに遠く及ばないのですから。

罪におぼれ、悪に手を染め、救いから遠ざかって崖っぷちに立っている人がいる。安全を考えて、ロープを投げてつかまれと言うこともできるでしょう。イエスはしかし、その崖のふちまで駆け寄って救い出すのです。罪に沈みかけそうになっている人に救命浮輪を投げるのではなく、みずから罪の中に飛び込んで救ってくださるのです。

十字架を背負うとは、そのイエスに従うしるしです。安全第一でイエスに従っているのではなく、場合によっては自分の十字架に貼り付けになって死ぬ。それを覚悟でイエスについていくのです。各自、十字架を背負って、イエスを信じる者ですと人々に証明します。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼上五島を子供たちはとても喜んでくれた。2泊3日で平日に侍者と先唱をしてくれる小中学生と巡礼した。教会をいくつも巡って、海水浴と花火のおまけつきだったが、中には「五島に住みたい」という子供すらいた。
▼もちろん、2泊3日なら楽しくて、住み続けるとなると気持ちも変わるかもしれないが、それでも上五島を高く評価してくれたのは、灯台下暗し、上五島で生まれ育った自分にとっては思いがけないことだった。
▼いくつか、上五島の教会と田平教会との違いにも気付いたと思うから、これからの生活で上五島で得た収穫を活かしてくれたらと思う。お世話になった鯛之浦教会は、田平教会の平日のミサよりもミサ参加数が多かったから、どうやったら今後田平教会の平日のミサ参加者が増えるだろうか、考えてくれたらうれしい。
▼上五島ならではのことだが、狭い中ですべてのことが完結するようになっている。本土の人たちは自分たちの生活圏内で足りないものがあれば車で足を延ばして用事を済ませることができる。五島の人たちはそれができないので、ひとまずすべてのものが五島の中にある。
▼あるいは、自分たちの生活県内ですべてが賄えるようになる工夫とか、そういうことにも思いが及べば、上五島を体験したことが地域の発展にも繋がるかもしれない。いろんな可能性に道を開く体験が詰まっていたから、うまく活用してほしいものだ。
▼11月にはもう一度鯛之浦教会にお邪魔することにしている。あと二ヵ月だが、何を話すか、今から考える必要がある。少なくともわたしの後輩司祭は鯛之浦教会に存在しない。それを考えると何か残る話をしてあげたいと思う。

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今週の1枚
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第509回目。子供たちが撮影した上五島巡礼の写真を借りることができれば、掲載。

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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