こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(ルカ9:51-62)イエスのまなざしを最優先に置いて生きる

2010-06-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/06/27(No.482)
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年間第13主日
(ルカ9:51-62)
イエスのまなざしを最優先に置いて生きる
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金曜日、マリア文庫という活動団体からお会いして話したいことがあるということで、長崎に行きました。どんな話をしたいということは聞かされずに行ってみたら、目の不自由な方々のために活動している自分たちマリア文庫は、現在代表者が修道会のシスターになっているけれども、現在のシスターは高齢で、健康状態に不安があり、この先、代表者として体を張って活動に関わっていくことは困難ですという話を聞かされました。

まぁ、だいたいそういう場所に40代のわたしが連れてこられたということは、今後の安定した活動継続のために、神父さまにマリア文庫の代表を引き継いでもらいたいというお願いをしたいということなのですが、わたしははっきりと、お願いの仕方が乱暴過ぎやしないかと言いました。考えてもみてください。待ち合わせの場所と集合時間を知らされて、行ってみたら新しく代表を引き受けてくださいというのですから、そんな話があるかと言いたくなるのは皆さんも理解してくれるでしょう。

けれども、30年も、全国の目の不自由な方に録音を通して奉仕しているこのマリア文庫に8年間関わってきたわたしが、代表が続けられなくなろうがそんなこと関係ありませんとも言えないことはうすうす気づいてはいました。活動25周年の記念行事にも関わりましたし、30周年の祝いは前任地の馬込教会で行い、ここまで続けてこれて本当によかったと、会員の皆さんと喜び合ったのです。だから、わたしに今後の代表となって引っ張ってほしいという気持ちはわからないでもありません。

ただ、今後目指していく道筋の資料もきちんと準備していたらしいのに集まった目の前で渡され、肝心の「代表者の選任でたいへん困っている」という実情も知らされずに呼ばれてみたら、「さあ代表になってくれませんか」と言われても困るのだと、きっぱり言ったのです。それでも、2時間も駄々こねたあげくに、近い将来、目の不自由な方々に奉仕する「声の奉仕会マリア文庫」の代表にならざるを得なくなりました。

ふくふくしながら、その日長崎で外食をし、それでも目の前の仕事である日曜日の説教の準備を考えている間に、マリア文庫の現在の代表者と、中心になって働いてくれるメンバーとが持ってきた難題は、ひょっとしたらイエスさまから今のわたしに突きつけられている挑戦なのかもしれないなぁと思うようになったのです。

福音朗読を読み返してみましょう。イエスはエルサレムに向かう決意を固め、途中サマリアの町を通ります。サマリア人はイエスを歓迎しません。そこで弟子たちはイエスさまのお通りだと見せつけるために、天からの火で町を焼き払いましょうかと提案しますが、イエスはそれを望みませんでした。弟子たちはイエスとともに、歓迎されていない町の人々の間を通っていく屈辱を一緒に味わうことになります。イエスが通る道を、弟子にもついてきなさいと求めるのです。

また、弟子の覚悟を求めるさまざまな出来事も起こりました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(9・58)それでもあなたはついてこれるかと、尋ねている部分です。ほかにも、家族に不幸が起こったとき、あなたはわたしについてこれるかと尋ねます。これも、イエスの呼び掛けにまっすぐに従う覚悟を問うています。家族にお別れを言いに行かせてくださいという場面も、おなじです。

わたしはこれらの福音朗読箇所を読み返しながら、イエスがあなたの歩く道に目を注いでおられると気づいたとき、それにまっすぐについてこれるかと尋ねているのかなぁと思ったのです。「わたしに従いなさい」とイエスが声を掛けられた。同時に、家族を送り出してからついて行こうとしたら間に合わないとわかったとき、あなたに注がれているイエスのまなざしに、まっすぐついてこれるか。そう問いかけているのだと思いました。

そして、自分自身金曜日の出来事を振り返ったのです。「あなたにこういう十字架を担いでもらうことで、わたしに従ってもらいたいのだが、引き受けてくれるか。」そういう問い掛けだったのかなぁと、今になって思ったのです。いろいろ文句を言うことはできるでしょう。話の持って行きかたが乱暴過ぎやしないか。どうして事前の連絡ができないのか。ほかに誰かと話し合った上でのことなのか。いろいろ難癖をつけることは可能ですが、30年間のマリア文庫の歩みのうち4分の1も関わってきたわけですから、イエスさまはわたしにも目を注いでくださり、イエスのまなざしにまっすぐに従ってくれるかどうかが、今試されているのかなぁと思いました。

では皆さんにも、同じことを考えてもらいたいと思います。イエスは、すべてのことに目を注いでおられます。そのイエスのまなざしに、わたしたちはまっすぐに従おうと思っているでしょうか、ということです。福音の朗読の中で、さまざまな人が、何かを優先してから、それからイエスに従いますよと答えますが、イエスはきっぱりと、「最優先はわたしだ」と言うのです。つまり、イエスが目を留めてくださった出来事に、イエスのまなざしに、最優先に答えてほしいのです。

わたしの経験から言いますと、イエスのまなざし、イエスの望みを最優先しないなら、そのときわたしはイエスの望みをいちばん最後に回しています。イエスの期待を最優先しないなら、2番目にしているということは起こらず、たいていいちばん最後の後回しなのです。だから、イエスはご自分の望みを最優先にしなさいと言っているわけです。

わたしたちは、はっきりとであれうすうす気づいている場合であれ、イエスのまなざしを感じることがあります。このイエスのまなざし、イエスの思いに気づいていながら、それを横に置くことは、2番目3番目に回しているのではなくて最後尾に回しているはずです。そうではなく、きっぱりと、最優先に考えて答えようとするとき、わたしたちの信仰の歩みはまっすぐなものになるのではないでしょうか。

「あなたはわたしに従いなさい。」イエスはご自分のまなざしに、まっすぐに従う人を探し求めておられます。イエスの思いに従うとは、最優先に従うことと同じなのです。その覚悟を、1人でも多く祭壇上のイエスに言い表すことができるよう、恵みを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼これから数週にわたって、6月22日だけで起こったことを数週にわたって書きたいと思う。それほど、1日で興味深いことがたくさん起こった。この日は初めて葬儀が入り、高井旅という教会で葬儀ミサを行った。
▼葬儀ミサの説教で、故人は教会の功労者であることを、参列者にていねいに説明した。教会の土地を寄進してくださり、教会会計を15年間も務めて、教会運営のために骨身を惜しまず働いてくれた人だった。本当に感謝してもしきれないほどで、たくさんの宝を天に積んで旅立ったのだった。
▼個人的な思い出も残してくれた。主日のミサに参加して、聖歌を高らかに歌うのだが、音程は正直言って大きく外れていた。わたしは小学校時代の音楽が「2」だったので、まったく気にしなかったが、説教の時には次のように機転を利かせて話した。
▼「『歌う人は2倍祈る』という伝統的な考え方があります。故人は音程が人の4倍くらい外れていたので、8倍祈ってくれました。そして、もうあの歌を聞くこともできなくなり、さびしい限りです。故人のミサに対する熱意、教会への愛を、受け継いでくださる人が現れることを切に願います。」
▼ほかにも話したのだが、それはまあ、伝統的な復活への希望に結びつく話なので省略する。葬儀が終わり、火葬場へ同行し、火葬の前の祈り。そして五島では習慣としてその日のうちに納骨まで済ませるので、高井旅の信徒の家でお弁当を食べながら2時間待った(次週へ続く)。

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新企画今週の1枚
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第89回目。22日から23日、伊王島からわたしの様子を見に来てくれました。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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年間第12主日(ルカ9:18-24)試練の中でも信仰告白しよう

2010-06-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/06/20(No.481)
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年間第12主日
(ルカ9:18-24)
試練の中でも信仰告白しよう
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今日の福音朗読は、「ペトロの信仰告白」の場面です。イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(9:20)と問いかけました。すでに人々がイエスのことを、「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤだ」とか、「だれか昔の預言者が生き返った」と噂していました。そんな評判を知った上で、弟子たちに自分の言葉で、イエスをどう思っているのか、答えてほしかったのです。

イエスを誰かに例えるというのは、「すでに認められている人」「すでに敬われている人」と比べて考えようとするものです。イエスは弟子たちにそのような答え方を望みませんでした。自分の言葉で、誰とも比べずに、どう思っているのかすなおに言ってほしかったのでしょう。

わたしも、自分の言葉で答えることはすばらしいと思います。心の底から、神に対して思っていることが言えた時、それはすばらしい信仰告白になると思います。たとえ、言葉がつたなくても、自分が心から言った言葉には重みがあるのです。

こんなことがありました。中学生の堅信組を担当していた時でした。その日、堅信式前の試験を受けるために中学生が集まっていました。わたしは祈りを覚えているか尋ねる担当でした。たいていの中学生は、覚えてきた祈りをすらすらと唱えます。

内心わたしは、「これは、すらすら言えるかどうかの試験じゃなくて、これからもずっと、祈る場面で祈ることができるかを問うものなんだけどなぁ」と思っていました。すらすらと、祈りを唱える中学生たちに、正直退屈していたのです。

そこへ、うってつけの中学生が目の前に座りました。祈る習慣が身についていないのか、どの祈りを言わせてもうろ覚えです。「すらすら言えるかどうかの試験」であれば、とっくに不合格でした。

途中わたしは、「食前の祈りを唱えてごらん」と言いました。その中学生は一言も口を開きませんでした。きっと、食前・食後の祈りを家庭で唱えていないのでしょう。そこでわたしはこう言ったのです。「神さまに感謝してから、ご飯を食べることはすばらしいと思わないか?その気持ちを、言葉に表してごらん。それが、あなたらしい『食前の祈り』だよ。」

するとその中学生は、しばらく考えてから、「神さま、わたしはいままで神さまに感謝して食べたことがありませんでした。これから、神さまに感謝してご飯を食べようと思います。いただきます。」と答えてくれたのです。

本来、この子の「祈り」の試験の点数は、ひどい点数がつくはずだったのですが、わたしは、中学生の最後の祈りに心を打たれまして、30点のうち20点をつけてあげました。あとで合格不合格の判定会議に呼び出され、なぜこの中学生が20点ももらっているのだと、ずいぶん責められました。

もう一度、ペトロの信仰告白の場面を振り返ってみましょう。イエスが弟子たちに、自分のことをどう思うか尋ねた場面、実は前置きになる出来事が起こっていました。それは、5千人に食べ物を与えるという奇跡です。普通であれば、これほどの奇跡を目にして、イエスが誰であるかを言おうとするなら、「奇跡をおこなえる人」と言ってしまいそうなものです。

けれども、イエスが奇跡をおこなうことをご自分の中心であるかのように考えるのは望んでいなかったと思います。弟子たちも気づいていました。なぜなら、すでにいろんな例え方をされていることを説明して、それでもなお、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問いかけてきたからです。

弟子たちの口は黙ってしまいました。そんじょそこらの(ありきたりの)答え方では、イエスは満足してくれないことは明らかでした。何をどう言っていいのか、ためらってしまったのです。弟子たちも、下手なことを言って、「そんなことしか答えられないのか」とは、言われたくありませんでした。

そこへ、ペトロが弟子たちを代表して答えます。「神からのメシアです。」(9・20)ペトロには、答えがイエスにとって満足できるものかどうか、自信はありませんでした。ただ、弟子たちの誰もが何も言えなくなった時、何か答えなくちゃと思って、必死に答えたのです。

ペトロの答えは、実際には素晴らしい答えでした。イエスがもし、5千人に食べ物を与える奇跡をおこなってなくても、いろんな華々しい活躍をしてなくても、わたしにとってあなたは「神からのメシアです。」それだけ言えれば十分なのです。

ではわたしたちも考えてみましょう。わたしが信頼し、信じているイエスは、華々しい奇跡をおこなってくれなかったら、輝きはなくなるのでしょうか。もし、輝きがなくなれば、もう信じられなくなるのでしょうか。

わたしたちの信じるイエスは、華々しい人でなくても、信じるに値する方です。そのことをどこまで確信を持てるか、それが今日問われていると思います。わたしたちがイエスを信じ、従っていく道のりは、ちやほやされたり、自慢できたりできるような道のりでないことは明らからです。

そんな、世間的なものは何もなくても、「あなたは神からのメシアです」と答えることができるか、そのことが問われています。今すぐに、イエスにきっぱりと信仰を表す力は備わっていないかもしれません。それでも、「あなたは神からのメシアです」と繰り返し答えて、わたしの答えをゆるぎないものにしましょう。わたしたちの信仰告白が揺るがないなら、イエスは必ず、わたしたちに答えてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼小教区で教会新聞を6月20日に発行した。もちろん教区報のような重い責任を負ったものではないが、広報委員との2度3度にわたる打ち合わせと作業は、大変有意義だった。広報委員会を特別扱いするつもりはないが、よくやっているなぁと感じた。
▼教会の運営の中心は小教区評議会である。これは間違いない。その中で、典礼委員会と広報委員会は、わたしにとって特に目の留まる委員会と言える。典礼委員会は、礼拝に小教区の人がみな参加できるように、知恵と工夫を凝らす委員会だ。
▼広報委員会は、小教区評議会・主任司祭の意向を、すべての世帯に確実に届け、そこから小教区の外にもわたしたちの教会の歩みを知らせる。ある意味で典礼は神への歩みに協力し、広報は人への歩みに協力する。両方が機能すると、教会はこの世にあって地の塩・世の光となると思う。
▼今週も説教の準備に苦戦した。苦戦続き。こんな時、神さまが助けてくれないのかなぁとやっぱり思う。けれども、イエスの奇跡がなくとも、目が覚めたら原稿が出来上がっているというようなことがなくても、「あなたは神からのメシアです」と、わたしは声を上げる。

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新企画今週の1枚
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第87回目。うまく写るかわかりませんが、浜串の集落。
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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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年間第11主日(ルカ7:36-8:3)多く赦された者としてイエスに従う

2010-06-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/06/13(No.480)
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年間第11主日(ルカ7:36-8:3)多く赦された者としてイエスに従う
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教区司祭の黙想会に参加してきました。見三明大司教さまに、期間中1度だけ声をかけていただきました。「新しい任地には慣れたかね」とか言ってもらえるのかなぁと思ってましたが、「君、太ったんじゃないかね。」これだけでした。それだけかい?と思ったんですけど、まぁいいです。

さて、今週の福音朗読は、「罪深い女を赦す」という物語が含まれた箇所です。わたしはまず、イエスが示したたとえ話からもう一度考え直してみました。イエスがファリサイ派の人に示したたとえ話の登場人物は、「金貸し」と、「金を借りた2人」しか登場しません。

わたしはこのたとえは、ファリサイ派の人に考えさせる一般的なたとえとして示しているのだろうと思っていましたが、もしかしたらイエスは、「金を借りた2人」を、一方をファリサイ派の人、もう一方を罪深い女と断定していたのではないかと考え直したのです。

すると、金貸しはどう考えてもイエスご自身ということになります。イエスがお金を2人に貸しているはずはありませんから、ひとまず「何かを貸しているのだ」としておきましょう。そして、2人とも、イエスが貸し与えたものを返す当てがないのです。

50デナリオンとは、一般的な労働者の賃金50日分ですが、これは、返そうと思えば、返せる額のはずです。けれども、たとえ話の中では返すことができません。ということは、イエスから借りている「何か」は、その大小にかかわらず、人間が返せないものだということになります。

「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(7・42)イエスの問いかけにシモンは的確に答えました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」そしてイエスは、「そのとおりだ」と言われました。これも、「ファリサイ派の人と罪深い女のうち、どちらが多くイエスを愛するだろうか」と聞いているわけです。シモンは、その答えを的確に知っていました。自分よりも、罪深い女のほうが、イエスを愛していたのです。

ここで、引っかかっている疑問を解きましょう。罪深い女とシモンという名のファリサイ派の人、この2人はイエスにどんな貸し借りがあるのでしょうか。そもそも、2人ともイエスと初対面なのに、いつ貸し借りができたのでしょうか。皆さんはどう考えますか?

わたしは、人はすべて、イエスに借りがある、そう思います。それは罪です。ことの大小はあるでしょうが、大きな罪はもちろん、どんなに小さな罪でも、人間は神であるイエスに犯した罪を償えないのです。イエスが、帳消しにしてくださらなければ、髪の毛一筋ほどの罪でも、わたしたちはその罪を消し去ることはできないのです。

この、決して返すことのできない罪の赦しに、ファリサイ派の人は気づかず、罪深い女は気づいた。その違いを、イエスはたとえ話になぞらえて話しかけたのではないでしょうか。イエスを神と認め、罪深い女であるがゆえに、罪の代価を払えないことにいち早く気づいた。イエスのもとに涙ながらに近づいた女性は、どんなに小さな罪でも、償えないことに気づいた人間の代表だったわけです。

イエスは女に、「あなたの罪は赦された」(7・48)そして「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と声を掛けました。当然、「罪深い女」と町中で噂されていた女性でしょうから、「あなたの罪は赦された」というのは誰にでもわかります。問題はそのあとの、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7・50)という呼び掛けです。彼女の行動から信仰が読み取れるのでしょうか。

この女性は、どんなに小さな罪でも、償えないことに気づいたのでしょう。目の前におられる神の子イエスに、憐れみを願うしかない。そう考えて、あのような大胆な行動に出ます。そこにイエスは、彼女の信仰を見いだしたのです。ファリサイ派の人シモンにも、自らの罪を悔いる機会はあったはずですが、イエスにすがるだけの信仰は持ち合わせていませんでした。

この物語が、わたしたちに呼び掛けていることは何でしょうか。それは、わたしたちは、神であるイエスに、すべてを委ねなければ、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言ってもらえない、ということです。

わたしたちは、どんなに小さな罪でも、自分で消し去ることのできない被造物なのです。神が、帳消しにしてくださらなければ、返せない存在なのです。そのことがはっきりわかれば、「あの人より自分はましだ」などと、誰かと自分を比べても仕方がありません。誰かと自分を比べることなく、まっすぐ神に心を向けて、「世の罪をのぞきたもう神の子羊、われらをあわれみたまえ」と申し上げましょう。

ところで、わたしたちが犯した罪を決して拭えないとすれば、「何をしても無駄だ」と、諦めてもよいのでしょうか。今日の福音朗読のもう1つの出来事が参考になります。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの婦人たち。彼女たちはイエスと弟子たち一行に奉仕していました。「わたしたちはこれくらいしかしてあげられない」そういう気持ちだったのではないでしょうか。これは大いに参考になると思います。

皆さんの身の回りを考えてみてください。大それたことをする機会はそんなにないかもしれませんが、ちょっとしたお手伝いの機会はたくさんあると思います。それも、「これくらいしかできんけん」と言えるような、小さな手伝いの場は、きっとあると思います。ぜひ、そんな協力の場面を逃さないでください。そうした小さな場面で、確実にお手伝いすることが、神の深いあわれみを体験する近道だからです。

わたしたちは、神への借りを、これっぽっちも返せない存在です。よくそのことをわきまえ、できる小さな奉仕を、「こんなことくらいしか、わたしにはできません」そんな謙虚な心で確実に積み上げていきましょう。

一行に奉仕する婦人たちの中に、わたしたちの教会の守護聖人であるマグダラのマリアが登場しました。返せない借りがあるからこそ、イエスへの真の信仰が芽生えます。聖女に倣い、すべてを主イエスに委ねて、従っていくことができるよう、恵みを願いましょう。
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ちょっとひとやすみ
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▼人間の目にはくっきりはっきり見えているのに、機械の目ではそうでもないという経験はたくさんあると思う。すぐに思いつくのはデジカメ。夕暮れに、「司祭年閉年ミサ」のため浦上教会へ向かう信徒・修道者の様子を「今週の1枚」に収めてみたのだが、6月10日、午後6時25分で、すでに人間の目と機械の目とでは歴然とした差が出た。
▼人間の目では、浦上教会への丘を登っていく信徒の群れがはっきり見えていて、「おー、これは教会に急ぐ信徒のすばらしいショットが撮れるぞ」と思っていたのだが、実際にはショボい写真しか撮れなかった。
▼これが浦上教会聖堂内になるとますます差が開く。肉眼では確かに見えている典礼の儀式が、デジカメで撮影すると真っ暗な画像になってしまう。だからと言ってフラッシュをバシバシたくと、フラッシュに照らされた部分だけしか記録してくれない。いかに人間の眼が立派にできているか、思い知らされる。
▼ところが、人間の眼も故障することがある。黙想会においでになった先輩の中で、視野の3分の2を失ってしまった先輩を見かけた。失った視野は取り戻せないらしく、デジカメのように買い直したり、レンズを交換したりというわけにはいかない(先輩が眼を大切にしなかったという意味ではない。)
▼高価なレンズを神さまに与えられている一方で、大切にしないと取り返しのつかないことになる。誰も作れないような超高性能のレンズを、惜しげもなく人間に準備してくださった。その1点だけ挙げても、わたしたちは返せないくらいの借りが神にあるのではないだろうか。

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新企画今週の1枚
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第87回目。司祭年閉年ミサに、ぼつぼつ集まる信徒、修道者。
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キリストの聖体(ルカ9:11b-17)わたしたちも人々のための食べ物になろう

2010-06-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/06/06(No.479)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
わたしたちも人々のための食べ物になろう
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今日は、「キリストの聖体」の主日です。今日のキリストの聖体の主日で、一連の特別な名前の付いた日曜日が終わり、来週からは「年間の主日」に移ります。念のため、名前の付いた主日を思い出しますと、ご復活の後のご昇天から始まって、聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体、この4つが、連続してやってきます。皆さんもぜひ、4つの主日の名前と並び順を覚えてほしいなと思います。

さて、キリストの聖体の主日に当たってわたしが考えた要点は、「食べ物は、食べられたら、目には見えなくなる」ということです。この、一見当たり前のようなことを鍵に、聖体について黙想してみたいと思います。

まず、ふだんの食事を考えてみましょう。おいしくいただいた食事は、すっかりおなかの中に入って、ほとんど何も残りません。けれども、何も残らないと言っても、何も食べなかったのとは違います。食べた物は栄養となり、体を養うのです。

では、聖体も同じように考えることができるでしょう。ミサに参加し、聖体を拝領すると、わたしたちは恵みに満たされます。食べ物となったキリストは、わたしたちが拝領してしばらくすると見えなくなりますが、拝領しなかった人とは明らかに違いがあります。拝領した人は確かにキリストに養われるのです。

また、食べ物は、食べてしまえば消えてなくなるけれども、要らないとは決して言えません。補助食品も含めて、どうせ消えてなくなるものだから、毎回毎回食べなくてもよいなどとはだれも考えないでしょう。同じように、わたしたちの心を養う聖体も、見えなくなってしまうのだから要らないではないか、とは言えないのです。

むしろ食べ物は、食べても食べてもなくなってしまうものなのに、わたしたちの生活になくてはならないものなのです。聖体も、拝領して30分もすればおそらく見えなくなってしまうものですが、わたしたちの心の糧として、命の糧として、なくてはならないものなのです。

ここから、もう1つのことを考えたいと思います。イエスは、わたしたち人類すべてのために、十字架の上で命をささげ、お亡くなりになりました。わたしたちの目から、消えてなくなったのです。食べ物が、食べられることで消えてなくなるように、イエスは、十字架の上で命をささげることで、わたしたちのために消えてなくなられたのです。

十字架の上で命をささげたことで、見えなくなるというのは意味深いと思いました。目には見えなくなりましたが、復活したイエスが弟子たちを、婦人たちを、信じるすべての人を生かし続けました。食べ物が消えてなくなっても、食べた人を生かすように、イエスは十字架上で亡くなられて復活し、わたしたちも含めすべての人を生かしてくださいます。つまり、十字架の上で命をささげた姿の中に、聖体の恵み、聖体がわたしたちにもたらす働きが、示されているわけです。

食べ物は、人間になくてはならないものだと言いました。聖体も、信じる人にとってなくてはならないものです。そしてすべての人にとって、イエスが十字架で亡くなられたことは、なくてはならないものだったのです。

そこで、わたしたちの生活を振り返ってみましょう。わたしたちは食べ物の大切さを知り、聖体も信じる人にとって必要であることを十分わきまえています。もう一歩踏み込んで、生活する中で出会うすべての人のために、体の食べ物でない、心の食べ物を指し示してあげる必要があるのではないでしょうか。すべての人の命の糧として、十字架の上で亡くなられたキリストを、何かの形で指し示す必要があるのではないでしょうか。

食べ物の大切さも知っています。聖体に養われる素晴らしさも知っています。では、出会うすべての人のために、聖体に養われる素晴らしさを、どうやって示していけばよいのでしょうか。

次のような方法はどうでしょうか。「わたしたちが、この社会にあって聖体となる」という方法です。イエス・キリストそのものになりきることはできませんが、わたしたちが、出会うすべての人の食べ物となることは可能だと思います。

わたしたちが出会う人々は、「すべてにこえて、神を愛する」という食べ物を知らないかもしれません。わたしたちが出会う人々の中にあって、「すべてにこえて、神を愛する」姿勢を示すなら、出会った人々はわたしを通してイエス・キリストの第一の掟を食べることになります。

「隣人を、自分のように愛する」という食べ物を、「そんなもの受け入れられない、食べられない」と思っているかもしれません。そんな中で、わたしたちが隣人を自分のように愛することで、イエス・キリストが与えてくださった第二の掟を知り、「受け入れてみよう、食べてみよう」と考えるかもしれません。

つまり、出会う人々の真ん中で、イエス・キリストが示した食べ物を食べ、「これは食べることができます。これを食べると豊かになります」と証しをすることで、わたしたちは出会う人々の食べ物、人々のための聖体となれると思うのです。

食べ物は大切です。体の食べ物も、心の糧も大切です。わたしたちはイエス・キリストという、最高の命の糧をいただいているのですから、その恵みを出会う人々に届けましょう。まずそうな食べ物ではいけません。わたしたちがおいしそうな食べ物となって、出会う人々にイエス・キリストに養われる素晴らしさを証ししましょう。わたしたちが拝領する聖体が、この証しのわざを可能にしてくれます。

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ちょっとひとやすみ
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▼もしかしたら、日曜日の説教を配信する相手が、一度も見たことのないネットの向こうの人々だけでなく、すぐ近く、足元にいるかもしれない。そう感じたのは、小教区の広報委員会の中での会話だ。意外と近くの人が、この「ちょっとひとやすみ」を読んでくれていることが分かった。
▼そうなると、当然配信されている説教本体の部分も、読んでくれる可能性がある。希望が出てきたので、メルマガを読んでくれるように、案内のチラシを作ることにした。難しくならないように作ることが難しいが、何とか読みやすいチラシにしたいと思う。
▼メルマガを受け取る人が高齢者である場合、繰り返し読み返すことができるというメリットがあると思う。自分自身でもよく分かっていることだが、説教で話したことを、1度聞いただけでそのまま理解し、消化するというのはほとんど不可能である。
▼1度聞いただけで理解できる話をしろと言われそうだが、どんな話でも2度3度聞き直したり考えたりして、「こういう意味だったのかなぁ」と分かるものが多いのだから、聞き直すため、読み直すためにメルマガを受け取るのは十分メリットがあると思う。
▼どんな反応が来るだろうか。まったくの空振りに終わるかもしれない。まぁ、それはそれで、次のチャンスを探そう。上五島にはたくさんの、潜在的な需要があると見込んでいる。この町でうまくいかなかったら、次の町だ。きっと、必要としてくれる人に巡り合うに違いない。

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新企画今週の1枚
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第86回目。浜串にある「岬の聖母像」。一緒に写っている(予定)のは来客。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100606.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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