こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ルカ11:1-13)粘り強さがわたしたちには必要

2013-07-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/07/28(No.661)
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年間第17主日
(ルカ11:1-13)
粘り強さがわたしたちには必要
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いよいよ、夏休み中のこどもの大きな行事であるドッヂボール大会の日を迎えました。子どもたちには、わたしの釣りの経験を踏まえて、粘りの必要性を説きたいと思います。粘り強く、1点を取りにいく試合をしてください。これで、わたしの釣りの話ができる口実ができました。

金曜日に釣りに行きました。帰ってきた時間は昼2時頃だったと思います。金曜日の満潮の時間はおよそ11時で、満潮になる前の時間と、満潮から潮が下げ始める時間にイトヨリ釣りをしました。前半戦は思ったほど釣れなかったのですが、後半みるみる挽回して、イトヨリは全部で18匹釣りました。ボートを繋ぐ時に、ボートの係船場で海水浴していた子どもたちに魚を数えさせたので、間違いありません。

前半うまくいかなかった時、諦めてしまったり、いつまでもくよくよしていると、勝負に勝つことはできません。後半、きっとうまくいくと自分に言い聞かせて、みんなでそのことを確認して、後半戦に臨む。これが大切です。わたしも、後半戦はきっとうまくいくと自分に言い聞かせて、1匹ずつイトヨリを積み重ねていきました。

ドッヂボールの試合でも、1点が試合を分けます。1点差というのはちょっとした気持ちの持ちようでどちらのチームにも点数は転がります。その、ほんの僅かの差を勝ち取って決勝リーグに上がりましょう。あとで悔しがってもどうしようもないのですから、粘り強く、1点にこだわって、試合をものにして欲しいと思います。

さて福音朗読は、弟子たちがイエスに祈りを教えてくださいと願い、主の祈りを教えてもらうところから始まります。主の祈りを教えたイエスは引き続きたとえ話を弟子たちに語りました。続けて話されたのですから、主の祈りを解説するたとえだと考えてよいと思います。

真夜中に、友人がパンを三つ貸してくださいとお願いに来ました。友人は、願いがかなうまで粘り強く頼み込みました。この粘り強い態度が、主の祈りを唱える時に必要だと、イエスは言いたいのではないでしょうか。

「粘り強さ」というのはとても大切です。わたしは船釣り用の竿を2本持っていますが、イトヨリが釣れそうな場所に行って、魚がエサに食いつき、「よっしゃ」と思って合わせを入れ、リールを巻き初めてしばらくすると「スポッ」と魚が抜ける。最初のうちそういうことが何度かありました。

魚が必死に抵抗すると、竿に粘りがない場合、釣り逃がすことがあるわけです。わたしは竿の問題ではないかと思い、それ以後、もう少し粘りのある竿で釣るようにしたら、魚が抜けるミスがぐっと減りました。ガッチリ合わせたつもりでも、粘りのない竿ではみすみす取り逃がしてしまいます。もしそれでも釣り逃がすのであれば、腕のせいです。

主の祈りについても同じです。祈りの前半部分は御父に祈っていますが、たとえば「み国が来ますように」と祈りながら、この世界の状況がそれとはほど遠いと感じても、諦めてはいけないと思うのです。御父の思いが行き渡り、平和と愛に満ちた国は、わたしたちが粘り強く祈る限り、いつかその通りになります。今日祈ってかなわなかったから諦める、希望を捨てるというのは、主の祈りを教えたイエスの望みではないのです。

また、主の祈りの後半は自分を含む隣人すべてに対する願いですが、これこそ一つひとつが、粘り強く祈ることを必要としている祈りではないでしょうか。「毎日与えてください」と願う人は、毎日、粘り強く祈る必要があります。わたしたちの罪の赦し、また自分に負い目のある人のゆるし、誘惑から逃れること。どれも、うまくいかなかった瞬間からつい諦めてしまおう、希望しても無駄だと考えがちです。

すぐに答えが返ってこない長いトンネルのような道でも、粘り強く努力する、粘り強く願い求めるその先にしか、答えはないと思うのです。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」というイエスの勧めは、粘り強く願い、簡単に諦めるなということをとても分かりやすく教えているのではないでしょうか。

ドッヂボールの試合に出る子どもたち。1点差で勝つか負けるかは、数秒の違い、場合によっては1秒で結果が変わるかもしれません。1秒で相手を1人倒すとか、最後の1秒で球をよけて内野の人数を減らさなかったとか、そういうほんの数秒で決まるかもしれません。

本当に粘り強く、最後の1秒まで、自分のしなければならないことを努力してください。上級生は相手を1人でも多く減らす。下級生は最後まで内野に残る。すると、すばらしい結果がその先にあると思います。

主の祈りは、粘り強く祈り求めるだけの十分な価値があります。御父は願い求めるわたしたちに聖霊を与えてくださるからです。聖霊は、被造物のわたしたちが本来願っても手に入らない賜物です。被造物のわたしたちが、聖霊である神さまをくださいと願っているのですから、本来ありえない話です。

けれども神は、わたしたちの粘り強い祈りを聞いてくださり、造られた者である人間に、聖霊を与えてくださいます。人間は聖霊の賜物を受け取るには不十分な存在ですが、神の溢れる思いは、不足のあるわたしたちを覆って余り有る恵みをくださるのです。粘り強く祈り求める十分な理由があります。

そこで最後に、わたしたちの日頃の祈りが、どのような祈りになっているか振り返りましょう。粘り強い祈りになっているでしょうか。粘りのない素材は、力が加わるとポキッと折れてしまいます。粘りがないために、祈る心が折れたりしていないでしょうか。もう一度、粘り強く祈ることを今週学びましょう。そして、わたしたちの粘り強い祈りに必ず答えてくださる神に信頼して、今週一週間に入ることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼わたしは「結果オーライ」の典型的な人間だと思っている。「結果オーライ」とは、「結果的に期待していたことに期待通りに答えることができれば、それで構わない」という考えだ。それまでのプロセスを大事にする人とはたぶん波長が合わない。
▼ただ自分が期待されている結果に答えられなければ、そのまま責任問題となるから、求められるものは厳しい。途中でサボっていても結果が出れば構わないが、必ず結果を出さなければならない。
▼そういう心構えで生きてきた。釣りに行ってきて、「強烈なアタリだったよ。楽しかった~」と言って魚を見せることができなければ、それは何の意味もない。確かにその魚を見せて初めて、その話は信用できる話になる。途中のプロセスでどれほど魅力的なことが起ころうとも、結果につながらなければだたの独り言になる。
▼いよいよ夏本番。わたしのイトヨリ釣りも結果が大事になってきた。今回2つの場所で釣った。今までずっといた場所を離れて、去年よく出掛けた場所に行ってみた。去年の場所が、期待に応えてくれた。去年もそうだったが、いつも釣っている場所はなぜかそこそこの大きさのイトヨリばかりが釣れていた。
▼今年初めて、もう1つ当てになる場所(去年よく行った場所)に行ったのだが、釣れた時の喜びをどう表したら良いだろうか。「期待に応えてくれてありがとう」その一言に尽きる。この場所は教えるわけにはいかないが、まだまだ未開拓、まだまだ大きいイトヨリが居そうな場所である。

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今週の1枚
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第268回目。イトヨリダイ。写真下の2匹は、太り方が違う。竿がしなった。

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年間第16主日(ルカ10:38-42)イエスの話に聞き入る時を空けておく

2013-07-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/07/21(No.660)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
イエスの話に聞き入る時を空けておく
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ここ15年ほどのわたしの経験から、荷物は片手で持てる分量になるように心がけています。この考えにたどり着いたのは、巡回教会に泊まりがけで出掛けることがきっかけになっています。

これまで主任司祭として3つの小教区に赴任しましたが、太田尾小教区では間瀬教会に出掛ける時、伊王島の馬込小教区では高島教会に出掛ける時、ここ浜串小教区では福見教会に出掛ける時に、荷物を両手に抱え、自分で自分にイライラしながら移動していたのです。

特に泊まりがけの巡回教会訪問で痛いほど分かったことは、荷物をいっぱい抱えていっても、全部使うことはないし、本教会の司祭館の鍵を閉めて出るとか、雨の日に傘を差すとか、車に乗り降りするとか、巡回教会の司祭館の玄関の鍵を開けるとか、いろんな場面で瞬間的に片手で持てなかったら、イライラが募り、何の得にもならないと感じたのです。

そこで、自分の行動を整理して考えてみました。本当に、両手一杯の荷物が必要だろうか。どうしても必要なことが、そんなに山のようにあるだろうか。あれもこれも、欲張って持ち出そうとしているのではないか。考え抜いた末にたどり着いたのは、「荷物は、片手で持てる程度に収めよう」ということでした。

まったく同じ事が、仕事についても言えると思っています。両手に抱えきれないほどの仕事というのは、最初から背負いすぎであって、片手に持てるくらいの仕事に減らした方が、きっと仕事もはかどります。

さて今週の福音朗読ですが、マルタとマリアの姉妹の物語が選ばれました。せわしく立ち働いているマルタのことを、わたしは他人事のように見ていましたが、今はマルタはまさに自分のことだと思います。

「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」(10・40)マルタは、まさに両手いっぱいの仕事と格闘し、注意力散漫になり、イライラを抱え、とうとうイエスに不平を述べるのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(同40)

興味深いのは、マルタはこの言葉を、「イエスに近寄って言った」(同40)ということです。おそらくマルタは、物理的にも精神的にも、イエスから遠くにいた、イエスの思いから遠ざかっていたのかもしれません。

そこで、わたし自身の経験を重ねて考えるのです。もしマルタが、例えて言えば片手が空くくらいのもてなしで抑えていたら、妹マリアのことでイエスに不平不満を募らせずに済んだことでしょう。両手一杯のもてなしを冷静に見つめ、本当に、これだけのもてなしが必要だろうか、どうしても必要なことが、そんなにたくさんあるだろうかと考えたなら、イエスから遠く離れない場所、よくイエスの話が聞ける状態で、もてなしをできたことでしょう。

マルタとは正反対の態度を取ったのがマリアです。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10・39)とあります。ここには書かれていませんが、わたしは、マリアがそれほど気が利かない妹だとは思えないのです。お茶と煎餅くらいは、マリアも手元に持っていたかもしれないからです。

つまり、片手間でお世話できるくらいのもてなしは、用意できていたかもしれない。マリアは、もてなしは片手が空くくらいにして、本当に必要なことは何だろうかと、考える余裕を手に持っていたのです。

イエスは、マリアの態度を褒めました。わたしたちはマルタとマリアの姉妹の、どちらが優れているかと考えがちですが、マルタもマリアも、わたしは1人の人間の持つ二面性と考えることも可能だと思います。

わたしたちは、両手に余るほどの物や仕事や思いを抱えて、そのためにイエスから心が引き離されていることがあります。片手が空いていないので、冷静に自分を見つめることができないことがあるのです。そうなってしまうと、つい今の自分の置かれている状況に不満を抱き、だれかのせいにしたり、だれかを攻撃したりするわけです。

そうではなく、どんなに忙しくても、片手が空くくらいにしておくと、周りがよく見えて、自分が抱えている物や仕事や思いは、すべて必要な物だろうか、本当に必要なものって、そんなにたくさんあるだろうか。いつも生活の中心にイエスを置いて、イエスから離れない状態で、物事を見つめることができると思うのです。

イエスは、マリアの態度を褒めました。マリアという人を褒めたというよりも、マリアのように、イエスの近くにいられる状態、どんなに忙しくても片手は空いている状態に留まることを褒めたのだと思うのです。片手が空いているとは、どんなに忙しくても生活の中で祈りをする空きがあることだったり、どんなに忙しくても教会とのつながりを保ったりすることです。

両手に抱えきれないほどの仕事、両手に抱えきれないほどのもてなしは、みずからをイエスから遠く離れたものにしてしまいます。すると、ストレスやイライラがたまり、不平不満がこぼれることになるのです。

どんなに忙しくても、片手は空いている状態をお勧めします。イエスの話に聞き入るだけの時間と都合を空けて、毎日を過ごしましょう。そうすることで、「ただ一つの必要なこと」をイエスが語りかけ、教えてくださいます。

そしていつかは、イエスを知らない人に「あなたも、良い方を選ぶことができます」と、自分の生活を紹介できるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ルカ11:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼よく膝も痛めずに、日課の1日1万歩が続いているものだ。準備体操も、歩いたあとのケアも、きっと不十分なはずなのに、頑丈なからだを与えてもらい、感謝している。もちろん疲労はじわじわと重なってきていて、歩き始めはあちこち痛かったりするが、今のところ後に引くようなことはない。
▼長崎の浦上教会の下に、「天主公園」という公園がある。用事で長崎に出張した時、最近はよくこの公園で日課をこなしている。松山町には、「旧陸上競技場」があり、立派なトラックと周回道路が今も利用できる。ただその場所まで行くために、およそバス停3つぶんの距離を歩かなければならず、「歩き始めるために歩いて行くのはちょっと」ということで、天主公園を利用している。
▼7月16日も天主公園を歩いた。この日もフライパンの上にいるような暑さだった。わたしが歩いた時間、クマゼミが猛烈な勢いで鳴いていて、何も聞こえないくらいだった。不思議なもので、クマゼミがあれだけ鳴くと、むしろ、静かな場所にいるような錯覚を覚える。そんな中でみっちり歩き終わった。
▼この暑い最中、なぜクマゼミは、あんなに元気なのだろう。観察することにした。セミの抜け殻を探すことから始めたが、なかなか見つからない。歩いている間に、地面に落ちていた抜け殻は見つけたが、どこかにつかまり、背中が割れた、期待していた抜け殻がなかなかない。
▼ようやく見つけた。登って、最初にたどり着く葉っぱにつかまって脱皮している。木に登ったのだから地面から出てきた場所もあるはず。木の根元を見ると、穴が何ヶ所も開いていて、どれだか分からない。適当にこれだろうと決める。
▼こんな、ふつうの公園。ここで、出張時も1万歩歩いている。先月の28日から開始して、ようやく3週間になる。お腹のへこみ具合はまったく感じられないが、ママさんミニバレーに参加して、アタックが面白いように決まるので、体のキレは間違いなく戻っている。まずは1ヶ月続け、3ヶ月くらいで効果が現れてほしい。

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今週の1枚
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第267回目。出張時に歩いている天主公園。セミも鳴いて、競い合っています。

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年間第15主日(ルカ10:25-37)イエスからの最上の招きに答えよう

2013-07-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/07/14(No.659)
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年間第15主日
(ルカ10:25-37)
イエスからの最上の招きに答えよう
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昨日の後浜串での地曳き網は大変お世話になりました。網を張るところから、綱を曳いて魚を浜に引き上げるところまで、参加させてもらいました。綱を曳きながら、そんなに遠くないと思っていた場所が、かなり長いこと綱を曳かないと引き寄せられないくらい遠いのだと知り、海の作業も大変だなとあらためて思いました。

子どもたちも、一心不乱に綱を引き寄せていましたので、お腹も空いてきっと昼の魚はご馳走に感じたことでしょう。かなり沖合から、今日は満潮になる時間が綱を引き終わる時間くらいだったので、足もとも良くない中でみんなかけ声を出し、調子を合わせて頑張っていました。

わたしも、つい張り切りすぎて左指にマメを作ってしまいました。ミサの時に左手でご聖体の容器「チボリウム」を持つのですが、指を痛めてしまってしっかり持てなくなるのではないかと心配までしてもらいました。ありがとうございます。

さて、今週の福音朗読は「善いサマリア人」のたとえでした。このたとえでイエスがいちばん問いかけたいのは、「あなたは、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(10・36参照)ということでした。

イエスのことばは、律法の専門家が、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』」(10・29)とイエスに尋ねたのに答えて言われたものですが、律法の専門家が考えていることとイエスが考えていることの間には相当開きがあります。ここからまず考えてみることにしましょう。

律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに聞き返しました。この質問は、隣人をある一定の枠で考えようとしている態度が現れています。同じ民族であるとか、同じ地域に住んでいるとか、同じ時期に共に学んだとか、そういう繋がりをもとに、隣人を考えようとしているわけです。

ところが、イエスが言う「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いかけは、いつ、どこででも、わたしはわたしを必要としている隣人に出会うということを前置きにして問いかけているのです。

たとえば、わたしたちが病院に行ったとしましょう。受け付けを済ませるために、待合室にはたくさんの人が集まってくると思います。ほとんどの人が、知らない人かもしれません。ここで、「わたしの隣人とはだれですか」と考えるなら、隣人はだれもいないことになります。

一方、イエスが問われたように、「だれがその人の隣人になったと思うか」と考えるならどうでしょうか。受け付けのために集まっている人をよく見ると、わたしよりも辛そうにしている人、離れた所にひとりぼっちでいる人、前回も前々回も、わたしと受け付けで一緒になった人など、いろんな人が目に留まると思います。

こうした人の中に、わたしが声をかけたら、喜んでくれる人がいるのではないでしょうか。声をかけてもらいたいと待っている人がいるのではないでしょうか。同じ、待合室に集まる人々ですが、「わたしの隣人とはだれですか」と考える場合と、「だれがその人の隣人になったと思うか」と考える場合では、見え方はまったく違うのではないでしょうか。

もう1つ、イエスの問いかけを具体的に考える例を紹介します。15日(月)昼1時半から蛤の総合運動公園で、上五島下五島の司祭たちが集まって、鯛ノ浦にある養護施設の子どもたちと野球の試合を予定しています。夏休み中に、県内の養護施設同士で野球大会があるそうですが、その練習として、鯛ノ浦の養護施設の子どもたちから五島の司祭たちに毎年この日試合を申し込んでくるのです。

わたしたちは、対戦する子どもたちのことをほとんど知りません。野球の試合をしても、また来年の海の日まで、一度も出会わないかもしれません。もし「わたしの隣人とはだれですか」と問うなら、対戦する子どもたちのだれ一人として、隣人とは言えないでしょう。

けれども、「だれがその人の隣人になったと思うか」と考えるなら、わたしは子どもたちの隣人になることができると思います。今年も、この日まで練習を積んで、試合をすることができた。試合は勝つかもしれないし、負けるかもしれない。それでも、真剣勝負を子どもたちとすれば、子どもたちの隣人になれるのです。

わたしたちはイエスの問う「だれがその人の隣人になったと思うか」をもっと生活に取り込んでいきたいものです。わたしはいつ、どこででも、わたしを必要としている隣人に出会うことがあるのです。いつ、どこででも、わたしを必要としている人がいるなら、隣人になってあげよう。その心構えがあれば、何かの一定の枠に隣人を閉じ込めずに、もっと積極的に自分を役立てることができるようになるでしょう。

イエスはわたしたちに、「もっと自分を役立てることができる考え方があるよ」「もっと人を思いやり、愛することのできる考え方があるよ」と招いています。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」イエスのことばは、もっと人を愛することのできる人になるための「最高の招き」「最上の招き」なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(ルカ10:38-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日に、年に一度の地域主催「地曳き網」が、後浜串(うしろはまくし)地区で開催された。昨年は天気が悪くて中止になっているので、2年ぶりの開催である。地曳き網の中心になっているのは小学生の育友会。言ってみれば、小学生を喜ばせるための網曳きである。
▼午前9時に、沖合に網を入れ始めた。わたしはいくらか裏事情を知っているが、この日に向けて漁師に協力してもらって湾内に1週間ほど魚のえさになるものを投げ込むらしい。魚をおびき寄せ、しばらく滞在してもらって、一網打尽にする計画である。
▼網は投げ入れられたが、浜では漁協の長老格が何やらぶつぶつ言っている。どうやら網の入れ方がイマイチのようで、「どうしてあんな入れ方をするのだろう。かくかくしかじかの手順で網を入れて、急いで湾を締め切らないと、魚が逃げてしまうではないか。」素人のわたしが見ていても、確かに要領が悪い。どうしてなのだろうか。
▼別の長老格に話を聞いてみると、沖合で網を投入するのはその年の育友会で選ばれた人のようで、必ずしも選りすぐりの漁師が作業をしているわけではないらしい。それで合点がいった。綱が砂浜で今か今かと待っている子どもに届くまで、予定では30分だったようだが、1時間近くかかって子どもの元にたどり着いた。
▼この日は満潮が11時17分。つまり綱を引いている間にも潮は満ちてくる時間である。足場は悪く、なぜこの時間に?と思ったりもしたが、昼ご飯の時間もあるのでこの時間なのだろう。狭い場所で苦労して長い時間綱を引いた。小学生のかけ声が、大人にも元気を与えてくれて、本当にありがたかった。
▼頑張った甲斐があって、いろんな魚を目にすることができた。イトヨリだけは、底引きをしている関係で15cmにも満たない物がたくさん入っていたのが可哀想だった。もっと長生きしていれば、わたしがふだん釣り上げているような30cmくらいにはなっていただろうに。

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今週の1枚
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第266回目。地曳き網。真面目に綱を引きすぎて、指にマメを作ってしまいました。

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年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)収穫の主に願いなさい

2013-07-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/07/07(No.658)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
収穫の主に願いなさい
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先週の火曜日、イトヨリ釣りに行きました。わたしにとってのイトヨリシーズンの開幕です。前日の月曜日、「今日は釣り日和だよ」と何人かに声をかけてもらいましたが、残念ながら月曜日は地区司祭会議その他がありまして、行くことができませんでした。

その代わりに火曜日に行ったのですが、火曜日は先週一週間を代表するような荒れた天気で、2mくらいボートが上下する状況でした。速度を上げてボートを走らせることはできず、低速で2mの波をじわりじわりと乗り越えながら、「この辺かなぁ」という場所で釣りを始めたのです。

2時間ほどでイトヨリ6匹と、サバフグ(キンブク)5匹くらいを釣り上げて帰って来ました。まだ粘っていればもう少し釣れたでしょうが、立ち上がると海に放り出されそうな波でしたから、捜索願いが出る前に退散してきました。

今週の福音朗読はイエスが七十二人を派遣する場面が選ばれています。「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」(10・1)イエスが行くつもりの場所の中に、漁師が漁をする海の上は含まれていたでしょうか。含まれていたらなぁと思います。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」わたしはこのイエスのことばを、あらためて考えてみたいと思いました。

「収穫は多いが、働き手は少ない」とイエスは明言します。ところが、収穫が多いことを保証してくれる材料はあまり見当たりません。むしろ、努力しても収穫のないのが現実です。2013年5月のよきおとずれに発表された長崎教区現勢統計表を見ると、信徒数61634人で、日曜日のミサに参加している人は20003人です。参加できている人は3分の1です。

結婚する人を数えると、カトリック信者同士は長崎教区全体で56組、カトリック信者と、キリスト教でない人(おもに仏教の方と思いますが)が202組です。幼児洗礼が341人、これは生まれた幼児の数とあまり変わらないと思います。成人洗礼は162人、両方の洗礼を合わせて503人です。これに対して、年間で亡くなる人は643人と、洗礼の数を大幅に超えています。

これらの統計は、大きな期待を持たせる数字ではないと思います。そんな現実の中で、「収穫は多いが、働き手は少ない」というイエスのことばをためらいなく受け入れ、イエスのことばを信じて働き続けるためには、どう考えればよいのでしょうか。

1つ、気にしていることがあります。2年くらい前に信徒の皆さんに長崎大司教区がアンケートをとりました。その中の声を拾って感じることは、「取りこぼしが多いのではないか」ということでした。たとえば、司祭に対する率直な意見を読んでいると、司祭の対応のまずさで拾える収穫を取りこぼしているのではないか、そう思いたくなる声がたくさん届いているのです。

海で網を使って魚を捕らえる時に、対象にしている魚よりもはるかに大きな網目の網を使えば、魚が漏れてしまうのは当然です。司祭の働きが、神の国のぶどう園で期待されるはずの収穫を取り逃がすようなら、もっときめの細かい働きをしてくれる人が必要です。これが、「働き手が少ない」ということかも知れません。

司祭が取り逃がした収穫と思われる人々はどこへ流れていくのでしょうか。イエスが行くつもりのすべての町や村ではないでしょうか。そこへ、イエスが十二使徒のほかに選ばれた七十二人が派遣されていきます。現代の七十二人はきっと信徒の七十二人です。取り逃がしたたくさんの人々をもう一度神の国の平和にあずからせるために、イエスが必要としているのです。

司祭はそれぞれ、大なり小なり欠点を持っています。司祭のまずさで、収穫を取りこぼすことがあります。本当に反省しなければなりません。そして同時に、取りこぼした収穫を集めてくれる働き手を、心から願い求める必要があります。さまざまな機会に取りこぼした収穫を、きめの細かい対応で神の国に結び付けることができれば、これからも収穫は多いのではないでしょうか。

イエスは、欠点もある人々十二人を使徒としてお選びになりました。彼らの働きがまず必要ですが、使徒たちの働きでも漏れる人がいるかも知れない。神がこの世界で働き続けて、多くの収穫に結び付けるために、ほかに七十二人を必要としておられます。

どうか、取りこぼしをしてしまう司祭たちの働きを、皆さんが七十二人に加わって助けて欲しいと思います。イエスが行くつもりのすべての町や村に、先に行って欲しいと思います。実りを付けてくださるのは神です。今も多くの実りを付けてくださる神に信頼を寄せて、お一人お一人の名が天に書き記される働きを積み上げることができるように、収穫の主に願いをささげましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼日課の1万歩散歩は続いている。この前防波堤をてくてく歩いて波止場の際(きわ)を眺めていたら、「アオリイカ」(ミズイカ)を発見した。たいてい生きものはペアで行動するので、必ず相棒がいるに違いないと思ったらすぐ側にいた。
▼歩いていたその日は昼過ぎ、薄曇りだが波は静かで、海の中を覗くには好都合な天気だった。たまたま見つけたアオリイカだったが、わたしの経験によればアオリイカはものすごく視力が良い。だからあまりじろじろ眺めているとその場から離れてしまう。
▼それで、見つけたアオリイカを長く観察するために、少し離れて見るようにした。散歩のほうも歩く速度を落とすと運動にならないので速さにも気を配りつつ、何度も行ったり来たりしながらイカを眺めた。幸い、イカはわたしに気づいていないようなので、長く観察することができた。
▼近くに、だれかイカ釣りに来ている人がいないかと見回したのだが、残念ながらいなかった。まぁいちばん日の高い時間にイカを探している人はいないだろう。もしいたら、教えてあげて釣らせてみて、腕を見てみたいところだったが、お願いする人が見つからなかった。
▼話のネタにするためにも、証拠写真を撮影したいと思ったが、人影が見えるとイカは敏感に察知して離れてしまう。逃げられずに撮影できるだろうか。カメラを向けている間逃げなかったとしても、海の中を撮影するのは至難の業である。カメラで海を撮影すると、海面が反射して、肉眼でははっきり見えているものも、カメラ越しに覗いたら何が写っているのか分からない場合が多い。
▼一か八か、思い切って撮影することにした。4枚撮影したうち、何とか1枚だけが使えそうだったので、堤防の場所を撮影したもう1枚と組み合わせてみた。30センチくらいはあるだろうか。

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今週の1枚
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第265回目。散歩の間にイカを発見。30センチくらいありそう。食べたいなぁ。

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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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