★★★★★★★☆☆☆
先日、新聞のちっちゃい記事に、マザースキー監督の訃報が載っていましたね・・・。これまで『ハリーとトント』『結婚しない女』の2本しか見たことないけれど、記事を目にして寂しいなぁ、と思いました。本作は、ダイアン・キャノンの若かりし日を見たくて大昔にレンタルリストに入れていたものが今頃になって届いたので、たまたま、このタイミングでマザースキー作品になってしまったけれど、見終わって、改めて、また一人逸材がこの世から消えたのだなぁ、と改めて思いました。
本作のテーマは、ズバリ「セックス」です。心と体と一致しているかいないかで、その行為の持つ重みが全然違ってくる、という主張の下に話は展開されていくのだけれど、もちろん、ことはそう単純ではないわけで、、、。
夫婦ってのは、社会的に「私たちはセックスパートナーです」と公言するものであります。なので、結婚する=夫婦になるということは、セックスパートナーになることであり、若かりし頃、親に「見合い」を強制され、一番、私にとってキツかったのはコレでした。つまり、見合いってのは「この人とセックスできます?」と聞かれているに等しい、と思ってしまう訳です。なぜなら、見合いは、直接2人が会う前に、写真とで、その人が結婚相手として互いに社会的条件をクリアしているから、当人同士の面会が成立するわけですね(まぁ、正確にいうと、特にルックス面でいうと、そうでもないんだが、ここでは敢えて言及しません。面会前の拒否権でいうと圧倒的に女に不利、ってことだけ明記しておきましょう)。つまり、直接会う時点で条件面はオッケーな訳です。後は、性格だの何だのってことでしょうが、要は「セックスできるか否か」でしょ、と思っちゃう私は、決して自分が変態だとは思えなかったのですよねぇ。しかし、見合いを強いた母親は、こうのたまいました。「セックスなんて誰とだって出来るんや!!」、、、、、、、、オェッ。。
はてさて、本作では、心が伴わない、単なる行為としてのセックスなんて、大した意味はない、排せつ行為に等しい(とまではセリフにありませんが)みたいなことを、ボブ&キャロル夫婦は互いの不貞行為を突きつけられて言葉にしています。その前に、作品の冒頭部分でおかしな研修に夫婦で参加して、頭のねじを外されちゃった訳ですが、、、。その理論から行けば、前述の、私の母親の言い放った言葉も真理かもしれません。確かに、生物学的には誰とだって、雄と雌なら成立します。
しかし、2人の親友夫婦であるテッド&アリスは常識派。特に、アリスはお堅いので、ボブやキャロルに着いて行けません(まぁ、トーゼンだと思うが)。テッドも最初はアリスに近かったけれど、ボブによって浮気心を開眼され、心の伴わないセックスを通りすがりの女性としてしまい、それをアリスに告白するという・・・。あ゛ーーー。ここに至り、アリスも一瞬崩壊しかけて、この2組の夫婦は、スワッピングを企てる訳ですが、果たして・・・。
もちろん、成立しません、夫婦交換なんて。つまり、セックスなんて、心か体かとか、そういうハナシじゃないのです。人によって違うし、でも、誰とだってできる、という言葉に対してだけは、声を大にして言いましょう。「それは違います!」とね。誰とだってできる、と言い放つことは、つまり、自分の性生活の貧困さを公言しているのに等しい訳で、もの凄く恥ずべきことです。ここでいう「性生活の貧困さ」というのは、相手に対する気持ち云々ということより、セックスを一度でも「互いの全人格のコミュニケーション」と捉えて行為をしたことがあるかないか、ということです。ま、行きずりのセックスには、あんまりないかもですが・・・。とにかく一度でもあれば「誰とだってできる」とは、口が裂けても言えないはず、と私は思う訳です。
ということを、本作を見ながら考えました。この感想文は、ある意味、私の父親をも貶めることになるのかも知れませんが、まあ、母親の暴言は事実なので敢えて書きました。
ダイアン・キャノンは若いころもあまり違わないなぁ、という感想。『アリー・myラブ』でウィッパーを演じていた彼女も素敵だったし。ロバート・カルプも犯罪者以外の役で初めて見ました(『刑事コロンボ』の常連だったので)。ナタリー・ウッドもチャーミング。エリオット・グールドは、『ロング・グッドバイ』でのマーロウと同じ俳優とは思えず・・・。何気に豪華キャストで、得した気分。
マザースキー作品、他のも見てみたくなりました。