心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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恒例の

2017年01月17日 | ほんのすこし
大晦日に欠かせないものがある。
それが茶碗蒸し。
毎年、母のところで作るが、毎回できが違う。味も微妙に違う(笑)。
今年は出汁の取り方が良かったのか、母にべた褒めされた。

今年は自分のところから茶碗蒸し用の器も持参した。




母のところにもあるのだが、いつも同じ容器よりもたまには変化を、と思ったのだ。吸い物椀も普段使いのものは止めて未使用のものを出してきた。

ただ残念だったのは、茶碗蒸し用のスプーンを忘れたことだった。食べる段になってから気づいて慌てた。これだから最後の最後に気持ちがダウン。

こうした恒例のものや恒例の行事めいたことがあるのはなんだかいいなと思う。そこには長年の家族の歴史といえばおおげさなのかもしれないけど、月日の流れの濃さを感じる瞬間があるからだ。家族が一番多かった時代。まだ父も弟も健在で、料理は母が全部こなしていた。母は自分は田舎者だから・・・といつも言うが、それがどうした? と言いたくなる。
だって、母の料理はいつも美味しかったから。
ルーも市販じゃないシチューは「ほっぺがとろける!」ぐらいの興奮があって、弟といつも競い合って食べた。母は新しい料理を覚えるとすぐに食材を安いのに換えても美味しく作ってくれた。一体どんな魔法をかけたのだろうと思うほど、どの料理も美味しかった気がする。
そんな二人を父が晩酌しながら目を細めて見ている。母も笑いながら見ている。
四人が揃っていた時代。
懐かしくて、思い出せばどこか安心感が漂う時代だ。

あの頃から大晦日には茶碗蒸しが出ていた気がする。わたしは最後に出てくる銀杏の味が好きじゃなかったので、栗の甘煮が出てくると内心ニコッとしたものだ。だから今わたしが作る茶碗蒸しは底に置くのは栗の甘煮、こういうときは作る人の特権だね。もちろん母も栗の甘煮の方が好きに決まってる(笑)。
あぁ、そうだった。
父も茶碗蒸しは好きだった。ツルリとした食感がたまらないのだろう。美味しそうに食べていた小食の父の姿を思い出す。
食卓というのは思い出の宝庫だ。
だから若い人よ、家族で囲む食卓を楽しんでほしい、と思う。

今日はお昼、母と食べよう♪