心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

遅ればせながら始める

2022年01月09日 | ほんのすこし
失敗したなあ、これを見た瞬間、思った。
生協のカタログを見たときは継続するってなかなかいいんじゃないの? なんてちょっと想像して届くのが楽しみだった代物だが。届いたものを見たら、あまりにも大きく重く、しかも頑丈な箱に入っていて・・・
想像していた手軽さはどこにもないってことに気がついた。

仕方ないので、ベッド脇のテーブルに置いていた。寝る前に書き込みできるかもしれないと軽く考えていたのだ。

あぁ、それは全くの当て外れだった。
元旦から一度も開くことなく、今日まで放りっぱなし。日記、しかもたった4行だけの日記をつけるという行為ができずにいたのだ。一体わたしは今まで何をしていたのだろう?
ここはどこ? わたしはだれ? な状態だ。

年明けからかなりの挫折感を味わうことになったが、表紙にちゃんと2022ー2031と明記されているから、来年から始めるというのも悔しい。だから、今日はつけることにした。来年から始めるよりはいいだろう。

わたしに足りないものは継続だ。それの最たるものがこの日記だと考えることにした。10年(おっと、9年と357日?)書き続けていけるかどうか・・・それまで生きているならってことだけどね。

昨年はgooに入ることも記事を書くこともなかなかできずに終わった。今年は少しずつでも書けたらなと思う。何かを残すにはここは最適なんだけど、気持ちが遅れがちになるのは何故だろう。
まわりにどう見られているか、とか、どう見られたいのか、とか、そういう気持ちがまだまだ捨てきれないんだろうな、きっと。
友人が「あなたが思うほど、周りの人はあなたのことを見ていないよ」と何年か前に言われたのが、まだ頭に残る。そうだよな、そうなんだよなあ。
だから、素直に書けたらいいな・・・

この頃、よく昔のことを思い出す。昔のふがいない自分のことが多い。過去を修正したいけど、無理だ。思い出したくない過去、蓋をしておきたいこと、たくさんたくさんある。今更ほじくり返してどうする? と自分に問う。
それより目の前の一日をどう過ごすか? が大事だと言いきかせる。

母とふたりで過ごせる時間があとどのくらいあるかわからないけど、大事に大事に、過ごそう。


晴れたからといって

2022年01月08日 | ほんのすこし
連日、雪です。昨日はその合間をぬって、太陽が顔を出しました。雪がピカピカです。

窓の外を見た母が
「晴れたなあ。ストーブを消すか」と言いました。一瞬、目がまん丸くなったわたしの顔を見て
「こんなにいい天気だもの。灯油がもったいない」ですと。
「そんなあ、絶対寒いから、風邪引いたらどうするの?」と引き留めるわたしを尻目にストーブの電源を切りました。たしかに部屋に差し込む太陽の日差しをみれば、暖かそうな気もします。
「ストーブ消して、ベッドに入れば全然寒くないよ」と節約できた気分の母は早速、ベッドへ。頭はすっぽりとバスタオルで覆っています。あれじゃあ、寒さも感じられないか・・・

わたしは二階へ行き、作業を。しばらくして階下に降りてくると、なんとなくひんやりした感じがします。日の光は差し込むものの、部屋の温度はいつもよりも二度低い状態。う~ん、これは無理だな。
ストーブのスイッチを入れて母の方を見ると、鼻音を立てて寝入っている様子。起きたら、空気がぬくぅくなっていますよ。

夕方のニュースで地元がマイナス16度だったと報道されていて、びっくり。
「母さん! 今日一番寒かったみたいだよ。マイナス16度だって!」と伝えると、「どうりで寝ていても顔が寒かったもの」と答えました。
内心、天気がいいから暖房はいらないって言ったの誰でしたっけ? と突っ込みをいれてました。

雪国は快晴だからといって、油断してはなりませぬ。
雪が降るときよりもずっと冷え込んでいるときもあるのですよ。
かろうじて風邪引きさんにはならなかった二人でした♪


夜中の話

2022年01月07日 | 母のこと
普段は見逃しているものが、状況が変わると、その存在を意識することがある。
影もそうだ。
日中、何度もそこを通っているのに(階段近く)目を当てることが少ない。たまに埃を払うために近づくのだけど、一日で必ず目に留めるといった類いのものではない。
だけど、夜中に母がトイレに入る音に気づいたとき、そっと階段下の物音に耳を傾け、寒いなと思いながら母がトイレから出てくるのを待っているときなど、それは目に入る。

階段廊下の天井二箇所に備え付けれた小さな照明は、建築士がしっかりと計算しつくしたと感じられる小さな存在で、夜中の空間を暖かなものにしている。照明のありがたさをしみじみ味わうひとときでもある。
トイレの戸が開く音がして、母が出てくる姿を見つける。そばに行って声をかける。
「お、お前も入るのか?」
首を横に振って、トイレの戸を母の後ろから閉める。前に足を出した母の腰を両手で支え、歩くのに不安がないようにする。
ベッドに入る前に白湯を飲む母を待ち、ベッドに腰掛けた母に下着の着替えを促す。
「汗かいているんじゃないの?」
「大丈夫だ」
パジャマの上から背中を触ってみる。じんわり湿った感じがして、
「やっぱり取り替えた方がいいよ、汗かいてるから」
「そうか?」
着替えを手伝い、さっぱりしたところで横になることを勧める。最後の布団をかけてやると、
「悪いな、お前、寝れなくなるんじゃないか?」
「大丈夫、また寝るから」
それを聞くと、少し安心した顔をして目をつぶる。

階段廊下の本棚の上が小さな灯りに照らされている。
昼間は見えなかったガラスの下に文様がはっきりと映っている。あぁ、これってこういうデザインに見えるんだ・・・

夜中には、日中知らなかったことが少しだけあるようだ。
トイレに何度も起きる母だけど、そのうちの全部を見ているわけじゃない。そのうちの少しだけのお手伝い。それができると、わたしの中でちょっと嬉しい気分が湧いてくる。
ただ、手伝ったあとに再び眠れるかどうかということは別の話だ(笑)


名前で呼ばれると・・・

2022年01月06日 | ほんのすこし
お正月もだんだんと過ぎていき、お腹の方もだんだんとサイズアップしていき、今年はお餅三昧してしまい、体型がもう戻らない。
仕方なく、昇降運動を少しずつ始めています。仕方なくってところがミソです。長続きしない予想がみなぎっています。

さて、タイトルについて。

12月も終わりに近づいたある日のこと。
某大型スーパー(この町での大型ってことですよ)の玄関前を通り過ぎ、目的地の宝くじ売り場に向かっていたときでした。
向かいからスーパーへと向かってきた男性が、すれ違ってから
「〇子さん!」とわたしの名前を呼び、会釈をしていました。
ご近所さんでした。思わずわたしも会釈をし
「お仕事終わってきたんですね~」と声をかけました。首を振ってそのままその方はスーパーの方へ向かっていきました。

たったそれだけのことです。
たったそれだけのことなのに、なにか心に残ることがあって。

何が残っているのだろうとしばらく考えていました。

〇子さん! と名前で呼ばれることっていつ以来かなと思ったのです。女性には呼ばれることはありますが、男性(若くなくても)から名前で呼ばれることは滅多になくなったのです。
結婚すると、だれそれさんの奥さんだったり、だれそれちゃんのお母さんだったり、名字で呼ばれることはあっても、下の名前で呼ばれることは殆ど無かったなあと思い出しました。

だから、なんだかすごく新鮮に感じたのです。
わたしの名前は〇子なんだった・・・なんてね♪
もちろん、母とかには名前で呼ばれるし、父が生きていれば名前で呼ぶでしょう。でも他の男性から名前で呼ばれることは無かったなあ、と。

そして、これから先もそんなに名前で呼んでくれる方にお目にかかる機会は無いだろうな、と。

戻ってから、母にご近所さんに会ったことを話すと、
「そりゃそうだよ。わたしのことは〇〇さんって名字で呼んでいるから、同じ家に住むお前と区別するには名前で呼んでいるんだよ」と答えました。
なるほど・・・
なんとなく、さっきまでの新鮮さがどこかへいってしまいましたが、それでも名前で呼ばれるのって嬉しいものだと思いました。

※※※

昨日と違って、今日は晴れ!
積もった雪もキラキラしていました。

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