今日は午前の方が体調が悪くキャンセルになって・・・・午後からのキウイ教室のみになったのね。そんな訳で、割とベスパが進んで・・・

段々と雰囲気が出で来たのね。これなら持ち主じゃ無くても判ると思うんだけど・・・。そんなこんなでキウイは、スノーマンを無事に完成させて、
絵馬も触っていたけど、見ていてそのグレードで、話しながら進む事が出来るなんて事になると、そりゃ楽しいだろうな・・・って、真の楽しいって域だと思うのね。
そもそも未熟な時は、必死に作っているから、俺の話ですら聞いていられないのね。それでも何とか完成すると、出来たぁって事が楽しいに繋がるのね。
それが作りながら、話を聞く事だけは出来るようになるのね。相槌くらいは出来て・・・そうなると、手は止めずに聞けるから、進みながら情報を得る。
たわいも無い話に笑え、大事なお小言には耳を澄ませ、切りながら是正も出来るし、当然進む。この位になると、最初の作品の感想を言えるくらいになり、
何個か飾っている話も出来たりして・・・こんな時が楽しいって言いつつ、自宅でも進める時期なのね。それを過ぎると、自分から話せるようになり、ながらが上手になって、
段々と自分発信の話が出来たりするから、いよいよ大作なんて事になる。当然本格的になるから、楽しいだけじゃ無くなる。しかもチャレンジするんだから、
自分の一番を作るのだから、そりゃ楽しいってよりも大変の分量が多くなる。勿論それでも楽しくない訳じゃ無いんだけれど、進まないし・・・。
ただそんな事よりも難しいのは、例えば似ている・・・を重視するのなら、繊細に切り、それに似せる為に写真を良く見て、針の幅のような光や影すら見逃さない・・・
例えば、目は黒・・・なんて思い込まずに、大きく作るなら、その目に映り込んでいる景色すらも作れないかな・・・と。ただそれだって、今の腕よりも
目が肥えていると、自分の腕以上を望んでしまったり、理想だけが先走り、原寸大以下の大きさで作っているのに、ここに影が・・・なんて繊細では無く、
繊細過ぎる事を言うと、ただただ進まないだけじゃ無くて、卑下したり、やる気も失って来たりもするのね。しかもマンツーマンだと、出来る人つまり先生と
出来ない人つまり生徒の関係になってしまうのね。これが個人レッスンの弱み。逆に数人いて、しかも上手い人と相席なんて事になると、私もそうだった。
ってこんな上手い人もそうだったのかぁ・・・って安心感だったり、じゃ私も出来るかな・・・と希望になったりもする。じゃ相席の方が良さそうだけれど、
当然、その時間分の人数で割った時間が指導出来る時間になる。例えば3人で3時間なら、一人あたりの指導は1時間ってね。でもこれも数字のマジック。
そんな訳が無いのね。相席の場合、もしそこに体験なんて初めての人がいたら、かなり付きっきりみたいになるから、大半はそこに時間を使う事になる。
でも大抵相席は、上級者と一緒って事になるから、目を離せる場合が多い。つまり上級者も先生のように見守りくらいな事もしてくれたりするから。
ただ一見、それじゃお金払って上級者は教えて貰えず時間も取られて、割に合わないじゃん・・・って思う人もいるだろうが、実はそんな事も無くて、人に
教えるって事は、そこに責任も加わり、ただ自分の作品を進めるだけ・・・の感覚では無く、面倒を見つつ、自分のも進める・・ながらの究極が出来る練習になるのね。
しかも、教わる側だけだったものが、教える側を経験した時に、教える大変さを知ると、今度は伝えないと伝わらない・・・って俺との教室に反映されるのね。
いかに本気で伝えようとしていなかったか?・・・ってね。今そんな事になっているのが棟梁だろうね。人から上手いって言われるようになると、当然人に
聞かれる事もある。それに向き合えば時間を取られる。そしたら今進む事が出来ない・・・最初はここに戸惑う。ただその時に、いつかの自分に会うのね。
あの時の自分だ・・・ってね。この感覚こそが初心に帰るの原点。みんな初心に帰るの言葉や意味だけを知っているだけで、それって何?どんな事?って、
聞いても答えられないのは、伝える気が無いからなのね。考えないんだもの。所詮他人事で、向き合う気も無いし、自分の今だけ考えるのね。
つまり今反映する事だけ・・・所が中級、上級って何?って言うと、上手くなりたい・・・ってこの言葉だけで上手くなる?それは勉強頑張ります・・・と
変わらないのね。何が足らなくて、どう努力をして、どう結果を出すか?にならないと、小学生のままになっちゃうのね。そうでは無くて、具体的にどうするか?
反復すると慣れる。継続すれば尚更。でも同じようなものを同じ気持ちで、頑張るだけ・・・そんな事では、成長速度は落ちるし、今の分だけ。
それを今を捨てても、中長期的に種を撒き、水をやり栄養バランス、そして日光・・・こんな事を植物だけじゃ無く、人もそうして育てないと・・・。
それなのに、今のみ・・・もしこの数時間を捨てる事が出来るのなら・・・でもお金払ってただ捨てるんじゃ無くて、この数時間、この数十分捨てて、
自分の時間の進みよりも、こっちの話や、隣の人の質問や相談に答えられる自分がいたとしたら?その時間をただ使うのでは無くて、教える経験、あの時の自分と
会う機会と考えられるようになると、腕では無く感性や感受性が鍛えられるのね。だって自分のだけ進める人は自分の考えのみで突っ走るのだから。
でもそれが人と向き合えると、あぁこんな考え方があるんだ・・・とか、あぁ私もこんなだった・・・って事が経験出来ると、経験しただけでは単なる経験だけど、
それを感じて、変換したり、相反する気持ちになったり、その気持ちの変化こそが、大作に生かされるのね。ロングランの作品では、人の生死も経験する。
いたはずの人がいなくなったり、生まれて来たり・・・コースターや鍋敷きならそんな事にはならないのね。だって今日完成するから。そんな大作を
乗り切ると、それが自信になるのね。見た人が凄いね・・・って言い出すから。可愛いぃぃとか、良いじゃん・・・とか、安易にも思える表現はされないから。
本当に上手いと、えっ・・・とか、おーとか、感嘆符だけになる。それで完全に楽しいだけから抜け出る。これが成長って事になる。ここまで来たような人がキウイで、
プロ顔負けなんて言うセリフに該当するだろうね。誰が見てもぶったまげる作品を持っていて、人にも教えられるし、俺の手伝いも出来る。ただプロじゃ無い
だけで、とんでも無い実力者だと思うのね。そんな人が体験教室の下地で遊んでいるんだから、そりゃ結果も良いし、楽しいし、楽だし・・・。
ただ量産って言う大変さはあっても、中々なのは微妙に変えて、何が良かったのか?検証までするって言うんだから、贅沢な話なんだけれどね。何でも経験値で
・・・人とは違う経験値を得るだろうし、俺もそこに向き合うと、その批評も出来るのだから、お互いに経験を増やす事が出来たりするし、共感すれば、
共有も出来るのね。つまりいつか仕事になった時、あれで・・・って言うだけで、あぁあれね・・・って引き出しになるのね。千と千尋の、釜爺ぃぃみたいに。
引き出しがいっぱい・・・ってね。こんな時はこれ、こんな時はこれ・・・ってね。でもまた新しい人が来て・・・また引き出しが増える。そうね、
ワクチンとウイルスの追いかけっこみたいなのが、出がらし先生にならないコツで、永遠に同じ教え方のみなら、大学教授みたいな感じに厳粛にすれば良いが、
それじゃ子供は飽きちゃうのね。やっぱさかなクンじゃ無いと・・・でも、俺はそんな面白い人じゃ無いし、ここだけ見ている人には気難しそうって思われるし・・・
文字だけだと、声の質感とか、ボケかましてるんだけど・・・のニュアンスって届かないしね。ただ常に思うのは、これが何かの足しになったりするかな?
明日の俺にも、見ている人達にも・・・って。まぁ良薬口に苦し的な事が多いけれど・・・。ただ体裁なら、世の中にいっぱい落っこちているから、ここで
わざわざ言う事も無いのね。だって毎日何千文字って、そこそこ大変なのに、体裁みたいな頑張ります・・・なんてねぇ。必死ですとか、どーでも良いのね。
本気な人に届けば。なぁんてね。