今日はキウイとタピオカの相席教室。久し振りなのね・・・タピオカがアトリエに来るのって。ただ、と言う事はアトリエに来るような用事があるって事・・・つまり新作に入るのね。そんな訳で話を聞くと、ワインテーブルで娘さんの好きな絵を作りたいって事で、下絵の段取り。
それは塗装がしてあるから、ペーパー掛けだったり、拡大コピーだったり、下絵の写し方だったり、地味ぃぃにやる事は満載で、下絵だけでも、2.3回は同じ絵を写さないとならないので、正直それだけでも緊張するから疲れるのね。そんな合間に目地をして、オルテガ柄のトレイが完成したのね。
流石に切る安定感がお見事で、こう言う事させたら絶品なのね。そんな事からも新作は漫画の縁取りのような線を1cmタイルを3分の1いや、4分の1かな?その位、何しろずっと繰り返すようになるんだけれど、これを見ればそこに心配はいらないだろうから、恐らくガラスタイルに戸惑うのかも知れない。
ただ、これだけ切れるし、キウイと言い、昔の公民館の時からの2人の切る事の上手さは抜群の安定感があるのね。それとオリジナルでは無いから、どうしようかな?・・・と考える事は少ないから、ある意味、レシピや図面、楽譜のような決まり通りに進めるやり方は、タピオカには性格上、向いているのね。
それと、例えば自分のを作るってスタイルとこうした娘に作るって言うのでは、モチベーションも変わって来るし、それが労作展のように自分の為の作品と言いつつ、宿題って言う絶対感や、人に見せる前提であったり、期日があるって言うプレッシャーはやらなきゃ・・・って事になりやすい。
それとは違って大事な人に作る・・・って言うのは期日は特に決まっていないのなら、慌てる事は無いし、大事な人なのだからモチベーションは下がらない。でもそれが、大して大事でも無い人に頼まれちゃったりしたものだと、どうもねぇ・・・くらいの感じで果たしてモチベーションは上がるかな?
こうした違いはあれど、どちらでも自分のスタイルにあっているのなら、常にいつも通りに作れるとは思うのね。でもそれが自分のスタイルに合っていなければ、日頃の成果が結果に表れにくいのね。それが例えば自分のものだけを作っているような人が、人の為のものを作るような事になった場合に、この
違いを知らないと、知らぬ間にプレッシャーが掛かったりして、更に表現として、人のだからこんなもんで良いかっ・・・なんて言い方があったり、人のだから・・・って逆にいつもよりも・・・なんて言い方もあったりして、しかもその言い方通りならまだしも、複雑なのはどちらの言い方をしても、
変わらない人だと、結局プレッシャーには変わらないし、いつもよりも・・・なんて言っても、左程変わり映えの無い場合は、そう言う意識の低さから来るものだと思うのね。それは上手い下手なんて単純なものでは無くて、知らず知らずに進みたい・・・を先行させているのね。
それが半強制的に大作って言うのは、進みたいなんて安易に進めると大きな後悔に繋がりやすいし、慌ててもすぐには終わらないから、じっくり作る姿勢に慣れて来る。けれど今度はそこに慣れると、小物の場合でも、慌てないって良さそうだけれど、逆に1度考えるとしばらく考えなくても同じ事の繰り返し
の大作に慣れてしまうと、小物のようなものでも丁寧にやっているのだから、ここまでで良いや・・・みたいな先延ばしにするようになったりもする。勿論そのやり方は慌てていないから、結果としては出来栄えとして悪くは無いけれど、実は丁寧にやっているから時間が掛かっているのでは無くて、作品の
デザインだったり、アイデアだったり、切る事が上手くなった分、やれる事の幅は広がったけれど、それを満たす画力が見劣りしたりする。その上、ああでも無い、こうでも無いと悩めば、当然そこに時間は掛かり、しかも切る事と描く事を比較した場合、差は歴然になったりする。
これが画力が勝っている人は、当然それに勝てる切り方になるには、ほぼ無理に近いのね。何せ人にはタイルを切れる限界があるから。例えば鉛筆で線を描いて、その通りにタイルを切って見て・・・絶対に無理だから。だから、それを切るには自分の切れる太さまで拡大する事になるのだけれど、
大抵の人はそれを考えずに大きさを決めてから作ろうとするのね・・・・だから失敗の確率を上げてしまうのね。これが大きさ問わずならチャンスも生まれるが、そんなに大きくなるならいらない・・・って言う人ケースも多々あって、そんな場合は心持ち自体が大きさに耐えられないのね。
こんな話の例は、このテーブルが欲しいから、それが置けるリビングのある家を買う・・・みたいなかなり有り得ない展開な話で、普通は部屋を決めてそこに入る家具・・・って決めるのね。でもこの考え方は吊るしの既製品の洋服を買うスタイルで、オーダーメイドならそこに合う寸法に作れるはず。
ただね、そこに合うものを作れるのはプロの仕事であり、作る人が素人ではその通りにはならない場合が多いが、そこを大きさの譲歩さえあれば、場合に寄ってはそれ相応の作品になる・・・これを踏まえて労作展を考えれば、自分の作品、半強制的な宿題、人に見せる、時間も掛けるし、大きさには、
こだわらない・・・となれば結果が出る方向になるのは当たり前。しかし、主婦の方では、中々何十時間も取る事は難しいんだけれど、慌てずにロングランでやれば、何年間か掛かるだろうけれど、手に入れる事は不可能では無い。けれど、大事なのは心持ち。果たして耐えられるか?なのね。
しかも強制力は無いし、人にも見せない・・・これではカラオケみたいになっちゃうのね。お風呂で歌っても単に自己満足。所がそれも歌うって練習になるから慣れるって事には良いが、大きな声を出さない分、腹式呼吸にはならないし、それをやるにはカラオケに行くしかない。
そこなら日頃出さない大きな声で歌える。だからストレス発散なんて事に繋がったりするんだけれど、でもそれでは自己満足だから、ただ次々と新曲を歌ってもいつか飽きてしまうのは繰り返すだけだから・・・刺激が足りないのね。そこで仲間と和気藹々となるのだけれど、当然プレッシャーがね。
勿論上手ければ楽しいが、下手では楽しめない。だから練習になるんだけれどね・・・だから上手くなりたい・・・ってね。そこをクリアー出来た人は上手くなる方向に行くし、それが嫌だから辞めるに繋がってしまうと、常にそう言う事が苦手になる。これが無人島で黙々楽しめれば問題無しなのね。
ただ中々そんな人はいないし・・・しかも上手くなると当然ライバルのような人は出て来るし、それをウイルスにするも、ワクチンにするも自分次第。人の成長とはこんな事の繰り返しなのね。しかも、そのきっかけは身近な人に憧れたりすると、ああなりたい・・・こんなきっかけ1つで道が決まる。
ただそれをいきなりかぐやみたいに・・・なんて思ってもそれでは憧れのみでまず無理だろうね。身近じゃないとね・・・それによって、聞く事や見る事が出来て、あるいは質問なんて出来たりすると、この人も同じ悩み事でこんなのを作れる人になったんだなぁ・・・って思えば思う程、私も・・・
って心に火を付けやすい。けれど、凄い・・無理ぃぃでは刺激にもならないし、一番進歩しないのは、私は趣味だから・・・を何年も言い続ける事なのね。それでは周りに及ぼす環境を楽しむだけの環境を整えてしまって、安全安心のみになりがちなのね。
それが上手い人、凄い人、そんな人がいる場所はそれを見られる環境にあるのだから、周りもそれに巻き込まれる環境になる。しかもその中に、私もそうなりたい・・・なんて人が生まれると、更にその環境は上手くなりたいって集団になり、やらなくても良いって感じでは無くなるものなのね。
そう言う点では、kameyaさんの4人は趣味って言葉は使うものの、レベルが上がって行くのは当然で、それにはそのリーダー的な人が必要で、それが棟梁であって、キウイであるのだけれど、その人達だけではそんな環境にはならないものでね、それをサポートする役目みたいな人がタピオカであって、
おかみさんなのね・・・それ相応の実力があって、認め合う事が出来て、方やオリジナルであったり、そうで無かったり、大きさも違ったりして、2つの見本手本を見られる環境は、下に続く人にはどちらも見られる訳で・・・洗練されるのね。何しろ目が肥える。身近で常に見られるのだからね。
しかも見る気があるのなら、生でメイキング・・・こうするのかぁ・・・いつかこう出来ないかなぁ・・・ってね。でも同じ先生に習っているのね。そこで自宅でも・・・なんて復習をするようになると、見る見る間に上手くなるもので、2人も子育てしている頃には夜な夜なやったものなのね。
だから基礎が出来た人なのね。だから趣味の人には見えないし、逆にここまで出来る人の小物なんて言うのも、とても楽しめるだろうし、その小物ですら、習っている人達には真似の出来ない差を感じるだろうし、けれどそれを感じられれば、感じた分、意識が変えられれば行動も変わって来るもので。
常にそれを得て、それでどうする?って俺とのやり取りをすれば良いだけで、自分の1歩が、動かない1歩、ぶれない1歩目がずっと言い続けられるのなら、それで良いが、仮に趣味です・・・と名乗り、10年目も趣味ですなら、とても表現が曖昧で、一見ぶれていなそうだけれど、昨日のアヒルの子の話
と一緒で、アヒルです・・・と言い続けて、ハクチョウではね・・・単なる裏切者じゃん。ってな話。それならいっその事、いち早く気が付いて、ハクチョウみたいになりたい・・・って言えば、それならアヒルの生き方じゃないよね・・・って指導も出来るが、趣味ですのままなら、無理はさせない。
そんな指導になる。当然チャレンジなんてもっての他。安全安心、絶対失敗が無い確率の高い方をチョイスさせるね・・・しかしながら、もし上手くなりたい・・・もっとって言うのなら、常に出来そうで出来ないかも・・・危ない綱渡りみたいな事を言う回数は増えるだろうし・・・。
だからこそ遊びも入れてね・・・ってルールにしているのだけれど。中々、その遊び方が伝わらないのはもどかしい点もあるけれど・・・。おっと元に戻れなくなっちゃったのね・・・いずれにせよ、この2人が揃うと、何かその頃の事を思い出すのね・・・あの頃は良く2人揃って合ってたのね。
娘さん達もいたりしてね・・・随分と長い付き合いになったのね・・・あの頃と違って教える事も少なくなったかな?まだまだ教える事があるかな?いずれにしても、また・・・って次があれば、それに応じられる先生でありたい・・・ただそれだけ。

そんな後は、表札の続き。
それは塗装がしてあるから、ペーパー掛けだったり、拡大コピーだったり、下絵の写し方だったり、地味ぃぃにやる事は満載で、下絵だけでも、2.3回は同じ絵を写さないとならないので、正直それだけでも緊張するから疲れるのね。そんな合間に目地をして、オルテガ柄のトレイが完成したのね。
流石に切る安定感がお見事で、こう言う事させたら絶品なのね。そんな事からも新作は漫画の縁取りのような線を1cmタイルを3分の1いや、4分の1かな?その位、何しろずっと繰り返すようになるんだけれど、これを見ればそこに心配はいらないだろうから、恐らくガラスタイルに戸惑うのかも知れない。
ただ、これだけ切れるし、キウイと言い、昔の公民館の時からの2人の切る事の上手さは抜群の安定感があるのね。それとオリジナルでは無いから、どうしようかな?・・・と考える事は少ないから、ある意味、レシピや図面、楽譜のような決まり通りに進めるやり方は、タピオカには性格上、向いているのね。
それと、例えば自分のを作るってスタイルとこうした娘に作るって言うのでは、モチベーションも変わって来るし、それが労作展のように自分の為の作品と言いつつ、宿題って言う絶対感や、人に見せる前提であったり、期日があるって言うプレッシャーはやらなきゃ・・・って事になりやすい。
それとは違って大事な人に作る・・・って言うのは期日は特に決まっていないのなら、慌てる事は無いし、大事な人なのだからモチベーションは下がらない。でもそれが、大して大事でも無い人に頼まれちゃったりしたものだと、どうもねぇ・・・くらいの感じで果たしてモチベーションは上がるかな?
こうした違いはあれど、どちらでも自分のスタイルにあっているのなら、常にいつも通りに作れるとは思うのね。でもそれが自分のスタイルに合っていなければ、日頃の成果が結果に表れにくいのね。それが例えば自分のものだけを作っているような人が、人の為のものを作るような事になった場合に、この
違いを知らないと、知らぬ間にプレッシャーが掛かったりして、更に表現として、人のだからこんなもんで良いかっ・・・なんて言い方があったり、人のだから・・・って逆にいつもよりも・・・なんて言い方もあったりして、しかもその言い方通りならまだしも、複雑なのはどちらの言い方をしても、
変わらない人だと、結局プレッシャーには変わらないし、いつもよりも・・・なんて言っても、左程変わり映えの無い場合は、そう言う意識の低さから来るものだと思うのね。それは上手い下手なんて単純なものでは無くて、知らず知らずに進みたい・・・を先行させているのね。
それが半強制的に大作って言うのは、進みたいなんて安易に進めると大きな後悔に繋がりやすいし、慌ててもすぐには終わらないから、じっくり作る姿勢に慣れて来る。けれど今度はそこに慣れると、小物の場合でも、慌てないって良さそうだけれど、逆に1度考えるとしばらく考えなくても同じ事の繰り返し
の大作に慣れてしまうと、小物のようなものでも丁寧にやっているのだから、ここまでで良いや・・・みたいな先延ばしにするようになったりもする。勿論そのやり方は慌てていないから、結果としては出来栄えとして悪くは無いけれど、実は丁寧にやっているから時間が掛かっているのでは無くて、作品の
デザインだったり、アイデアだったり、切る事が上手くなった分、やれる事の幅は広がったけれど、それを満たす画力が見劣りしたりする。その上、ああでも無い、こうでも無いと悩めば、当然そこに時間は掛かり、しかも切る事と描く事を比較した場合、差は歴然になったりする。
これが画力が勝っている人は、当然それに勝てる切り方になるには、ほぼ無理に近いのね。何せ人にはタイルを切れる限界があるから。例えば鉛筆で線を描いて、その通りにタイルを切って見て・・・絶対に無理だから。だから、それを切るには自分の切れる太さまで拡大する事になるのだけれど、
大抵の人はそれを考えずに大きさを決めてから作ろうとするのね・・・・だから失敗の確率を上げてしまうのね。これが大きさ問わずならチャンスも生まれるが、そんなに大きくなるならいらない・・・って言う人ケースも多々あって、そんな場合は心持ち自体が大きさに耐えられないのね。
こんな話の例は、このテーブルが欲しいから、それが置けるリビングのある家を買う・・・みたいなかなり有り得ない展開な話で、普通は部屋を決めてそこに入る家具・・・って決めるのね。でもこの考え方は吊るしの既製品の洋服を買うスタイルで、オーダーメイドならそこに合う寸法に作れるはず。
ただね、そこに合うものを作れるのはプロの仕事であり、作る人が素人ではその通りにはならない場合が多いが、そこを大きさの譲歩さえあれば、場合に寄ってはそれ相応の作品になる・・・これを踏まえて労作展を考えれば、自分の作品、半強制的な宿題、人に見せる、時間も掛けるし、大きさには、
こだわらない・・・となれば結果が出る方向になるのは当たり前。しかし、主婦の方では、中々何十時間も取る事は難しいんだけれど、慌てずにロングランでやれば、何年間か掛かるだろうけれど、手に入れる事は不可能では無い。けれど、大事なのは心持ち。果たして耐えられるか?なのね。
しかも強制力は無いし、人にも見せない・・・これではカラオケみたいになっちゃうのね。お風呂で歌っても単に自己満足。所がそれも歌うって練習になるから慣れるって事には良いが、大きな声を出さない分、腹式呼吸にはならないし、それをやるにはカラオケに行くしかない。
そこなら日頃出さない大きな声で歌える。だからストレス発散なんて事に繋がったりするんだけれど、でもそれでは自己満足だから、ただ次々と新曲を歌ってもいつか飽きてしまうのは繰り返すだけだから・・・刺激が足りないのね。そこで仲間と和気藹々となるのだけれど、当然プレッシャーがね。
勿論上手ければ楽しいが、下手では楽しめない。だから練習になるんだけれどね・・・だから上手くなりたい・・・ってね。そこをクリアー出来た人は上手くなる方向に行くし、それが嫌だから辞めるに繋がってしまうと、常にそう言う事が苦手になる。これが無人島で黙々楽しめれば問題無しなのね。
ただ中々そんな人はいないし・・・しかも上手くなると当然ライバルのような人は出て来るし、それをウイルスにするも、ワクチンにするも自分次第。人の成長とはこんな事の繰り返しなのね。しかも、そのきっかけは身近な人に憧れたりすると、ああなりたい・・・こんなきっかけ1つで道が決まる。
ただそれをいきなりかぐやみたいに・・・なんて思ってもそれでは憧れのみでまず無理だろうね。身近じゃないとね・・・それによって、聞く事や見る事が出来て、あるいは質問なんて出来たりすると、この人も同じ悩み事でこんなのを作れる人になったんだなぁ・・・って思えば思う程、私も・・・
って心に火を付けやすい。けれど、凄い・・無理ぃぃでは刺激にもならないし、一番進歩しないのは、私は趣味だから・・・を何年も言い続ける事なのね。それでは周りに及ぼす環境を楽しむだけの環境を整えてしまって、安全安心のみになりがちなのね。
それが上手い人、凄い人、そんな人がいる場所はそれを見られる環境にあるのだから、周りもそれに巻き込まれる環境になる。しかもその中に、私もそうなりたい・・・なんて人が生まれると、更にその環境は上手くなりたいって集団になり、やらなくても良いって感じでは無くなるものなのね。
そう言う点では、kameyaさんの4人は趣味って言葉は使うものの、レベルが上がって行くのは当然で、それにはそのリーダー的な人が必要で、それが棟梁であって、キウイであるのだけれど、その人達だけではそんな環境にはならないものでね、それをサポートする役目みたいな人がタピオカであって、
おかみさんなのね・・・それ相応の実力があって、認め合う事が出来て、方やオリジナルであったり、そうで無かったり、大きさも違ったりして、2つの見本手本を見られる環境は、下に続く人にはどちらも見られる訳で・・・洗練されるのね。何しろ目が肥える。身近で常に見られるのだからね。
しかも見る気があるのなら、生でメイキング・・・こうするのかぁ・・・いつかこう出来ないかなぁ・・・ってね。でも同じ先生に習っているのね。そこで自宅でも・・・なんて復習をするようになると、見る見る間に上手くなるもので、2人も子育てしている頃には夜な夜なやったものなのね。
だから基礎が出来た人なのね。だから趣味の人には見えないし、逆にここまで出来る人の小物なんて言うのも、とても楽しめるだろうし、その小物ですら、習っている人達には真似の出来ない差を感じるだろうし、けれどそれを感じられれば、感じた分、意識が変えられれば行動も変わって来るもので。
常にそれを得て、それでどうする?って俺とのやり取りをすれば良いだけで、自分の1歩が、動かない1歩、ぶれない1歩目がずっと言い続けられるのなら、それで良いが、仮に趣味です・・・と名乗り、10年目も趣味ですなら、とても表現が曖昧で、一見ぶれていなそうだけれど、昨日のアヒルの子の話
と一緒で、アヒルです・・・と言い続けて、ハクチョウではね・・・単なる裏切者じゃん。ってな話。それならいっその事、いち早く気が付いて、ハクチョウみたいになりたい・・・って言えば、それならアヒルの生き方じゃないよね・・・って指導も出来るが、趣味ですのままなら、無理はさせない。
そんな指導になる。当然チャレンジなんてもっての他。安全安心、絶対失敗が無い確率の高い方をチョイスさせるね・・・しかしながら、もし上手くなりたい・・・もっとって言うのなら、常に出来そうで出来ないかも・・・危ない綱渡りみたいな事を言う回数は増えるだろうし・・・。
だからこそ遊びも入れてね・・・ってルールにしているのだけれど。中々、その遊び方が伝わらないのはもどかしい点もあるけれど・・・。おっと元に戻れなくなっちゃったのね・・・いずれにせよ、この2人が揃うと、何かその頃の事を思い出すのね・・・あの頃は良く2人揃って合ってたのね。
娘さん達もいたりしてね・・・随分と長い付き合いになったのね・・・あの頃と違って教える事も少なくなったかな?まだまだ教える事があるかな?いずれにしても、また・・・って次があれば、それに応じられる先生でありたい・・・ただそれだけ。

そんな後は、表札の続き。
