書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

安本美典 『大和朝廷の起源 邪馬台国の東遷と神武東征伝承』

2017年02月15日 | 日本史
 著者は、文献史学の二つの方法論として、「十九世紀的文献批判学の方法」と「仮説検証的方法」に分けて提示する。著者の言葉を私の責任において要約すると、前者は、伝統的なそれであり、史的資料として信用できるかどうかを検証することを主眼とするものであり、信用できないと判断される場合は、それらがまとまって存在している意図を考えるものである、一方の後者は、史的真実についてなにがしかの仮説を設け、その仮説に関係する複数の資料に当たり、仮説の内容と資料の言うところが矛盾するか否かを検証し、矛盾しない場合はその仮説が実証されたと見なすものだ。第1章「新しい文献学」とくに同書101-103頁。
 私は、むろん前者を否定するものではないが、以前より後者の側に与する者である。

(勉誠出版 2005年7月)

劉知幾著 増井経夫訳  『史通』

2017年02月15日 | 地域研究
 わかりやすい。わかりやすぎることに懸念を抱く。現代日本語として間然するところがない。唐人の劉知幾が私のような現代日本人とおなじ概念と語彙表現で思考著述していたはずはないのである。清の浦起龍『史通通釈』で読んだときはもっと判りづらかった。

(平凡社 1966年3月)

付記
 浦起龍の『史通通釈』だが、読み返してみて同書に対する意見が変わった。『史通』「雑説中」に「馬遷持論,稱堯世無許由;應劭著錄,云漢代無王喬,其言讜矣。」とあって、増井先生は上掲の訳書で以下のごとく訳しておられる。「司馬遷は堯の世に許由がいたという話を決して信じてよいことととは書いていないし、応劭も前述のように漢代に王喬がいたとは言っていないので、これが正しいことなのである」(275頁)。ここは劉知幾の思考の時代離れしている箇所で、日本語訳もこのとおりだと思う(もっとも原文どおりもっと直裁でもよかったとさえ思っている。どちらも「いなかった」と)。ところが同じ箇所に浦起龍が注して、「司馬遷は(許由が)存在しなかったと結論づけてしまっているわけではない(史公亦非遽以為無)」などと、原文にない躊躇のニュアンスを付け加えている。断言を怯むのは注者が怯んでいるだけの話であり、テキストとは何の関係もない。注や解釈は原典をダシに注釈者がおのれの夢を懐疑的に語るためにあるのではない。


山下正男 『新しい哲学 前科学時代の哲学から科学時代の哲学へ』 (その3)

2017年02月15日 | 哲学
 2015年06月08日より続き。

 一般に文章は大きく三種に分類される。(1)言語または記号間の関係を表現する文章,すなわち分析命題。たとえば「Aであり,そしてBであることは不可能である。」(2)経験的事実を報告する文章,すなわち綜合命題。「付きの表面には凹凸がある。」(3)(1),(2)のどちらでもない文章、すなわち情意文。たとえば「源氏物語」はすばらしい。」(3)の部類には倫理的文章(命令文)や美的文章(感嘆文)のほかに,いわゆる形而上学的文章が含まれる。例「人間は自由意思をもつ。」
 文章の以上のような三つの区分にもとづいて,学問全体を三種類に分けることができる。(1)分析命題の集まり,すなわち論理学,数学。(2)経験命題の集まり,すなわち物理学,化学,経済学,社会学等のいわゆる経験科学。(3)情意文の集まり,すなわち倫理,形而上学等。
 (「1 哲学の自訴的な理論」“文章の種類と哲学の三部門” 本書71-72頁)

 第三のタイプの文章である情意文は,分析的手続きと経験的手続きのどちらによってもテスト不可能である。したがってそれは文章ではあるが命題ではない。たとえば「ピカソの絵はすばらしい!」といった審美的文章,「倹約は美徳だから実行しなさい!」,「倹約は悪徳だからやめなさい!」といった倫理的な文章は,そのどちらが真でどちらが偽がを決めることはできない。こういった文章は各人の感情や意思の表明にほかならず,真偽の決められるようなものではない。〔中略〕それらはただ自己の感情の表明,信念の告白にすぎないのであり,したがって真偽を決することができないものである。〔中略〕真の科学的命題は分析命題か綜合命題かでなければならない。 (同上、73-74頁)

(培風館 1966年3月初版 1966年5月初版第2刷)