書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

萩原延寿 『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』 13 「西南戦争」

2007年09月23日 | 日本史
 西南戦争中、サトウは何度か勝海舟のもとを訪れた。勝が語った言葉をサトウは日記に記録し、また覚書にして上司パークスへ報告した。

“ずっと以前から、自分は大久保の支配下にある政府には仕えまいと心に決めている。大久保が台湾問題解決のために北京に向うのを見送って以来、大久保には会っていない。じつは薩摩の叛乱が起きる前のことだが、政府の使者として鹿児島に下り、騒動の勃発を防止するような話し合いをつけてくれという申し入れが、自分にたいして何度かあったのだが、大久保の伝言を届ける人足として利用されるのは御免だといって断り、それでこの計画はつぶれてしまった。” (日記、1877・明治10年7月13日条。本書153頁) (注)

 勝海舟は大久保利通をよほど嫌っていたらしい。勝は大久保の葬儀にさえ出なかった(著者が紹介する「海舟日記」の記述。本書186頁)。
 サトウも、外交官としてはともかく、個人的には大久保にあまり好意を持っていなかったらしい。サトウは、駐日外交団の一員として葬儀にこそ参列したが、大久保が紀尾井坂で暗殺された日の日記に、「非常に多くのひとびとは、大久保暗殺がもっと早く起らなかったことを、おどろいているほどである」と、書きしるしている(日記、1878・明治11年5月14日条、本書188頁)。

注。『氷川清話』に、西南戦争勃発後、西郷隆盛を説得して停戦(もしくは降伏)させる目的で鹿児島へ行ってくれと岩倉具視に依頼されたが断ったという趣旨の勝の談話がある。ここでは勝は、断ったのは引き受ける(そして成功させる)条件として大久保と木戸孝允の免職を要求したが岩倉に拒否されたためとしている。

(朝日新聞社 2001年7月)