日本はミーハー社会が深刻です。
(ひーはー)じゃありませんよ。それはブラマヨこすぎ。
しかし、ミーハーで通じますかね、古いもんね。
○
私が子供のころ、三遊亭百生という上方噺がいました。
濁み声でコテコテ、線が太くて笑いも多い噺でしたから
子供には分かり易かった。
関東で活躍する上方落語家でした。
たぶんその所為でラジオにはよく出たのでしょう。
私の耳にも残っています。
比較的、早死をされたようでした。
今では誰も知りませんね。
(ちなみに枝雀に影響を与えた噺家の一人です)
○
百生死後、東京で上方落語といえば桂小南。
ソフィスティケイトされた噺をされようとし
従って、ラジオで聞く子供(=私)には受けない。
その代表の一つが「手水まわし」
長い頭を回すというやつです。
先日、南光の独演会で前座がやりました。
今は面白くやるんだな、と小南の面白くなさを
再確認した次第です。
そして「たしか小南が発掘した噺だよな」と思いつつ
あれだけ有名だった小南の名前が今は消えたことに
気づきました。
NHKにもよく出、芸術祭の賞も数多いのに。
○
八代目文楽なども志ん生に比べるとまったく
影が薄くなってしまいましたね。
現在、弟子筋が活躍していると、昔の人の名前も
残ります。
従って、評価が正確にはなりません。
談志なんてのは得をしていますね。
決して上手い噺家ではなかったけれど。
つまり芸の伝承がイビツになるおそれがあるのです。
今やられている芸だけが伝統なのだと。
◎
欧米のことはよく知りませんが
作家やパフォーマーの世界とそれを受け取る一般人との間に
「評論の世界」がしっかりと確立しているようです。
日本では評論家というと、好きなことを無責任に
言い散らし、自分はプロだと宣言している
まことにアヤシゲなる連中ばかりです。
発信することで金を儲ける、例えば出版社のような
ものの御先棒を担ぐのが仕事のようです。
(従ってcritiqueの力がまるでありません。
ド素人より多少詳しいオタク、もしくは正業では
金が儲からない大学の先生などの小遣いかせぎ)
仏語のcritique 英語のcritisismというものが
日本ではまるで弱いのです。
和訳の「評論、批評」では伝わらない重要なものが
あるのですが、「ないもの」に言葉は付きません。
正当な批評が成立していると上記の百生でも小南でも
どこが良くて、何が弱かったか、芸の伝承はどうなって
いるか、などが明らかになるのですが。
◎
佐村河内問題でも同様です。
きちんと批評できていたら、あそこまでの
現象は起きていないでしょう。
TVのドキュメでは持ち上げているが、
信頼できる評論家は意見が違い・・・
これで一般人は自分の耳を磨くことができるのです。
○
とかく日本の伝統文化は「批評」を受け入れません。
身うちだけで誉め合います。
「家元」には逆らえません。
その風潮が昨今のスキャンダルを招いているのです。
○
ミーハーが蔓延し、マスメディアも煽ります。
「評論」が権威になって皆がそれに倣うのも問題ですが
評論のない空虚な社会はもっと問題が深刻です。
(ひーはー)じゃありませんよ。それはブラマヨこすぎ。
しかし、ミーハーで通じますかね、古いもんね。
○
私が子供のころ、三遊亭百生という上方噺がいました。
濁み声でコテコテ、線が太くて笑いも多い噺でしたから
子供には分かり易かった。
関東で活躍する上方落語家でした。
たぶんその所為でラジオにはよく出たのでしょう。
私の耳にも残っています。
比較的、早死をされたようでした。
今では誰も知りませんね。
(ちなみに枝雀に影響を与えた噺家の一人です)
○
百生死後、東京で上方落語といえば桂小南。
ソフィスティケイトされた噺をされようとし
従って、ラジオで聞く子供(=私)には受けない。
その代表の一つが「手水まわし」
長い頭を回すというやつです。
先日、南光の独演会で前座がやりました。
今は面白くやるんだな、と小南の面白くなさを
再確認した次第です。
そして「たしか小南が発掘した噺だよな」と思いつつ
あれだけ有名だった小南の名前が今は消えたことに
気づきました。
NHKにもよく出、芸術祭の賞も数多いのに。
○
八代目文楽なども志ん生に比べるとまったく
影が薄くなってしまいましたね。
現在、弟子筋が活躍していると、昔の人の名前も
残ります。
従って、評価が正確にはなりません。
談志なんてのは得をしていますね。
決して上手い噺家ではなかったけれど。
つまり芸の伝承がイビツになるおそれがあるのです。
今やられている芸だけが伝統なのだと。
◎
欧米のことはよく知りませんが
作家やパフォーマーの世界とそれを受け取る一般人との間に
「評論の世界」がしっかりと確立しているようです。
日本では評論家というと、好きなことを無責任に
言い散らし、自分はプロだと宣言している
まことにアヤシゲなる連中ばかりです。
発信することで金を儲ける、例えば出版社のような
ものの御先棒を担ぐのが仕事のようです。
(従ってcritiqueの力がまるでありません。
ド素人より多少詳しいオタク、もしくは正業では
金が儲からない大学の先生などの小遣いかせぎ)
仏語のcritique 英語のcritisismというものが
日本ではまるで弱いのです。
和訳の「評論、批評」では伝わらない重要なものが
あるのですが、「ないもの」に言葉は付きません。
正当な批評が成立していると上記の百生でも小南でも
どこが良くて、何が弱かったか、芸の伝承はどうなって
いるか、などが明らかになるのですが。
◎
佐村河内問題でも同様です。
きちんと批評できていたら、あそこまでの
現象は起きていないでしょう。
TVのドキュメでは持ち上げているが、
信頼できる評論家は意見が違い・・・
これで一般人は自分の耳を磨くことができるのです。
○
とかく日本の伝統文化は「批評」を受け入れません。
身うちだけで誉め合います。
「家元」には逆らえません。
その風潮が昨今のスキャンダルを招いているのです。
○
ミーハーが蔓延し、マスメディアも煽ります。
「評論」が権威になって皆がそれに倣うのも問題ですが
評論のない空虚な社会はもっと問題が深刻です。