critique欠落

2014-02-20 19:40:33 | 塾あれこれ
日本はミーハー社会が深刻です。
(ひーはー)じゃありませんよ。それはブラマヨこすぎ。

しかし、ミーハーで通じますかね、古いもんね。


私が子供のころ、三遊亭百生という上方噺がいました。

濁み声でコテコテ、線が太くて笑いも多い噺でしたから
子供には分かり易かった。

関東で活躍する上方落語家でした。

たぶんその所為でラジオにはよく出たのでしょう。
私の耳にも残っています。

比較的、早死をされたようでした。
今では誰も知りませんね。

(ちなみに枝雀に影響を与えた噺家の一人です)


百生死後、東京で上方落語といえば桂小南。

ソフィスティケイトされた噺をされようとし
従って、ラジオで聞く子供(=私)には受けない。

その代表の一つが「手水まわし」
長い頭を回すというやつです。

先日、南光の独演会で前座がやりました。

今は面白くやるんだな、と小南の面白くなさを
再確認した次第です。

そして「たしか小南が発掘した噺だよな」と思いつつ
あれだけ有名だった小南の名前が今は消えたことに
気づきました。
NHKにもよく出、芸術祭の賞も数多いのに。


八代目文楽なども志ん生に比べるとまったく
影が薄くなってしまいましたね。

現在、弟子筋が活躍していると、昔の人の名前も
残ります。
従って、評価が正確にはなりません。

談志なんてのは得をしていますね。
決して上手い噺家ではなかったけれど。

つまり芸の伝承がイビツになるおそれがあるのです。
今やられている芸だけが伝統なのだと。


欧米のことはよく知りませんが
作家やパフォーマーの世界とそれを受け取る一般人との間に
「評論の世界」がしっかりと確立しているようです。

日本では評論家というと、好きなことを無責任に
言い散らし、自分はプロだと宣言している
まことにアヤシゲなる連中ばかりです。

発信することで金を儲ける、例えば出版社のような
ものの御先棒を担ぐのが仕事のようです。
(従ってcritiqueの力がまるでありません。
 ド素人より多少詳しいオタク、もしくは正業では
 金が儲からない大学の先生などの小遣いかせぎ)

仏語のcritique 英語のcritisismというものが
日本ではまるで弱いのです。
和訳の「評論、批評」では伝わらない重要なものが
あるのですが、「ないもの」に言葉は付きません。

正当な批評が成立していると上記の百生でも小南でも
どこが良くて、何が弱かったか、芸の伝承はどうなって
いるか、などが明らかになるのですが。


佐村河内問題でも同様です。

きちんと批評できていたら、あそこまでの
現象は起きていないでしょう。

TVのドキュメでは持ち上げているが、
信頼できる評論家は意見が違い・・・
これで一般人は自分の耳を磨くことができるのです。


とかく日本の伝統文化は「批評」を受け入れません。
身うちだけで誉め合います。
「家元」には逆らえません。

その風潮が昨今のスキャンダルを招いているのです。


ミーハーが蔓延し、マスメディアも煽ります。

「評論」が権威になって皆がそれに倣うのも問題ですが
評論のない空虚な社会はもっと問題が深刻です。