昔のメダル

2012-09-25 | ノンジャンル
ストリートオ―ディションライヴの写真、D800で撮ったのは大失敗。 データが大きすぎてパソコンが悲鳴を上げて居ます。

そもそも「D600の発売」が「D800の失敗」を物語っているようにも見えます。

「鉄」にしてもD800では余り余分なシャッターは切らない方が良さそうです。



忙しさもあって全然アップできませんので休憩の一話。


我家でメダルが出てきました。


新品です。 銅メダルと銀メダルです。


ストリートオーディションのメダルです。

どうやらこれは不採用になったメダルのようです。 金色のメダルだけを使ったのです。



『チャンピオン』
(その日のチャンピオン;次のグラチャン大会までチャンピオンとして「ゲスト扱い」で紹介され歌を歌える)



『グランドチャンピオン』
(チャンピオンだけが出場できる「グラチャン大会」の勝者;次のスーパーグラチャン大会までグラチャンとして「ゲスト扱い」で紹介され歌を歌える)

『チャンピオン』『グラチャン』両方とも同じ「金メダル」で共通にしていた事を思い出しました。

この「銅」と「銀」は見本として取寄せて「没」になったものなのです。

もらえるメダルそのものには大した価値はないけれど、誇りと存在を掛けて激突していたのです。

だから実際には「オーディション」ではなく、単に“真剣勝負”だったわけです。

拍手の大きさを騒音計で測る・・・・それだけで勝負していたわけです。


(オーディションとしての意味ならば「只のチャンピオン」にもなれなかったけれど、相田翔子はST-ON出場でスカウトされたのですから結果的にはオーディション要素も有った?)



さて、毎日雨が降っています。

9/16はST-ONの記念日ですが、28年前1984年は雨が降りませんでした。 

ところがその後10年、・・・さらに後々まで毎年雨が降ります。

同じ時期渋谷道玄坂のお祭り「金王八幡宮例大祭」も雨が降らない年は10年に1度位しかありません。
この時期、東京は猛烈な「雨季」なのです。

「雨季」ですから明日も明後日も明々後日もおそらく雨です。

梅雨は「雨降り3分、晴れ+曇り7分」がいいとこですが

9月後半の「雨季」は「雨降り6分、晴れ+曇り4分」です。

加えて雨の量では梅雨1か月の「倍」ほど半月で降ります。 私もそんな事とは知らずに9/16にST-ONを始めてしまい、毎年泣きました。
記念イベントを一週間延期しても9/23もまだ雨季。
雨季明けが「体育の日」なのです。

(騒音計勝負なのでホコテンが必須)

梅雨は西日本のモノ

雨季は東日本のモノ

なのだそうです。 だから昔の言葉にそれ(9月後半の雨)らしきものはありません。

「秋雨前線」などという「菜種梅雨」程かという言葉では感覚がずれ過ぎて居るのです。

雨季襲来! 年に一度の「雨季」であり梅雨は「少し雨が多い時期という程度」でしかないのです。

(毎年言っているかと思いますが降水量統計で歴然なのです)

雨季が明けると塗装のシーズン!模型の季節です。







ラグビー「合同G」散る

2012-09-22 | ラグビー
ストリートオーディションライブは写真の処理が出来ず今日も延期です・・・


今日はラグビー観戦に行ってきました。

我家の三男紘之進が所属する学習院高等科ラグビー部は人数が足りず合同チームになっています。

その名も『合同G』

都立小石川中等教育学校     (2名)
千代田区立九段中等教育学校  (6名)
海城高等学校             (3名)
学習院高等科             (9名)
東海大学付属高輪台高等学校  (9名)

総員31名です。(内訳;男子28名、女子3名)

「中等教育学校」;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1


出場する大会は
全国高等学校ラグビーフットボール大会・東京都予選です。 合同Gは二回戦=今日が初戦です。

東京高校を倒して、まんいち東京第二代表にでもなれば近鉄花園ラグビー場で東福岡高校に挑戦できるかもしれない大会です。

一回負けた時点で今シーズンは終了、3年生は引退です。


試合場は都立石神井高校グラウンド、第一試合です。

下車駅は「武蔵関」

相手は専修大学付属高校(総員41名うち女子5名)

専大付属は一回戦50-5で「合同C」を破っています。 強いです。


立ち上がり、押し気味の展開です。

(東海大高輪台の)東海大のような青いジャージに学習院の段縞のストッキングが合同Gです。


主将は2番フッカー学習院の徳橋です。


しかし先制され、連続失点します。


時折雨が降る天気でグラウンドはぬかるんでおり、パスも繋がり難いです。


力攻めで


1トライ返します。


しかし、徐々に味方に疲れがでて、力の差が感じられるようになります。


オフサイドに注意! ディフェンスの飛び出すタイミングを指示する主将。


後半の後半になってくるとスクラムも押され、マイボールがキープできません。


ペナルティーキック。


終了間際、敵陣深く攻め込みますが、


ボールが転がり過ぎてラインを割ってドロップアウトへ。


ノーサイド


審判に礼。


ベンチに挨拶。


試合終了後の全員ミーティング。


最前列に引退する3年生を並べて全員で記念写真です。


昼食に寄った吉祥寺の『牛たん炭焼“利久”』


二周年特別定食



こんな感じです。

思った以上のボリューム・・・・


牛たんつくね525円/2本

追加をこの程度にしておいてよかったです。 (美味しかった)






C57144_[岩一]明日発売

2012-09-20 | 鉄道模型
連日連夜死ぬほど忙しい日々が続き、何も出来ない状況です。

沖縄、北海道報告を差し置いてストリートオーディションライブの報告をしたいのですが、写真の現像が大変でなかなか進展していません。

Nikon D800を使ってRAWで撮ったのですが、現像前で70~80メガ、現像したjpegで20メガ(普通はせいぜい3メガ)も有り難渋しています。


それを差し置いて、明日発売のIMON製品があるので、此処では割り込み紹介致します。




少し用語の説明が有りますので以前の説明とダブるかもしれませんが最初から蒸汽機関車C57について述べます。

(ウィキペディアの解説が「まだまだ」なので・・・)

蒸汽機関車は軸配置によって性質→使用目的がはっきりしてきます。

“パシフィック”は2-C-1という軸配置を表わします。 (米国式表記;4-6-2)

(“パシフィック”といった命名をするのは米国式で米国のメーカーが太平洋の向こうNZから受注した形態なので“パシフィック”と呼ばれるようになりました)

先輪;2軸 動輪;3軸 従輪;1軸です。

“パシフィック”は急行旅客用機関車です。

旅客用機関車ではありません、急行旅客用機関車です。

遊輪は1つといえども無駄に付けたくないからです。

先輪2軸は「先台車構造(ボギー)である」事を表わします。

先輪一軸ではダメ、先台車構造、ボギー構造でなくてはダメなのは高速機関車だからなのです。

だから“パシ”は100%急客機として設計されています。

急客機はアメリカン(2-B)に始まり、
テンホイラー(2-C)とアトランティック(2-B-1)に分かれてからパシフィックに至って完成形らしくなり、更に行くとハドソン(2-C-2)になり、更に行くとノーザン(2-D-2)に至ります。

マウンテン(2-D-1)という半端モノもありますが、それは特異な事情(石炭が高カロリーで二軸従台車が必要無い)によるもので少数派でしか無く、名前からして急客機と無関係です。(結果論ではバークシャー「1-D-2」こそがマウンテンという名称に相応しいという別の問題もありますが)

(これらは「私の意見」ではなく「知っている」か「知らない」かだけのレベルかと思います)

パシフィックは急客機です。

そのパシフィックに「ライト」という言葉が付いたのです。

その言葉は「ライトパシフィック70」という写真集が発売されてから一気に広がりました。



大御所達は怒りました。

何故かというと、その後、共通運用されるほぼ同じ能力のC51、C54、C55、C57がライトパシフィックとして纏められてしまったからです。

(C51まで「いっしょくた」にした事、そうなりそうな名前を付けた事が怒りの対象)

(ライパシ70にはC55とC57しか載っていませんのですが・・・)



C51という機関車は、登場当時画期的な大型機関車でした。

急行旅客用機関車としてだけでなく、多分それまで日本に有った全ての機関車より大きく、狭軌鉄道最大の動輪を採用して東海道本線の花形列車牽引のために作られたのです。

 


C51はライトパシフィックですか?  → どうみてもライトパシフィックではありません。


しかし

1920年頃から、世界中の鉄道客車は「木造」から「鋼鉄製」になりました。

客車が重くなったのです。

C51では能力不足となりました。
そこで
C52を輸入、
それを参考にしてC51よりひとまわり大きなパシフィックC53を97両も作りました。

最大、最先端の急客機はC53になりました。

だからといって16tの軸重に耐えられるように日本中の国鉄路線を強化する事は出来ません。

重幹線以外は少し編成が短いですからC51で充分です。


そして C54 が登場します。

C54はC53を置換える機関車ではなく、C53が入れない乙線丙線に入線出来る急客機です。

C51と共通で使える性能とC51が入れない「更に低規格の路線」にも入れる軽軸重の「両立」を狙ったのです。

これは「ライトパシフィック現る」として良いと思います。

だから

C51はライトパシフィックではないです。

C54はライトパシフィックです。

(両者は共通運用されていましたがそれは結果です・・・設計した時の思想は違うものだったのです)



ライトパシフィックが存在するのは日本とドイツぐらいではないでしょうか。



S3/6 ⇒  C51

01   ⇒  C53

03   ⇒  C54

です。
ドイツでは03の開発が遅れ、不足するライパシを補充する目的でS3/6の追加生産までしました。


日本に於ける「ライトパシフィック」の歴史は

昭和6年 C54(1~17)が登場
   (C51より最大軸重で1.34t軽量化)

昭和10年2月 C55一次型(1~19)
   (日本蒸機の近代的標準スタイルに移行)

昭和10年12月 C55二次型(20~40=流線型)
   (18mターンテーブルに対応、全軸距を240mm縮小)

昭和12年2月 C55三次型(41~62)
   (下回りは二次型と共通、運転室床が105mm高い)

昭和12年3月 C57一次型(1~138)
   製造途中のC5563・64が新形式「C57」として落成しました。

結果的にC57が日本のライトパシフィックの最終形式になりました。

   C55/C57の相違点;
● ボイラー使用圧力の上昇(14→16kg/cm)
● シリンダー直径の縮小(510→500mm)
● D51で採用された箱型輪芯(ボックスポーク)の採用
● 煙室前端部の曲面化
● 蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化 
● エプロンの傾斜角変更 (45°→55°)
● エプロンに付けられたステップ配置を外股→内股に変更

C55とC57は製造途中での設計変更なので落成日の近さに驚きます。

C5560落成(1937-3-12川崎重工兵庫工場 製番1768)
C5562落成(1937-3-17汽車製造大阪工場 製番1462)
C57 1落成(1937-3-22川崎重工兵庫工場 製番1769)

C55形とC57形は後年になると共通運用となる場合もありますが、蒸気圧16kg/cmは威力絶大で、シリンダー牽引力で
   C55  11680kg
   C57  12820kg
と大きく違い、例えば名古屋機関区関西本線の定数は
   C51・C55 300t
   C57     360t
と言う差がありました。

常に20両程度製造され、改良され続けたライトパシフィックはC57一次型(1~138)となって完成形を見ました。


C57144 C57の二次型です。 (従台車はLT154B)

昭和15年、日中戦争が続く中、C57139以降僅かな変更が有りました。 C57二次型(139~169)です。

① 従台車が鋳造(LT154B)→組立式(LT154D)に変更されました。(後の振替あり、一次型でも55~72、87~108は組立式)(153~はLT157)

② テンダー台車が鋳造→板台枠に変更になりました。(テンダー形式も12-17C → 12-17Dと変わりました)

③ 動輪の形状が変わりました。 第二動輪メインロッド取付部脇の二つの穴が「小さな丸穴」→「卵形の丸穴」に変わりました。 例外(C57139)も有りますが四次型にも例外(C57192)があり、卵形の一次型も有りますので振換と見て間違いなさそうです。

C57144はこのC57の二次型なのです。

テンダー台車の板台枠が二次型の一番判りやすい判別点(これも後の振替が有りますが・・・)

車歴;1940-10-19 製造  三菱重工業神戸造船所=314
配属[達814];東京局 配置;高崎
1952-03-26 金沢
1952-00-00 富山
1962-06-00 室蘭
1968-00-00 岩見沢一
1976-03-01 廃車;岩見沢一
     保存;北海道岩見沢市「九条東みなみ公園」

デフとボイラーの間の[架線注意]看板が実現しました。

室蘭本線、室蘭~岩見沢間のC57牽引旅客列車は猛烈な走りで知られていました。 各駅停車ですから
表定速度はたいしたことはないですが追分~苫小牧35.6km(途中4駅停車の停車時間含む)を38分で走り、この区間での表定速度は56.2km/Hとなります。

これは同時期の横浜~平塚35.0km(途中4駅停車も同じ)を35分間唸りっぱなしで走る東海道本線111/113系(表定速度60km/H)と比較すれば如何様な走りであったか想像できるというものです。

昭和40年代半ば以降しか知らない世代にとって客車が悲鳴を上げそうな“暴力的な蒸機の走り”を経験できた事は素晴しい幸運だったと思います。


室蘭本線の蒸機客レを担当する岩見沢第一機関区のC57の中で『走る機会が多かった=写真に多く残っている=好調機』代表がC57144です。

密閉改造ではなくカーテンで防寒対策をしていた事や、やや少数派の二次型C57であった事、デフが切詰められて北海道らしさ満開になっていた風貌も印象的な一台でした。

写真(試作車)はカーテンが付いていません。

製品はレジン製のカーテンが付きます。

C57はC55に比べて模型に於いても長大編成、重量列車の牽引の任に当たることが多いと思います。
細いボイラー径という不利を克服するために比重19.25のタングステンをボイラーウェイトに採用して居ります。
硬く、安定して居り、融点も3422°Cと金属の中で最高ですので加工が困難でしたが成形した状態で18.1という比重のウェイトが出来ました。

シリンダーブロック中のウェイトとIMONコアレス1616強力モーターで222レを牽引して爆走する事を期待致して居ります。










ストリートオーディション・ライヴ

2012-09-19 | ノンジャンル
ストリートオーディションは1984年9月16日に始まりました。

2012年9月16日、28周年になる記念日は日曜日でした。




司会者 ; 『日曜のお昼は~』

 一同 ; 『ストリートオーディショ~~ン!!』


という訳で日曜のお昼、同窓会ライブを行うことになりました。


渋谷「DESEO」 リハーサルが始まります。

リハーサル開始の9:00に全員が遅れることなく揃うというかつての“部活”では有得なかった姿を目にします。

あの頃平均14.5歳だった本日のキャストも26年の歳月を経て大人になりました。

プロだから当然かァ?!


1985年5月5日、学生集団ST-ON事務局結成当時18歳だったスタッフが全員揃って裏方を務めます。


ソロの出演者はマイクレベル、オケのレベル、モニターのレベル等チェックします。 佳保里


グループはダンスを合わせる最後の練習機会としてリハーサルを使います。 ナナ&マイ


11歳の御嬢さんに全員の優しい視線が集まります。


客席での音量を確認する高橋剛君、プロとして別々に活動している面々が見せあうことになります。

26年前の姿は互いに知っていますが。


リハーサルが終わり椅子が並べられます。 70人少々のお客様が予想されますので80脚出します。

3-4-3列に並べ替えられます(飛行機の座席配置みたいですね)


お客様が並び始めました。


“秋元康”か!“貞方祥”か!

SHOWとの付き合いも27年9か月、

26年半前の復活もSHOW、

今回の実現もSHOWが中心です。

活躍の拠点上海からこのイベントのためだけに5日ほど前に帰国したのですが、もう戻らない方が無難?







蕨への挑戦

2012-09-17 | 今鉄
ST-ONライブ報告は明日に譲って今日は初めての蕨遠征の報告をいたします。

しかし、その日は京浜東北線ダイヤ乱れで乗っている北行電車はみるみる遅れました。
「大宮行」が中途で「南浦和行」に変更され、赤羽で非常ボタンが押されて蕨はもうだめか!?と、諦めかけたほどです。

しかし、赤羽→川口→西川口→蕨は回復運転に努めた効果でぎりぎりセーフでした。


京浜東北北行が発車した途端に上り211系が来ました。


その後追いを撮って、背景を選ぶという足場選定をしようとしたその時、


【北斗星】がやってきました。 まだ211系が見えて・・・いや一部被っています。


心の修行?を心がけ、あらゆる状況下で最適な動きが出来るようにしなくてはいけないと思います。


東十条から蕨までは京浜東北で12分程掛ります。 この間を【北斗星】は6分ほどで走ってしまいます。


速度は東十条より倍も速い感じがします。(4割増し程度でしょう)

6分遅く来る【北斗星】を撮ってから南行電車を待ち、12分掛けて東十条に行くのですから“たぬき”到着は20分は遅くなります。


東十条北口の跨線橋は写真が撮れない状況です。 

更に現在は完成してガラス張りになってしまったようです。


たぬきのトイレの中にたぬきが居ます。


いつものアジの刺身。


カツオのたたきは最高です!


【あけぼの】は跨線橋が使えないのでホーム上「ちょいパ」なのでしゃがんで撮る訓練です。


いつものメンチかつ。


オムライスはロンドンオリンピック(パラリンピックではないです)にちなんで英国旗柄です。

 記撮します。

ズーム流しの終わり無き修行はカメラレンズともに更新されて続きます。