D51の後姿を整える

2011-02-26 | 鉄道模型
意地で始めたカプラー交換! JAMイベントまでに大型機は交換してしまいます。


D514[追] IMONメーカー完成品SF


D5115[岩一]


D5153[岩一]

実はD5160号機は行方不明だという事が判明しました。


D5196[滝]


D51104[岩一] ハシゴが面白い


D51219[岩一]


D51219[岩一]


D51234[岩一]MAフィニッシュ (IMONカプラーはHO-401使用)


宮村さんはケーディー#711の取付位置をわざわざ僅かに内側寄りに移動していました。

その位置は偶然にもIMONカプラーHO-401(蒸機エンドビーム用)にぴったりの位置でした。

間もなく発売されるC57の取付位置が先取りされている恰好です。

それの寸法ではケーディー#711は付きますが飾りカプラーポケット付のHO-101は付きません。


MAフィニッシュの場合、石炭は取り外し可能です。

テンダー水ハッチ回りの処理方法が凄く勉強になります。


D51260[岩一] これもハシゴが面白いですね。

この機関車はJAMに持って行くリストに載っていなかったという謎の機関車です。

2008-07-13に「完成写真」を撮っていますがリストに載せ忘れたのかと思います。


D51286[追]


C6244[築] HO-101を付けるとちょっと奥まった感じに見えますね。


ダミーに近いフロントビームの自連です。


解放梃子の先が「こんな感じ」です。

偶然ながらカプラー先端位置が判りやすい様になっていますね。


奥;ロスト製ダミー自連 手前;IMONカプラーHO-301(蒸機フロントビーム用)です。

目的が一緒ですから一致するのも当然といえば「そうかもしれません」が、偶然殆ど一致しています。


真上から見ると幅が少しIMONカプラーが狭いです。


取り付けてみると全く違和感がありません。


横から見るとこんな具合です。


テンダー(HO-101)との連結です。

先日も書きましたが私の手元のHO-101は旧製品(ヘッド形状二次型)です。
HO-301,401はヘッド形状が全て三次型です。

見た目では殆ど判りませんが。


D51297[滝]MKフィニッシュ


D51328[岩一]

テンダーが舟底に振り換えられたギーセル機。 ハシゴもD514同様の改造を受けています。


D51333[追]


D51333[追] こぼれた石炭はラッカーで固めてあります。


D51357[追]


D51397[滝] 追分に転じて最後まで残った一台です。


D51414[岩一]MAフィニッシュ


MAフィニッシュはこぼれた石炭のやシミや水が残った表現が凄い!


D51467[岩一]


D51483[滝]


D51561[滝]


D51598[滝]MKフィニッシュ


D51603[追]苗穂工場最終出場機 滝川→追分で50-12-24はD51241の1つ前を走った。


D51611[滝]


D51611は正面の「架線注意」が横に寄って、テンダー後部はダブルで付いているカマです。


D51663[滝]


D51684[滝] 作用管は本州仕様のままでした。


D51710[追]


D51737[岩一]


D51764[追]


D51765[岩一]


D51767[追]


リストにチェックを入れながらどんどんやっていきました。


D51811[岩一]


D51866[名] 名寄→追分と転じました。


D51916[追] 上下幅230mmと大きく、長さが短いプレートを高い位置に付けていた916です。


D511042[追] リストに載っていなかった・・・・ 撮影は2010-01-12


D511051[滝]


宮村さんの真似をしてみました。 こぼれた石炭はゴム系接着剤で接着しています。


D511052[名]


D511072[滝]


D511085[岩一]


D511116[旭] 旭川→遠軽→岩見沢第一と来て昭和51年3月廃車

廃車日が昭和51年3月のカマは最後まで残った蒸機として「51年ガマ」と呼ばれます。


D511127[滝]


D511160[岩一]

これまで井門義博ブログに出てきたようなカマは最近のカマですからカプラー交換の必要がなかったりします。

午前4時まで掛かって

① カプラー交換
② 架線注意取付位置やサイズを調べて貼る
③ 注意喚呼のトラ塗り板の取付

をやりましたが、実際展示してしまえばどうでも良いと言う程度のものでしかありません。

それは予想通りでしたが、それを機会に

① 上記三つの作業が完遂したこと
② HO1067車両収納場所の整理整頓に取りかかったこと
③ 収納場所に戻しながら1両ずつ形式写真を撮り直す予定

という副産物が宜しかったかなと思います。






DD51 680・DD51 711の軌跡

2011-02-24 | 国鉄時代
1992年のある日、鉄研三田会の会合に出席していた友人から興奮した電話がありました。

「おい井門、凄い映像をやっている!見せてやるから待ってろ」

というものでした。

彼は持っていた8ミリビデオを結線して上映中の「中国蒸機」映像をビデオ録画してくれました。

凄い!夢のような爆煙!

映像の持ち主は7つ歳下、昭和61年卒の紀伊国啓さんでした。

こりゃ大変だ!直ぐ行かなきゃ!中国へ!

増田泉、奥井伴彦、井門義博の三人組は三田会内で最も中国に精通していた堀岡健司、紀伊国啓の二人と会って教示願ったわけです。

そこからがこの御両名とのお付合いの始まりです。



堀岡健司氏は「DD51」で有名な人物でもあります。
(全機撃墜達成者というトンデモナイ人であったかも知れません)

その堀岡氏から今月発売したDD51680、711について一文を頂きましたのでここで紹介致します。

堀岡さんありがとうございます!



 数ある機関車には、それぞれの辿った軌跡があります。 ここでは、昭和44~45年に製造されたDD51680,711の軌跡を同ロットの車両とともに辿ってみることにします。


                                    DD51 680[秋]

 680号機は昭和44年12月5日に三菱重工、711号機は昭和45年4月11日に日立製作所で落成し、奥羽・羽越本線を無煙化するため秋田機関区に配置されました。 何と言っても20系「日本海」など、日本海縦貫線の優等列車の活躍が白眉だった時代です。 同ロットで製造された一般形やB寒地使用のDD51は、中央西線,八高線,房総方面に投入されましたが、やはり特急牽引には及びもつかぬ地味な活躍であったと思います。

 しかし華やかな活躍は長くは続きません。 新製から3年目の昭和47年にはED75-700の増備により680を含む多くの車両は山形機関区に転属となり、さらに新製7年目の昭和51年には奥羽線での活躍の場を失い、9両の仲間は早くも離散することになります。

 その多くは完全無煙化の使者として北海道に渡ります。 680は旭川へ、681~685は追分に転属しましたが、これが運命の分かれ目となります。 追分に行った681,682,683は渡道直後に追分機関区の火災で罹災し、僅か7年で廃車となってしまいました。

 いっぽう、旭川で難を逃れた680ですが、すぐに北見に転属となり、以降7年間、常紋越えで活躍することになります。 北見のDD51は昭和51年から59年の配置期間中、変わることなく僅か3両だけの配置で、610、680、1061の3両が峠越えに活躍していました。 朝10時ぐらいに常紋を通る下り貨物を担当していましたので、目にした趣味人も多いと思います。

 北見は担当工場が苗穂工場ではなく釧路車管でしたので、幾つか、目に付く特徴がありあました。 680はナンバープレートのブロック化を免れていたような気がします。(間違っていたら失礼しました)  610はラジエーターファンの回転目印が北見機関区オリジナル改造の「北」の文字でした。(通常、苗穂改造機はクローバー型)

 その後、国鉄末期の昭和59年には北見からDD51の配置がなくなり、この3両は10年ぶりに旭川に戻ります。最晩年は、宗谷の324・321列車も担当し、赤い客車と青い荷物車の2両編成を牽いてサロベツ原野を行く姿を見たのが最後でした。


                                    DD51 711[秋]

 いっぽう711ですが、昭和51年には、当時トラブル続きのDD54の応援(と想定)して福知山に転属となります。 その翌年、福知山向けの新製DD51が投入されると、今度は岩見沢第2に転属し、先に罹災した不足機を補う任に就きます。 その後、昭和54年には岩見沢のDD51は1000番代に統一され、711は追分に転属して5両の仲間と夕張線を中心に石炭列車に活躍します。 しかし、3年後の昭和57年には追分区の無配置化で岩見沢第2に出戻りとなりますが、車扱い貨物の合理化により1年で余剰となり、今度は狩勝無煙化で投入された車齢の高い根室本線の500番台若番を淘汰するため釧路に転出します。

 国鉄末期のこの時期、711は急行「まりも」牽引の任に就くこともあり、生涯でも注目を浴びた時期かも知れません。 釧路車管が担当する機関車は、塗料の種類が良くないのか、塗り分けが擦り切れたような薄汚れた機関車がほとんどでしたので、苗穂工場を出場した711は一際綺麗に見えたものでした。
 
 そして国鉄終焉が間近に迫った昭和61年11月、JRに承継する車両と、国鉄で廃車する車両が選別され、昭和44年度に製造されたDD51は殆どが廃車とされることになり、680も711も国鉄とともに消えていきました。 
                                         ↑クリックすると拡大できます↑

 なお、このロットのA寒地仕様で唯一、710号機だけは五稜郭に新製配置され、一度も転属することなく17年の生涯を終えました。 五稜郭配置後の早い時期に補助灯(3ツ目)を増設した5両(710,716,741,742,745)のうちの1両で、函館山線で急行「ニセコ」の任に就く姿が印象的な機関車でした。  (文:堀岡 健司)






金井寿司

2011-02-24 | 喰いだおれ
大井町はとても面白い街です。

乗降客数では常に全国で20位台にある駅なのですが何故か大手の飲食店チェーンからは忘れられている街です。

大手の中でも例外は

①スターバックス・・・駅の回りに3店舗ありました・・・現在は2店舗かな

②マクドナルド・・・駅両側にありました・・・現在は東口の店はバーガーキングになっています

他に日高屋、富士そば、ゆで太郎は最近になって出来てきましたが牛丼屋も遠くにしか有りません。

他の繁華街と景色が違う街なのです。

最近になってすずらん通りが焼肉屋戦争だったり中華店が集中してたりしますが、基本的には昔からの店が物凄く元気だという事です。

大井町での「食」を語るのに忘れてはならない場所に大井町東口から徒歩30秒の「東小路」「平和小路」があります。

加藤製作所訪問の日、加藤社長と一緒に東小路の金井寿司に行ってきました。

http://r.tabelog.com/tokyo/A1315/A131501/13070977/

大井町に居て金井寿司を知らないとはなんたることだ!と言われてしまうような店ですが、今まで行ったことがなかった店なのです。


オゴノリをまぶして味付けされた生マグロを海苔で巻いて食べます。


穴子です。 美味しい!


三人前として出てきた 名物「焼き寿司」です。

軽く味付けされていますのでそのままでも佳し、少し醤油を付けても佳し。


遠近法寿司


これまた遠近法寿司

(こんな凄いお遊びはおいそれとやってもらえるモノではありません。当然ですが)

「おい井門、俺も連れて行け」と言われてしまいそうですが体が幾つあっても足りないので是非訪ねてみてください。

食べて確かめてみないと表現出来ません。

大井町の凄さに驚いた夜になりました。






加藤製作所訪問 2

2011-02-23 | 国鉄時代

大きな建物の中、一番奥に置かれていました。




クランクも失われていない所が立派です。


軌間2ft(正確には610mmかもしれません・・・メートル法で)
フリクションドライブという古の珍しい駆動方式と聞きましたが割合普通のカトーに見えます。


軌間3ft6in(狭軌在来線1067mm)用15t貨車移動機です。


これは実用品が此処に置いてあるだけのようです。


問題のカトーです。

この機関車を確保して加藤製作所での保存に持ち込んだのは名取編集長以下ネコパブリッシングの尽力もあったようで、その経緯などはトワイライトゾーンマニュアルに掲載されているようです。

一緒に訪問した名取編集長に色々教えていただきました。


カバーを外してエンジンを見てみます。


エンジンはBUDA

アメリカ製の汎用ガソリンエンジンです。

(ネット上にBUDAはアメリカ製汎用ガソリンエンジンという記述が現われます)


その銘板です。


これがフリクションドライブ

ここがこの機関車の特徴です。

一種の無段階変速機とも言えるかも知れません。

動輪に繋がる円盤をエンジンの回転を伝える円盤の何処に押し当てるかでギヤ比も進行方向も自由自在というわけです。

牽けるトロッコの数が限られる・・・・定数を超えるとそもそも空回りしてしまい動けない・・・・為に機関車に無理のある両数を一気に牽いて走る無茶が出来ないので機関車が壊れないという経営側の立場からは大変良いシステムなのだそうです。


キャブ前半部にモーターを置けないのでHO762では模型化が困難な機関車と思われます。


エンジン、機構部分を見せないならばボンネット内にモーターが入るかも・・・・

エンジン剥きだしこそが素敵なのですが・・・


サブロクの15t貨車移動機の運転台計器。


(軌間)42インチの表示があります。


加藤公康社長と記念撮影。 P;名取紀之

加藤社長とは小学校が同窓であることも判明しました。

こうして見るとカトー3.5t機のなんと小さな事!

それでも重さは凄いです。
私は約0.1tですから重さでは35倍もあるのです。


「加藤製作所」のほんの一部を垣間見ただけですが、「KATO」はこれからもますます安泰だと心強かったです。

生まれ故郷加藤製作所に安住の地を得て3.5tフリクションドライブ機はなんと幸せな機関車でしょう。

産業遺産としても重要なこの機関車は、いずれKATOの歴史を語る証人として公開される日が来るのを楽しみに致しております。

加藤社長ありがとうございました。







加藤製作所訪問

2011-02-22 | 国鉄時代
加藤製作所 KATO WORKS の本社を訪問してきました。

カトーと言えば乗工社を引き継いだIMONとしてはキットで時々発売させて頂いて居ました。




キャブなどの違いで軌間2ft6in(30インチ≒762mm)の5t機2種です。

HO762、すなわち「1/87 9㎜」です。


2009-11-28 足尾歴史観にて加藤3.5t機(軌間2ft=24in≒610mm)

それは、先日(先月)の銀行取引先の会で席が隣だったのが縁です。

KATOは鉄道模型メーカーのKATOも素晴らしいですが、東証一部上場企業のKATOもやはり「世界のKATO」なのです。

時折「KATO」とロゴを大きく表示した物凄い重機が、ターミネーターTXなら真っ先に乗っ取りたいと思いそうな重機が街を走っていますが、そのKATOは軽便のDLを作ってきたカトーの現在の姿なのです。

http://www.kato-works.co.jp/

その加藤製作所の本社にとびきり古いカトーが置いてあるという事で見せて頂きに行って来たのです。

大井町(即ち品川・・・駅の品川は「品川」ではなく「港」)でKATO(明治時代から)とIMON(大正時代から)はとびきり古い会社です。 (他にもかんべ土地と三菱鉛筆、日本光学などがあります)

お互いの会社の前、家の前を通り、地元の会合では一緒という・・・言って見れば先祖代々かな・・・というお付きあいです。

カトーの機関車の軸受け等に刻まれた「TSK」は東京・品川・加藤を表しています。

その加藤さんが機関車の事など忘れてしまったかと思っていたら、古い機関車を大切に3両も保存しているという事です。 (品川本社2両、茨木工場1両)

しかも「フリクションドライブ」という古い古い駆動方式を使った機関車と云う事です。

訪問と言っておきながら、訪問前に「つづく」

今日はパンダ到着祝いじゃないですが、パンダで悪魔の皆様と飲みすぎました。