絶対に完成品発売前に完成させるんだ!という意気込みで組立はじめた9600ですが、
着脱式スノープラウが付いて、
票差しやハシゴは付きましたが、完成は遠いです。
そんなところで「もたもた」していたら、完成品第一弾が発売になって仕舞いました。
9608 [鷹取機関庫](戦前)です。
戦前、西尾克三郎さんが撮った機関車としてはC55、C11、C57に続いての4機種目の登場です。
(C51、C53と一緒に遊びたい魂胆です)
9600形蒸汽機関車は1912年8月ドイツから帰朝した島安次郎鉄道院工作課長、同年12月帰朝した朝倉希一、そして鉄道院から1911年に川崎造船所に出向した太田吉松によって設計されました。
シュミット式過熱器付蒸汽機関車では日本のパイオニアである川崎造船所は当時飽和式蒸汽機関車9550形を「過熱式化」した9580形を製造していました。
それを基礎にして島安次郎提案による台枠上広火室を備えた機関車を作り上げたのが9600形でした。
当初の開発目的はCCマレー機関車を勾配区間からの駆逐する事でした。
勾配区間用補機として計画されたために2軸の小さい2000英ガロン形テンダーを付けています。
9600~9609の10両を梅小路庫(東海道本線大谷回り旧線25‰)に
9610~9617の8両を山北庫(東海道本線御殿場経由25‰)に配置しました。
期待通りの高出力は出せたものの粘着力でCCマレー機に及ばず国産プッシャーとしては次の9900形を待つこととなりました。
9600形最大の特徴は日本で唯一(そして世界でも珍しい)左側動輪が90度先行する蒸機であったことです。 直後に新製された4110形(動輪径は同一)はじめ、すべて右側先行でした。
左足から動くため「武士道機関車」と称しました。
面積で25%拡大された広火室を台枠上に置く重心の高い設計は「成功」しました。 国鉄用だけでも770両という(後のD51形に次ぐ2番目に多数の)両数が製造されました。
最初の18両の9600形(1913年)はこれまでの国産機6700形や9580形同様キャブの裾がS字形を描きます。
増備9600(1914年)は大きな「モデルチェンジ」を受け本線貨物機に活躍の場を広げます。
それは
① 台枠を1フィート短縮、併せてキャブも短くなり、裾が乙字になりました。 (狭く長い火室の9580と同長の台枠を使う幅広火室の9600は焚口戸とテンダーが離れすぎて焚き難かった様です)
② 石炭3.3t水12.88㎥3軸固定の大型テンダーに付け替えました。
当初2軸の小型テンダーを装備していた一次形9600ですが、9608は8700・8900形48両に装備させる為に鷹取工場で製造された(アーチバー式ボギー台車使用)4軸3256ガロン形テンダーに付け替えて本線貨物機となって活躍しました。
9608が戦前の鷹取機関庫時代に装備していた3256ガロン形テンダーは8700用に製造され、6700形に振換られていたものと言われます。
昭和8年9608と並んだ9600(=キューロクのトップナンバー)は普通の3軸テンダーを付けています。 それはそれで何処から来たテンダーなのでしょう?(テンダーだけ新製=あまり無さそう・・・例えば9657等と交換したとみる方が自然です)
9608は東海道本線貨物列車を牽いて阪神間で活躍する姿が西尾克三郎さんが何度も撮っています。
(その当時としても関西地区で大型テンダーを付けて活躍する一次形9600は珍しく貴重な姿だった様です)
(全国でボギーテンダーを付けて活躍する9600の姿が記録されています。 岡山の9612、名古屋の9617、鹿児島で9657=新製時は3軸テンダーのはず)
9600一次、二次製造分(9657まで)は製造時ブレーキの引棒が違う形(図面が国鉄蒸気機関車史 NEKO に掲載されています)でしたが、昭和8年時点では9658以降の引棒に改造されていました。 (写真は戦前ボギーテンダー)
二次形以降の9600の3軸テンダーは機関車と一体化するデザインのものではありません。
逆にテンダー振替えの一次形9600は炭水車設計デザインが近日という事もあってか、ぴったり似合うテンダーとなりました。
その優雅な姿は他の日本型蒸汽機関車に無い素晴らしいものであると思います。
戦前、東海道本線で貨物列車牽引にあたっていた時代の9608
戦後、テンダーを振替え、竜華入換に活躍していた時代の9608
むしろ煙突は「継ぎ足し」が短くなって居ます。
戦前 キャブ屋根内側はニス塗り色にしました。 このテンダーはこの機関車だけのために作りました。
(決して8700や8900を作ってやろうという魂胆ではないです)
戦後 キャブ窓も大きな一つの窓に改造されています。 入換機らしいテンダーステップ手摺です。
履歴
1914-01 川崎造船所兵庫工場 製造番号81
1914-01-30 使用開始(神戸局)
1931-01-31 現在;亀山庫
1933-07-31 現在;奈良庫加茂分庫
1934-02 姫路庫
1934-07 鷹取庫
1936-03-31 現在;鷹取庫(その後加茂支区へ)
1938-09 鳥取区
1940-10 吹田区(入換専用機)
1946-06-18 山陰本線回送中脱線事故(特休)
1947-09-01 現在;吹田(復活して入換専用機)
1958-09 吹田第一→竜華
1962-07-23 竜華→大宮(保存用整備のため)
1962-10-26 廃車(大宮区)
1963-01-08 青梅鉄道公園搬入
戦後、写真に記録された9608は、2次形以降の9600と同じ12.88㎥3軸テンダーに振替えられた姿です。
1946年の脱線事故はテンダー車輪です。 別の衝突事故によると思われるフロントデッキと助士側立ち上がり部分の張り替えと助士側前部台枠損傷修理跡が見られます。
三次元CAD設計による助士側前部台枠損傷修理跡の表現。
パーツとしての9608フロントデッキです。
菱形網目の方向、有る無しなど機関士側、助士側が違います。
実際の製品はこんな風に出来ています。
煙室扉下のステップも面白い形ですね。
S字キャブを持つこの一次形9600は台枠長さが長い為にキャブ全長も長いのですが、これまで一次形用の台枠や1フィート長いキャブは模型として作られた事はありませんでした。
拘った一次形9600製品が無かったところに一石を投じる製品を発売できた事を嬉しく思っています。
「16.5mmにとらわれる必要が無いファインスケールモデル」だから(←13mmではそうはいかないのです)でもありますが、とんでもないモデル開発を実現することが可能な現状と、恐るべき五反田工房スタッフ達の「実力」にただただ感謝です。
「次の9600」としては戦前、鷹取機関庫の僚友19630、全然姿が違うやはり両本線貨物機時代のキューロクです。
(その前にC5519が発売されそうですが)
着脱式スノープラウが付いて、
票差しやハシゴは付きましたが、完成は遠いです。
そんなところで「もたもた」していたら、完成品第一弾が発売になって仕舞いました。
9608 [鷹取機関庫](戦前)です。
戦前、西尾克三郎さんが撮った機関車としてはC55、C11、C57に続いての4機種目の登場です。
(C51、C53と一緒に遊びたい魂胆です)
9600形蒸汽機関車は1912年8月ドイツから帰朝した島安次郎鉄道院工作課長、同年12月帰朝した朝倉希一、そして鉄道院から1911年に川崎造船所に出向した太田吉松によって設計されました。
シュミット式過熱器付蒸汽機関車では日本のパイオニアである川崎造船所は当時飽和式蒸汽機関車9550形を「過熱式化」した9580形を製造していました。
それを基礎にして島安次郎提案による台枠上広火室を備えた機関車を作り上げたのが9600形でした。
当初の開発目的はCCマレー機関車を勾配区間からの駆逐する事でした。
勾配区間用補機として計画されたために2軸の小さい2000英ガロン形テンダーを付けています。
9600~9609の10両を梅小路庫(東海道本線大谷回り旧線25‰)に
9610~9617の8両を山北庫(東海道本線御殿場経由25‰)に配置しました。
期待通りの高出力は出せたものの粘着力でCCマレー機に及ばず国産プッシャーとしては次の9900形を待つこととなりました。
9600形最大の特徴は日本で唯一(そして世界でも珍しい)左側動輪が90度先行する蒸機であったことです。 直後に新製された4110形(動輪径は同一)はじめ、すべて右側先行でした。
左足から動くため「武士道機関車」と称しました。
面積で25%拡大された広火室を台枠上に置く重心の高い設計は「成功」しました。 国鉄用だけでも770両という(後のD51形に次ぐ2番目に多数の)両数が製造されました。
最初の18両の9600形(1913年)はこれまでの国産機6700形や9580形同様キャブの裾がS字形を描きます。
増備9600(1914年)は大きな「モデルチェンジ」を受け本線貨物機に活躍の場を広げます。
それは
① 台枠を1フィート短縮、併せてキャブも短くなり、裾が乙字になりました。 (狭く長い火室の9580と同長の台枠を使う幅広火室の9600は焚口戸とテンダーが離れすぎて焚き難かった様です)
② 石炭3.3t水12.88㎥3軸固定の大型テンダーに付け替えました。
当初2軸の小型テンダーを装備していた一次形9600ですが、9608は8700・8900形48両に装備させる為に鷹取工場で製造された(アーチバー式ボギー台車使用)4軸3256ガロン形テンダーに付け替えて本線貨物機となって活躍しました。
9608が戦前の鷹取機関庫時代に装備していた3256ガロン形テンダーは8700用に製造され、6700形に振換られていたものと言われます。
昭和8年9608と並んだ9600(=キューロクのトップナンバー)は普通の3軸テンダーを付けています。 それはそれで何処から来たテンダーなのでしょう?(テンダーだけ新製=あまり無さそう・・・例えば9657等と交換したとみる方が自然です)
9608は東海道本線貨物列車を牽いて阪神間で活躍する姿が西尾克三郎さんが何度も撮っています。
(その当時としても関西地区で大型テンダーを付けて活躍する一次形9600は珍しく貴重な姿だった様です)
(全国でボギーテンダーを付けて活躍する9600の姿が記録されています。 岡山の9612、名古屋の9617、鹿児島で9657=新製時は3軸テンダーのはず)
9600一次、二次製造分(9657まで)は製造時ブレーキの引棒が違う形(図面が国鉄蒸気機関車史 NEKO に掲載されています)でしたが、昭和8年時点では9658以降の引棒に改造されていました。 (写真は戦前ボギーテンダー)
二次形以降の9600の3軸テンダーは機関車と一体化するデザインのものではありません。
逆にテンダー振替えの一次形9600は炭水車設計デザインが近日という事もあってか、ぴったり似合うテンダーとなりました。
その優雅な姿は他の日本型蒸汽機関車に無い素晴らしいものであると思います。
戦前、東海道本線で貨物列車牽引にあたっていた時代の9608
戦後、テンダーを振替え、竜華入換に活躍していた時代の9608
むしろ煙突は「継ぎ足し」が短くなって居ます。
戦前 キャブ屋根内側はニス塗り色にしました。 このテンダーはこの機関車だけのために作りました。
(決して8700や8900を作ってやろうという魂胆ではないです)
戦後 キャブ窓も大きな一つの窓に改造されています。 入換機らしいテンダーステップ手摺です。
履歴
1914-01 川崎造船所兵庫工場 製造番号81
1914-01-30 使用開始(神戸局)
1931-01-31 現在;亀山庫
1933-07-31 現在;奈良庫加茂分庫
1934-02 姫路庫
1934-07 鷹取庫
1936-03-31 現在;鷹取庫(その後加茂支区へ)
1938-09 鳥取区
1940-10 吹田区(入換専用機)
1946-06-18 山陰本線回送中脱線事故(特休)
1947-09-01 現在;吹田(復活して入換専用機)
1958-09 吹田第一→竜華
1962-07-23 竜華→大宮(保存用整備のため)
1962-10-26 廃車(大宮区)
1963-01-08 青梅鉄道公園搬入
戦後、写真に記録された9608は、2次形以降の9600と同じ12.88㎥3軸テンダーに振替えられた姿です。
1946年の脱線事故はテンダー車輪です。 別の衝突事故によると思われるフロントデッキと助士側立ち上がり部分の張り替えと助士側前部台枠損傷修理跡が見られます。
三次元CAD設計による助士側前部台枠損傷修理跡の表現。
パーツとしての9608フロントデッキです。
菱形網目の方向、有る無しなど機関士側、助士側が違います。
実際の製品はこんな風に出来ています。
煙室扉下のステップも面白い形ですね。
S字キャブを持つこの一次形9600は台枠長さが長い為にキャブ全長も長いのですが、これまで一次形用の台枠や1フィート長いキャブは模型として作られた事はありませんでした。
拘った一次形9600製品が無かったところに一石を投じる製品を発売できた事を嬉しく思っています。
「16.5mmにとらわれる必要が無いファインスケールモデル」だから(←13mmではそうはいかないのです)でもありますが、とんでもないモデル開発を実現することが可能な現状と、恐るべき五反田工房スタッフ達の「実力」にただただ感謝です。
「次の9600」としては戦前、鷹取機関庫の僚友19630、全然姿が違うやはり両本線貨物機時代のキューロクです。
(その前にC5519が発売されそうですが)