9608

2018-01-30 | 鉄道模型
絶対に完成品発売前に完成させるんだ!という意気込みで組立はじめた9600ですが、


着脱式スノープラウが付いて、


票差しやハシゴは付きましたが、完成は遠いです。

そんなところで「もたもた」していたら、完成品第一弾が発売になって仕舞いました。

                      9608 [鷹取機関庫](戦前)です。

戦前、西尾克三郎さんが撮った機関車としてはC55、C11、C57に続いての4機種目の登場です。

(C51、C53と一緒に遊びたい魂胆です)

9600形蒸汽機関車は1912年8月ドイツから帰朝した島安次郎鉄道院工作課長、同年12月帰朝した朝倉希一、そして鉄道院から1911年に川崎造船所に出向した太田吉松によって設計されました。

シュミット式過熱器付蒸汽機関車では日本のパイオニアである川崎造船所は当時飽和式蒸汽機関車9550形を「過熱式化」した9580形を製造していました。

それを基礎にして島安次郎提案による台枠上広火室を備えた機関車を作り上げたのが9600形でした。

当初の開発目的はCCマレー機関車を勾配区間からの駆逐する事でした。

勾配区間用補機として計画されたために2軸の小さい2000英ガロン形テンダーを付けています。

9600~9609の10両を梅小路庫(東海道本線大谷回り旧線25‰)

9610~9617の8両を山北庫(東海道本線御殿場経由25‰)に配置しました。

期待通りの高出力は出せたものの粘着力でCCマレー機に及ばず国産プッシャーとしては次の9900形を待つこととなりました。

9600形最大の特徴は日本で唯一(そして世界でも珍しい)左側動輪が90度先行する蒸機であったことです。 直後に新製された4110形(動輪径は同一)はじめ、すべて右側先行でした。

左足から動くため「武士道機関車」と称しました。

面積で25%拡大された広火室を台枠上に置く重心の高い設計は「成功」しました。 国鉄用だけでも770両という(後のD51形に次ぐ2番目に多数の)両数が製造されました。

最初の18両の9600形(1913年)はこれまでの国産機6700形や9580形同様キャブの裾がS字形を描きます。

増備9600(1914年)は大きな「モデルチェンジ」を受け本線貨物機に活躍の場を広げます。

それは

① 台枠を1フィート短縮、併せてキャブも短くなり、裾が乙字になりました。 (狭く長い火室の9580と同長の台枠を使う幅広火室の9600は焚口戸とテンダーが離れすぎて焚き難かった様です) 

② 石炭3.3t水12.88㎥3軸固定の大型テンダーに付け替えました。

当初2軸の小型テンダーを装備していた一次形9600ですが、9608は8700・8900形48両に装備させる為に鷹取工場で製造された(アーチバー式ボギー台車使用)4軸3256ガロン形テンダーに付け替えて本線貨物機となって活躍しました。

9608が戦前の鷹取機関庫時代に装備していた3256ガロン形テンダーは8700用に製造され、6700形に振換られていたものと言われます。

昭和8年9608と並んだ9600(=キューロクのトップナンバー)は普通の3軸テンダーを付けています。 それはそれで何処から来たテンダーなのでしょう?(テンダーだけ新製=あまり無さそう・・・例えば9657等と交換したとみる方が自然です)

9608は東海道本線貨物列車を牽いて阪神間で活躍する姿が西尾克三郎さんが何度も撮っています。
(その当時としても関西地区で大型テンダーを付けて活躍する一次形9600は珍しく貴重な姿だった様です)
(全国でボギーテンダーを付けて活躍する9600の姿が記録されています。 岡山の9612、名古屋の9617、鹿児島で9657=新製時は3軸テンダーのはず)



9600一次、二次製造分(9657まで)は製造時ブレーキの引棒が違う形(図面が国鉄蒸気機関車史 NEKO に掲載されています)でしたが、昭和8年時点では9658以降の引棒に改造されていました。 (写真は戦前ボギーテンダー)

二次形以降の9600の3軸テンダーは機関車と一体化するデザインのものではありません。
逆にテンダー振替えの一次形9600は炭水車設計デザインが近日という事もあってか、ぴったり似合うテンダーとなりました。
その優雅な姿は他の日本型蒸汽機関車に無い素晴らしいものであると思います。


戦前、東海道本線で貨物列車牽引にあたっていた時代の9608


戦後、テンダーを振替え、竜華入換に活躍していた時代の9608

むしろ煙突は「継ぎ足し」が短くなって居ます。


戦前 キャブ屋根内側はニス塗り色にしました。 このテンダーはこの機関車だけのために作りました。
(決して8700や8900を作ってやろうという魂胆ではないです)


戦後 キャブ窓も大きな一つの窓に改造されています。 入換機らしいテンダーステップ手摺です。

履歴
1914-01 川崎造船所兵庫工場 製造番号81
1914-01-30 使用開始(神戸局)
1931-01-31 現在;亀山庫
1933-07-31 現在;奈良庫加茂分庫
1934-02 姫路庫
1934-07 鷹取庫
1936-03-31 現在;鷹取庫(その後加茂支区へ)
1938-09 鳥取区
1940-10 吹田区(入換専用機)
1946-06-18 山陰本線回送中脱線事故(特休)
1947-09-01 現在;吹田(復活して入換専用機)
1958-09 吹田第一→竜華
1962-07-23 竜華→大宮(保存用整備のため)
1962-10-26 廃車(大宮区)
1963-01-08 青梅鉄道公園搬入


戦後、写真に記録された9608は、2次形以降の9600と同じ12.88㎥3軸テンダーに振替えられた姿です。


1946年の脱線事故はテンダー車輪です。 別の衝突事故によると思われるフロントデッキと助士側立ち上がり部分の張り替えと助士側前部台枠損傷修理跡が見られます。


三次元CAD設計による助士側前部台枠損傷修理跡の表現。


パーツとしての9608フロントデッキです。

菱形網目の方向、有る無しなど機関士側、助士側が違います。


実際の製品はこんな風に出来ています。

煙室扉下のステップも面白い形ですね。


S字キャブを持つこの一次形9600は台枠長さが長い為にキャブ全長も長いのですが、これまで一次形用の台枠や1フィート長いキャブは模型として作られた事はありませんでした。

拘った一次形9600製品が無かったところに一石を投じる製品を発売できた事を嬉しく思っています。

「16.5mmにとらわれる必要が無いファインスケールモデル」だから(←13mmではそうはいかないのです)でもありますが、とんでもないモデル開発を実現することが可能な現状と、恐るべき五反田工房スタッフ達の「実力」にただただ感謝です。

「次の9600」としては戦前、鷹取機関庫の僚友19630、全然姿が違うやはり両本線貨物機時代のキューロクです。

(その前にC5519が発売されそうですが)







小田急1700屋根上と貫通扉2

2018-01-25 | 鉄道模型
さて、いよいよ佳境か!(今更?)という感じの小田急です。


前回のリベンジ貫通扉、先に黄色を吹いてしまって反省しました。

隠蔽力の関係から「黄→紺」と吹くのは「車体のリベンジ」として「よろしい」のですが、小田急1700の場合、マスキングし易さは「紺が先」なのは厳然たる事実です。

そこで、せっかく作り直す貫通扉のマスキングには工夫を凝らしてみます。

(本当はコレも馬鹿な話です。一次車と同じ位置に腰の凹みを持ってきてもヘッドマークで隠れてしまう部分なのですからこんな苦労をすること自体が馬鹿です)


要は紺から吹かないとマスキング困難!なわけで、そうする のですが、扉腰部の凹み部分上部の0.3mmを黄色にする必要があるのです。

ですから「紺」から吹くのですが、黄色を吹く部分を予めマスキングします。


そして「紺」から吹くと言っておきながら「黄色」を吹きます。

これは凹み部分のマスキングに「紺」が染み込んでくるのを塞ぐ目的の黄色です。 着色するというところまで吹きません。

これも実は森岡さんが言っていたのですが、
「屋根のマスキング、カッターで切ったら屋根色では無く紺を吹いてから屋根色を吹け!」

そのこころは、
「下の色を軽く吹いてから吹くべき色を重ねれば、マスキングが不完全である部分があったとしても、マスクしたい色の侵入するのを防げるよ」
と言うことだと私は考えたわけです。

厄介な形状の部分に貼った完全マスク困難なマスキングテープの隙間は黄色い塗料で埋まったかな?


そして黄色い部分をマスクして紺を吹きます。 →これは吹いてマスキングを外したところです。


そして凹み部分0.3mm、凹みからの立ち上がり0.2mm余り、左右の立ち上がり0.2mm×0.3mm部分をマスクしていたマスキングテープを剥がしたところです。

さあ、ここから紺をマスキングして黄色を吹きます。

写真では黄色と紺になったように見えていますが黄色は吹かれていない状態なのです。


この間にエアホース部分を作ります。

5mm幅KSモデルの帯板で取付座を作り、3.5mm間隔でセットします。


正面写真で車体幅の1/10程度の間隔で取り付けられていると見ました。


貫通扉内側はレッドブラウンに塗ります。


そしてマスキング開始。

凹み部分だけ先にマスクします。


そして黄色を吹いてマスクを剥がしていきます。


ジャンパ栓、工房ひろの1/80パーツを使います。

昭和20年代、デビューしてしばらくの間はこのジャンパ栓が付いていました。


取付座はKSモデルの2mm×2mm×2mmのチャンネル


これからハンダ付けです。


IMONの下操作解放テコ座、組み立てをなめてかかって一つ失敗しました(6個入)


出来ました!


さて!いよいよ勝負の貫通扉交換です。


新しい扉、切り抜きました。 出来不出来はやっぱりありますが、合致第一で行きたいです。


この電車、デハ1700に使った屋根板の残りの左右端を切り落として手術台にします。


カッターの刃を丸ごと交換して手術開始!


だいぶ切れてきました。


最後はデザインナイフを使います。


1両切り抜き終わりました。

南無阿弥陀仏!


もう1両も切り抜きました。

早いからデザインナイフを最初から使ったのですが、それは失敗です。

面倒でも時間を掛けてカッターで切り抜き、仕上げにデザインナイフを使うのが正解。


いろいろな扉を


いろいろ当ててみます。


2×4=8通り有りますが、それ以前に絞られてきます。


ヘッドマークで欠点が隠れるところは大目に見ます。


だいたい決まってきたら


扉も、車体側も端面に色差しをします。


新しい小田原寄り先頭車


新しい新宿寄り先頭車の顔です。 窓幅が15%狭くなって横縦比「1.0対2.0+α」位にしたのですが大して変わったような気がしません。

貫通扉が開くかもしれない感じになったかも。


こんな感じ。

なにせ手際が悪いから恥ずかしい出来にしか成りません。


屋根上配管のための治具を作りました。

パンタ→抵抗器上に繋がる配管です。

窓柱を通して床下へ繋がるので1350mm(15.5mm)間隔で屋根に刺さります。


屋根上の配管の支えは1400mm間隔と箕川さんに情報を貰っています。


ハンダ付けして


切り落として曲げてこんな感じになりました。


デハ1703に刺してみます。 これは行けそうです。


デハ1704の配管突入穴を治具を使って開け直します。


こちらも刺してみます。 なんとかなりそうです。

支えの位置に関しては推理が悪くてちょっと失敗した感じがありますが目をつぶります。

目をつぶってばかりですね。

つづく







小田急1700屋根上と貫通扉

2018-01-24 | 鉄道模型
宴会で追われる日は朝を利用して小田急1700頑張っています。

しかし、体調壊してからは朝が「寝る」になってしまってますますピンチです。


サハ1752の屋根、中央に給水口を設ける都合上中央のランボード足を引き抜きます。

アダチの1700に於いてはランボードの脚ピッチが海側、山側で違うようにして居ます。

私はランボード脚3つにベンチレーター1個のペースが狂わされるのはおかしいと思いますので吸水口左右の脚の位置を変えるつもりです。


パテで埋めます。 容易じゃ無いですが・・・


他にも傷の所パテ、そしてデハ1704のパンタグラフからの引込線刺さり位置、線対称では無く機器の位置に一致するらしいことが判って穴をパテ埋めして開け直しです。

実はデハ1703の刺さり位置、片方が1mmずれていましたが、これは勘弁していただくということで・・・


作り直し中の貫通扉と新製中の運転室仕切りです。


塗り分けテープの輪っかで割り箸様の木棒に固定して塗装。


貫通扉は曲げ癖を付けるためにRが小さすぎる缶(マッハ、リターダーシンナー)
に巻き付けておきます。


塗装した仕切と、癖を付け終わった貫通扉です。

仕切の塗装は昔から木製内装にさんざん使ってきた東急ハンズの缶スプレー「カーキ」です。


小田急イエロー、作った色どっちだか忘れてしまい、こっちかなと思った色吹いてみることにします。


全然違う! 大ショック、どちらも全然違います。

小田急旧色+黄色1号+黄かん色+カナリアで作った色を使ったのですが、まさかこんな事になるとは夢にも思わず、残った塗料は小田急旧色か黄色一号のどちらかの缶の中に入れてしまった様です。

今、2つの缶の中に残っている色はどちらもオリジナルでは無く、塗った色とも違う、私がそれらしき方向へ調整した途中経過の色です。


悩みは悩みとして、作業は粛々と続けます。 レッドブラウン登場。


室内側に筆塗りします。

「カーキ」との色の違い、レッドブラウンがいかにレッドじゃ無いブラウンか判ります。


黄かん色足しました。

一見、うまくいったように見えますが肉眼では濃すぎて、鮮やかすぎて全然似ていません。


カナリアを足しすぎました。


まだ甘い!


赤みが強く、まだ黒みが足りない。


下回りも平行しつつ進めています。


それなりに正確な位置に穴を開けて機能性は確保しつつあるかな・・・


ようやくだんだん近くなりました。

この後黄色1号缶の最終調整を掛けて「あとは塗るばかり」になったところでいったんストップです。


紙製貫通扉、シンナードボン!です。


これも森岡さんに教えて貰ったことのような気がします。


真鍮でやる「シンナードボン」紙でも可能なのだそうです。 いくぜ!


どんどん溶けていきます。 後はサーフェーサー!


大成功!

鉛筆のケガキもそのままで切り抜かれた「いさみや」方眼紙が完全に帰ってきました。


早速次の作業


サーフェーサー掛け → サンドペーパー → 組み立て


此処でバッドニュース!

(良い知らせなどいっつも無いですが・・・)

1月6日地震がありました。

http://www.sankei.com/affairs/news/180106/afr1801060002-n1.html

そのときに小田急1700系も被災しました。 作りかけの模型は箱に入っていないので危険です。

渋谷は震度4でした。 我家はマンション最上階なので世間の震度+1です。

私の作業部屋(製作作業中だったのが不幸中の幸い)でもモニターテレビが棚から転落!簡単な片付けにも2時間を要する三時いや惨事になりました。

模型の被災はデハ1704の運転席上の屋根が目立ちます。 サハ1752の塗装用治具も酷い状況です。

屋根の傷は目をつぶります。 →申し訳ありません m(_ _)m


突然真鍮の棒登場


2mm径の棒を2本切りだしました。


被せる輪っかはエコーの細密パイプ2.4mm/2mm カッターの刃で転がしながらいくつか切り出します。


0.5mm真鍮線で作った輪っかで寸法を出して


0.5mm飛び出した状態でパイプを被った真鍮線の図です。

このパイプの寸法を近いもの選ぶのに幾つかきりだしていたわけです。


2mmの長さに切った帯板0.2mm×0.5mmを嵌め込みます。


作り直し中の貫通扉、曲げ癖を付けて置いてあります。


IMONの粒ハンダSを半分に切ったもの・・・SSでは小さすぎると見ました。

http://www.imon.co.jp/webshop/index.php?main_page=product_info&products_id=140547&w=304&x=900&y=0&from=mk


万力に挟んで棒の途中にハンダごて当てて溶かしました。


吸水口が2つ、喫茶カウンターとトイレ用です。

つづく





体に悪いもの

2018-01-23 | 喰いだおれ
最近体に悪い食べ物が時折現れますのでちょっとだけご紹介・・・


青山三丁目“サンクレスト”B1“ピッツェリア・サバティーニ”です。

名前が“トラットリア・サバティーニ”だった時期もあります。

リストランテ“ローマ・サバティーニ”の隣にあります。


入り口です。

この日、体に良いもの(=でかいステーキ)を食べに行く予定が、正反対のものを食べに行く羽目になりました。

両者にはプラマイ1~1.5kgの格差があります。


ご存じの方も居るかもしれません・・・この店はイモンにとっては“ワンパ”と言われる店です。

何百回食べたか・・・?千回かもしれません。

私は40回お見合いしましたが、此処で必ず夕食を食べます。

① 好きだから

②「間違えない」

カラカミ社長に「良い考えだ!」と感心されたものです。 (訳が分りませんが説明はしません)


この日は3人でシーザーサラダ×2を分けました。

“ワンパ”にはここ10年ほど来ていません。 サバティーニさんが手を引いた時「そのサービスはしません」と言われて来るのをやめてしまいました。


トリッパ


カルツォーネ。

切ってきてくれました。


ボンゴレビアンコ


ペンネ・アラビアータ、リガトーニ・ボロネーズ、フェットチーネ・フンギポルチーニ(クリーム)

40年ほど前、“リストランテ・ローマ・サバティーニ”が“ピッツェリア”を始めるにあたって「パッパルデルレ・フンギポルチーニ」をお勧め料理に据えました。

約10年間有ったかもしれません。

その料理人がいなくなったせいなのでしょうか、その味を求めて何百回何千回と試してみますが、世界中(主にイタリア)でその味には巡り会えません。


この店が“ローマ・サバティーニ”である「証」である「サントノーレ」

「サントノーレ」はフランスのデザートで、普通はイタリア料理には有りません。 しかし、“ローマ・サバティーニ”には有ります。


これは、2015年8月に行った“ローマ・サバティーニ”のローマ本店です。


フンギポルチーニのフェットチーネです。

やっぱりあの味ではないです。


この店のボスと記念写真です。

青山に出店したときに揃ってやってきたサバティーニ兄弟は皆亡くなっています。 「こうやって食べるんだ」と教えてくれたのでした。

インテリア井門の社長だった時代(実は今もそうですが・・・)何十回もイタリアに行きました。
取引先のフォルリの古城でイタリア式のフルコースを体験したときの経験も重なります。

料理の前にパスタは10種類くらい楽しむのです。

“ワンパ”が“ワンパ”だった時代、友人と食べるとき必ず「6+1」「6+2」「7+1」のどれかを選んだものです。

前段がパスタ、後段がピザの種類です。


昨夜の自宅の夕食です。

「すきやき」です。

撮影したとき、お肉は第二班でしたので、一番良いところは撮れていません!残念。

松坂の“和田金”で食べるすき焼きのスタイルをまねています。

肉は左から順に2班2、2班1、2班3の順に見えています。


これは第二班の途中です。 第一班が向こうに見えています!

(お肉を焼いた後に鍋に敷き詰めて焼くタマネギの準備が整っているのが判ります)


砂糖を投入しているところです。

①すき焼ナベを熱くする。

②手で広げた牛肉をさっと乗せる、焼く!

③砂糖、醤油で味付けをする


④ご飯に載せて一緒に食べる!

と来るわけです。

お肉を焼いたすき焼ナベ、我が家に於いてはすぐタマネギを並べて焼きます。

出来れば「焼き目」が欲しい!

割り下投入は少し待ちます。

昨夜はひっくり返すと崩れるのでタマネギそのままに割り下や他の野菜を投入してみました。


牛鍋方向へ向かっている姿です。

この切り替えの技術が非常に難しいところです。 家庭料理としては。

「すきやき」と「牛鍋」の時間の開きをどう埋めるかです。

“和田金”の場合、お肉は一人2枚で、その後のナベにはお肉は一切無しです。


和牛は基本、これのためにあると思います。

しゃぶしゃぶ(←元来中国料理)やステーキにはとんでもない大間違いだと思います。

テレビでピント外れな和牛紹介に辟易します。

鉄板焼きステーキは後日レポートしても良いですが、美味しいものではないと思います。「料理という範疇」「食事という範疇」にも入らないものじゃないかと感じて居ります。


我が家としては、鍋にお肉は入ってきます>>>すごい量が入りましたね!

昨夜は4人の息子が揃いました。(だから雪が降った?)

このお肉、最初の「すきやき」と違うのは分りますでしょうか。

出来れば牛鍋時にはもう少し赤身が良いのです。 勿論2種が理想型でしょうか。


あ~あ!

勿論、おじやなんかしていません。 「すき焼→牛鍋→おじや」は最高ですが。





模たぬき2018-1

2018-01-18 | 喰いだおれ

実は風邪をひきました。

それを利用して体重を落としました。


そういった努力をあざ笑う様な一週間に突入しています。


まずは今年もたぬきです。 よろしくお願いいたします!


と言いながら、既に10日ほど前、湘南“居酒屋運転会”でお会いしてます。


こういうことをするお祭りです。


め次郎さんのC59 1も佐野線に入線を果たしました。 絶好調です。


さて、“たぬき”に何処かで見た写真が掲出されています。


オリジナル“たぬき”も掲出されています。


さて、模たぬきの名物は模型「肴」です。 これはユニオンスクエアでも未塗装で登場した轟さんの長電600(川造形電車)です。


これは湘南クラブの新13mmレイアウト用に大久保さんが作ったカーブクロスポイントです。


それをオリンパスTG-4の「深度合成」でこうなります。


さらにバラスト撒きしたものです。 おでこは誰でしょう? 目は赤城さんですね。
(答;おやびんです)


天野さんの名鉄電車たち。


森橋さんのクモハ455(KS)


下藤さんの京急デハ800(初代・・・初代1000系へ)


これは森岡シェフの鯵の刺身です。


サンバイザーを備えた大久保さんのクハ76。


ブレーキがちゃんと踏面の位置に来ています!


佐野さんが研究しているのは竹田さんの3150形です。


これです。


1/80 13mm 真鍮スクラッチ、少し前のTMSに「入選」作として載って居ます。


刺身盛り合わせ。


はまちの追加!これでもか!


今日はナポリタンにしてみました。


京浜東北南行を使ってみます。


田端でバイバイです。 今年も一杯遊びましょう!!