1992年のある日、鉄研三田会の会合に出席していた友人から興奮した電話がありました。
「おい井門、凄い映像をやっている!見せてやるから待ってろ」
というものでした。
彼は持っていた8ミリビデオを結線して上映中の「中国蒸機」映像をビデオ録画してくれました。
凄い!夢のような爆煙!
映像の持ち主は7つ歳下、昭和61年卒の紀伊国啓さんでした。
こりゃ大変だ!直ぐ行かなきゃ!中国へ!
増田泉、奥井伴彦、井門義博の三人組は三田会内で最も中国に精通していた堀岡健司、紀伊国啓の二人と会って教示願ったわけです。
そこからがこの御両名とのお付合いの始まりです。
堀岡健司氏は「DD51」で有名な人物でもあります。
(全機撃墜達成者というトンデモナイ人であったかも知れません)
その堀岡氏から今月発売したDD51680、711について一文を頂きましたのでここで紹介致します。
堀岡さんありがとうございます!
数ある機関車には、それぞれの辿った軌跡があります。 ここでは、昭和44~45年に製造されたDD51680,711の軌跡を同ロットの車両とともに辿ってみることにします。
DD51 680[秋]
680号機は昭和44年12月5日に三菱重工、711号機は昭和45年4月11日に日立製作所で落成し、奥羽・羽越本線を無煙化するため秋田機関区に配置されました。 何と言っても20系「日本海」など、日本海縦貫線の優等列車の活躍が白眉だった時代です。 同ロットで製造された一般形やB寒地使用のDD51は、中央西線,八高線,房総方面に投入されましたが、やはり特急牽引には及びもつかぬ地味な活躍であったと思います。
しかし華やかな活躍は長くは続きません。 新製から3年目の昭和47年にはED75-700の増備により680を含む多くの車両は山形機関区に転属となり、さらに新製7年目の昭和51年には奥羽線での活躍の場を失い、9両の仲間は早くも離散することになります。
その多くは完全無煙化の使者として北海道に渡ります。 680は旭川へ、681~685は追分に転属しましたが、これが運命の分かれ目となります。 追分に行った681,682,683は渡道直後に追分機関区の火災で罹災し、僅か7年で廃車となってしまいました。
いっぽう、旭川で難を逃れた680ですが、すぐに北見に転属となり、以降7年間、常紋越えで活躍することになります。 北見のDD51は昭和51年から59年の配置期間中、変わることなく僅か3両だけの配置で、610、680、1061の3両が峠越えに活躍していました。 朝10時ぐらいに常紋を通る下り貨物を担当していましたので、目にした趣味人も多いと思います。
北見は担当工場が苗穂工場ではなく釧路車管でしたので、幾つか、目に付く特徴がありあました。 680はナンバープレートのブロック化を免れていたような気がします。(間違っていたら失礼しました) 610はラジエーターファンの回転目印が北見機関区オリジナル改造の「北」の文字でした。(通常、苗穂改造機はクローバー型)
その後、国鉄末期の昭和59年には北見からDD51の配置がなくなり、この3両は10年ぶりに旭川に戻ります。最晩年は、宗谷の324・321列車も担当し、赤い客車と青い荷物車の2両編成を牽いてサロベツ原野を行く姿を見たのが最後でした。
DD51 711[秋]
いっぽう711ですが、昭和51年には、当時トラブル続きのDD54の応援(と想定)して福知山に転属となります。 その翌年、福知山向けの新製DD51が投入されると、今度は岩見沢第2に転属し、先に罹災した不足機を補う任に就きます。 その後、昭和54年には岩見沢のDD51は1000番代に統一され、711は追分に転属して5両の仲間と夕張線を中心に石炭列車に活躍します。 しかし、3年後の昭和57年には追分区の無配置化で岩見沢第2に出戻りとなりますが、車扱い貨物の合理化により1年で余剰となり、今度は狩勝無煙化で投入された車齢の高い根室本線の500番台若番を淘汰するため釧路に転出します。
国鉄末期のこの時期、711は急行「まりも」牽引の任に就くこともあり、生涯でも注目を浴びた時期かも知れません。 釧路車管が担当する機関車は、塗料の種類が良くないのか、塗り分けが擦り切れたような薄汚れた機関車がほとんどでしたので、苗穂工場を出場した711は一際綺麗に見えたものでした。
そして国鉄終焉が間近に迫った昭和61年11月、JRに承継する車両と、国鉄で廃車する車両が選別され、昭和44年度に製造されたDD51は殆どが廃車とされることになり、680も711も国鉄とともに消えていきました。
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なお、このロットのA寒地仕様で唯一、710号機だけは五稜郭に新製配置され、一度も転属することなく17年の生涯を終えました。 五稜郭配置後の早い時期に補助灯(3ツ目)を増設した5両(710,716,741,742,745)のうちの1両で、函館山線で急行「ニセコ」の任に就く姿が印象的な機関車でした。 (文:堀岡 健司)
「おい井門、凄い映像をやっている!見せてやるから待ってろ」
というものでした。
彼は持っていた8ミリビデオを結線して上映中の「中国蒸機」映像をビデオ録画してくれました。
凄い!夢のような爆煙!
映像の持ち主は7つ歳下、昭和61年卒の紀伊国啓さんでした。
こりゃ大変だ!直ぐ行かなきゃ!中国へ!
増田泉、奥井伴彦、井門義博の三人組は三田会内で最も中国に精通していた堀岡健司、紀伊国啓の二人と会って教示願ったわけです。
そこからがこの御両名とのお付合いの始まりです。
堀岡健司氏は「DD51」で有名な人物でもあります。
(全機撃墜達成者というトンデモナイ人であったかも知れません)
その堀岡氏から今月発売したDD51680、711について一文を頂きましたのでここで紹介致します。
堀岡さんありがとうございます!
数ある機関車には、それぞれの辿った軌跡があります。 ここでは、昭和44~45年に製造されたDD51680,711の軌跡を同ロットの車両とともに辿ってみることにします。
DD51 680[秋]
680号機は昭和44年12月5日に三菱重工、711号機は昭和45年4月11日に日立製作所で落成し、奥羽・羽越本線を無煙化するため秋田機関区に配置されました。 何と言っても20系「日本海」など、日本海縦貫線の優等列車の活躍が白眉だった時代です。 同ロットで製造された一般形やB寒地使用のDD51は、中央西線,八高線,房総方面に投入されましたが、やはり特急牽引には及びもつかぬ地味な活躍であったと思います。
しかし華やかな活躍は長くは続きません。 新製から3年目の昭和47年にはED75-700の増備により680を含む多くの車両は山形機関区に転属となり、さらに新製7年目の昭和51年には奥羽線での活躍の場を失い、9両の仲間は早くも離散することになります。
その多くは完全無煙化の使者として北海道に渡ります。 680は旭川へ、681~685は追分に転属しましたが、これが運命の分かれ目となります。 追分に行った681,682,683は渡道直後に追分機関区の火災で罹災し、僅か7年で廃車となってしまいました。
いっぽう、旭川で難を逃れた680ですが、すぐに北見に転属となり、以降7年間、常紋越えで活躍することになります。 北見のDD51は昭和51年から59年の配置期間中、変わることなく僅か3両だけの配置で、610、680、1061の3両が峠越えに活躍していました。 朝10時ぐらいに常紋を通る下り貨物を担当していましたので、目にした趣味人も多いと思います。
北見は担当工場が苗穂工場ではなく釧路車管でしたので、幾つか、目に付く特徴がありあました。 680はナンバープレートのブロック化を免れていたような気がします。(間違っていたら失礼しました) 610はラジエーターファンの回転目印が北見機関区オリジナル改造の「北」の文字でした。(通常、苗穂改造機はクローバー型)
その後、国鉄末期の昭和59年には北見からDD51の配置がなくなり、この3両は10年ぶりに旭川に戻ります。最晩年は、宗谷の324・321列車も担当し、赤い客車と青い荷物車の2両編成を牽いてサロベツ原野を行く姿を見たのが最後でした。
DD51 711[秋]
いっぽう711ですが、昭和51年には、当時トラブル続きのDD54の応援(と想定)して福知山に転属となります。 その翌年、福知山向けの新製DD51が投入されると、今度は岩見沢第2に転属し、先に罹災した不足機を補う任に就きます。 その後、昭和54年には岩見沢のDD51は1000番代に統一され、711は追分に転属して5両の仲間と夕張線を中心に石炭列車に活躍します。 しかし、3年後の昭和57年には追分区の無配置化で岩見沢第2に出戻りとなりますが、車扱い貨物の合理化により1年で余剰となり、今度は狩勝無煙化で投入された車齢の高い根室本線の500番台若番を淘汰するため釧路に転出します。
国鉄末期のこの時期、711は急行「まりも」牽引の任に就くこともあり、生涯でも注目を浴びた時期かも知れません。 釧路車管が担当する機関車は、塗料の種類が良くないのか、塗り分けが擦り切れたような薄汚れた機関車がほとんどでしたので、苗穂工場を出場した711は一際綺麗に見えたものでした。
そして国鉄終焉が間近に迫った昭和61年11月、JRに承継する車両と、国鉄で廃車する車両が選別され、昭和44年度に製造されたDD51は殆どが廃車とされることになり、680も711も国鉄とともに消えていきました。
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なお、このロットのA寒地仕様で唯一、710号機だけは五稜郭に新製配置され、一度も転属することなく17年の生涯を終えました。 五稜郭配置後の早い時期に補助灯(3ツ目)を増設した5両(710,716,741,742,745)のうちの1両で、函館山線で急行「ニセコ」の任に就く姿が印象的な機関車でした。 (文:堀岡 健司)