(平成23年3月12日午前4時30分国際フォーラム )
有楽町駅から東京駅を目指して歩いた。多くの人たちが一緒だった。
20分ほどで東京駅に着いた。
駅前には人の渦が出来ていた。特にバス停は長蛇の列。
案の定、新幹線も電車もすべてストップ。すでにどの改札口もオープンになっていた。
何処であったか記憶は薄れているが、改札を入ったところで、テレビを見ている人たちがいた。遠くから、津波らしい映像が見えた。みんな真剣な眼差し。
家に連絡しようと思い、携帯電話をしたが、まったく繋がらず。諦めた。
「よし、腹ごしらえ!」
いつも見ている「おにぎり屋」では、まだ商売をしていた。さほどの人だかりもなかった。
おにぎり3個とお茶のボトルを1本買って、床に腰を下ろして食べた。あとで振り返ってみて、この判断がとてもよかった。
構内アナウンスが、大地震と大津波を報じ、新幹線や近郊電車が走らないことを告げていた。
多くの人たちが、身を寄せるようにして床に座った。誰かが段ボールを見つけて来て、その上に譲り合いながら座った。
左隣りには、二組の老夫婦。右隣には中年の女性。
あちらこちらから、お土産ものらしい『甘いもの」が配られてきた。
すべての人たちは、とにかく静かだった。声を荒げる場面はなかった。ひたすら、肩を寄せ合って座っていた。なんと素晴らしい日本人!
携帯電話が鳴った。娘からであった。
「今、何処!?」
「東京駅だよ」
「みんな心配してるのよっ!」
えらい剣幕だ。幾度も幾度もかけていて、やっと繋がったらしい。
妹からも電話があり、同じようなやりとりをした。
まだまだ続くのだが、とりあえずはこのくらいにして、物語は閉じることにしたい。
翌日未明の三時ごろ、旧都庁跡に建った「国際フォーラム」に移動させられた。東京駅にしてみれば、「帰宅難民」を置くつもりはなかったらしい。
仕方がないから移動しようという段になって、右隣の中年女性が小さな声で言った。
「私ひとりでは怖いので、どうぞよろしくお願いします」
つまり、ナイトになって欲しいという依頼だった。携帯電話の番号を交換し、はぐれたら連絡し合うことにした。運良く一緒に移動できたのだが、はぐれた時、果たして電話が通じたろうか。頼りない老ナイトだった。
2日の朝7時ごろ、JR線が動いた。
昼前に家に着いた。
そのころ、中年女性から、無事に家に着いたむねの電話があり、お礼を言われた。
ざっくり言えば、そのような『帰宅難民」顛末記だった。
反省点は幾つもあった。しかし、まだ実行していない。
それにしても、『静かな日本人」をしっかり目撃できたし、意外に私も冷静であった。
多くの人々が連帯しながら、事態を甘受し、推移を冷静に見守っていた。
ご先祖から引き継いだ日本人のこの特質をベースにしながら、次なる国作りをすれば、より素晴らしい日本を構築できるのではなかろうか。
理不尽な「反日」ののろしも、いつの日か消滅するに違いない。