新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

生きるに値しない命?

2009年05月20日 05時37分15秒 | コラム・エッセー

 某財団法人のパンフレットに、次のような文章が載っていた。

「高齢者の○○療法について考えよう!」という見出しがついていた。

 その中の小見出しに、「生きるに値する命を生きるために」という言葉があった。

「生きるに値する命・・・」と書いたからには、「生きるに値しない命・・・」があるのだろうか。

 ひねくれて考える癖のある私は、すぐにそんなことを考えてしまう。

 文章の大要は次のようなものだ。

『自分の命の行く末を自分で決めることは、誰でも敬遠したくなる。しかし、生あるものはいずれ終わりを迎える。勇気を出して自ら考えておくことが、自分のためだけでなく、周囲の人に対する思いやりでもある。自らの望む生死を、家族や医療者と胸を開いて話し合い、調和の取れた結論を持っている必要がある』 

 もっと具体的に言えば、「○○療法を受けない」という選択肢もあることを、事前に考えておいたほうがいい、そんなことが書いてあった。

 その見出しが、「生きるに値する命を生きるために」となっていたので、「生きるに値しない命の場合は、○○療法を受けないことも考えろ」と読めないこともない。

 言いたい本音はそんなことなのだろう。

 その○○療法を新たに始める患者のうち、65歳以上は6割近いそうだ。

 中には、自己判断ができなくなってしまった人もいるらしい。

 自己判断ができなくなった段階になっても、○○療法を受けたいですか?

 治療費も嵩み、周囲に対しても迷惑をかけるのだから、「痴呆になったら、○○療法を受けないよ」と、事前に言っておいたらどうですか?

 ○○療法を受けず、死の訪れを受け入れるのも選択ですよ。

 そんな呼びかけらしい。

 至極当然のことだ。

 だが、そこで問題。

「自己判断ができない段階の命」を、「生きるに値しない命」という前提で話を進めているように思えてならない。

 それは私の思い過ごしなのだろうか。僻み根性なのだろうか。

 尊厳死という死に方もある。

 今朝はつまらないことを考えてしまったようだ。

 別館として、写真俳句ブログ「いのちの囁き」を開いております。

 ご覧いただけると嬉しいです。

   → こちら

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする