某財団法人のパンフレットに、次のような文章が載っていた。
「高齢者の○○療法について考えよう!」という見出しがついていた。
その中の小見出しに、「生きるに値する命を生きるために」という言葉があった。
「生きるに値する命・・・」と書いたからには、「生きるに値しない命・・・」があるのだろうか。
ひねくれて考える癖のある私は、すぐにそんなことを考えてしまう。
文章の大要は次のようなものだ。
『自分の命の行く末を自分で決めることは、誰でも敬遠したくなる。しかし、生あるものはいずれ終わりを迎える。勇気を出して自ら考えておくことが、自分のためだけでなく、周囲の人に対する思いやりでもある。自らの望む生死を、家族や医療者と胸を開いて話し合い、調和の取れた結論を持っている必要がある』
もっと具体的に言えば、「○○療法を受けない」という選択肢もあることを、事前に考えておいたほうがいい、そんなことが書いてあった。
その見出しが、「生きるに値する命を生きるために」となっていたので、「生きるに値しない命の場合は、○○療法を受けないことも考えろ」と読めないこともない。
言いたい本音はそんなことなのだろう。
その○○療法を新たに始める患者のうち、65歳以上は6割近いそうだ。
中には、自己判断ができなくなってしまった人もいるらしい。
自己判断ができなくなった段階になっても、○○療法を受けたいですか?
治療費も嵩み、周囲に対しても迷惑をかけるのだから、「痴呆になったら、○○療法を受けないよ」と、事前に言っておいたらどうですか?
○○療法を受けず、死の訪れを受け入れるのも選択ですよ。
そんな呼びかけらしい。
至極当然のことだ。
だが、そこで問題。
「自己判断ができない段階の命」を、「生きるに値しない命」という前提で話を進めているように思えてならない。
それは私の思い過ごしなのだろうか。僻み根性なのだろうか。
尊厳死という死に方もある。
今朝はつまらないことを考えてしまったようだ。
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