私は写真撮影が好きだ。撮影すること自体が好きなのだ。
初めてカメラに接したのは、中学生時代。昭和22~23年ごろだったように思う。
もちろん私が所有していたのではない。カメラを買ってもらえる経済的な余裕など、わが家にはなかった。
旧友のH君が持っていた。彼は資産家の息子だった。学校の帰りに彼の家に寄り道して、カメラをいじらせてもらっていた。
当時は二眼レフが流行っていた。上からのぞき込むやつだった。
近所の川へ行って、流れや石ころを撮った。美空ひばりの歌を唄いながら撮った。妙なことを覚えているものだが、曲名は覚えていない。
脇道へ逸れるが、H君は数年前に他界した。肝臓ガンであった。
自分のカメラを持ったのは、社会人になってからだ。昭和32~33年以降の話だ。とは言っても、さほど熱を入れていたわけではない。
子供が生まれてからしばらくは、成長記録を撮りまくった。写真集は保管してある。
8ミリ映写機も流行った。だから両刀使いをした。しかし8ミリフイルムは家の中に仕舞い忘れてしまった。死ぬまでに探さなくてはならない。
そんな私だったが、25年ほど前から一眼レフに凝り始めた。まだデジタルカメラは主流ではなかった。そのフイルムは、段ボールの中で沢山眠っている。
スキャンをするつもりでスキャナーを買ったが、もうそんな気は薄れてしまった。古いフイルムを活かすより、新しく撮ったほうが楽しい。
写真撮影はとても楽しい。頭の中を真っ白にして取り組む。傑作を狙って撮るのだが、上手く行ったためしがない。いつもイマイチだ。それでも楽しいのが写真だ。
不思議なもので、被写体によって撮影態度が異なる。
モデル撮影のときは、緊張する。しかし、その緊張が楽しい。モデルさんに声をかけながらシャッターを押す。
リードに繋がれたワンちゃんは気楽に撮れる。飼い主さんはみんな機嫌良く撮らせてくれる。むしろ自慢気だ。こちらもお世辞を言いながら撮らせてもらう。
ノラ猫は気楽な被写体だ。彼らは緊張してウロチョロする。これには困るが、自由は奪えない。
気楽なのは花の撮影だ。ほかの撮影者に気を使うが、被写体は文句を言わない。
しかし薔薇だけは違う。いつも緊張してしまう。どうしてだろうか。
薔薇には気品がある。威厳も備わっている。ある種の魔性も感じられる。
畏まって撮らないと、薔薇に叱られそうだ。
写真の女性、日傘を差して、長いこと被写体と睨めっこ。緊張していたのだろうか。
私は薔薇の撮影を諦めた。代わりに女性カメラマンの日傘を撮った。
私もかなりヘンなヤツのようだ。
敬ひつ畏れ入りつつ薔薇を撮る 鵯 一平
別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いております。
ご覧いただけると嬉しいです。
→ こちら