関東地方は今日から「梅雨入り」と発表された。例年より6日遅いとのこと。それでいて、梅雨明けは例年より早いらしい。「当たるも八卦」より確度は高いのだろうが、予想が当たれば、梅雨の期間はかなり短くなり、水不足が心配となってくる。テレビでは、今から節水を呼びかけている。
この季節、私には消しがたい記憶がある。しかも長い間、思い違いのまま過ごしていたようなのだ。
太平洋戦争が敗戦となって幕を閉じたのは、今から62年ほど前の昭和20年8月。その頃の私は、国民学校の5年生で、日本が敗色濃厚であることも知らず、意気軒昂たる軍国少年であった。
近隣の町や村は、焼夷弾攻撃や機銃掃射を受け、多くの被害を被っていたが、私が住んでいた町はまだ無傷であった。しかし、「警戒警報」や「空襲警報」の発令は日常的であり、昼間の学校にいる時間帯に発令されれば、直ちに下校することになっていた。私の家は学校の隣りなので問題はなかったが、小1時間以上もかかる地域の生徒も、同じように帰ることになっていた。アメリカ海軍の艦載機が、近隣の町や村を襲って機銃掃射を繰り返していたその頃、本当に子供たちを帰していたのだろうか。記憶は曖昧だ。
梅雨のさなかの夜もまだ浅い時分、空襲警報が発令され、私たちは近くの防空壕に逃げ込んだ。しかし閃光や爆発音の状況から、「これは空爆ではなく、艦砲射撃だ!」という誰かの断定的な発言があったので、すぐに防空壕からはい出して山のトンネルに逃げ込んだ。翌日、日立市が艦砲射撃に遭ったことを聞いた。翌夜からの私たちは、疑うこともせずに、「空襲警報即トンネル」の行動パターンとなった。そして幾日か後、町の中心部に焼夷弾が投下され、2名が死亡し、90戸以上が焼失した。町がほぼ空っぽだったから、2名の死亡で済んだのだ。少なくとも私は、そのように思っていた。
経過を言えばざっとそんなものなのだが、我が町の空襲を7月10日と思い違いをしていたため、「艦砲射撃を恐れたトンネル生活」、「町が空っぽだったので2名の死亡」、と論理立てしていたことと整合がとれず、長い間悩んでいた。記録によれば、「日立の艦砲射撃」は7月17日となっており、我が町の空襲が前になってしまう。
改めて調べたところ、我が町の空襲は7月19日であった。7月10日は、思い違いであった。
思い違いの理由は二つ。一つは、「艦砲射撃を恐れたトンネル生活」が、結構長く続いていたと思っていたこと。2日間だったとは思っていなかった。
二つめは、稲が植えられていた田んぼに多くの不発弾が落ちていたのだが、稲の生育状況から、勝手に6月下旬のイメージを描いてしまったことだ。
こんなことをくどくどと書く必要もないのだが、幾人かの人たちに間違った話をしていたので、お詫びの言葉に代えて、言い訳をした次第。