大原幽学の記念館にも足を運び、ファックスでも私の意志を伝えた。市役所にも足を引きずって課長にあったり、改良普及所にも意見を求めでかけた。農家の意見も結局経済性の観点でしかコメ作りを考えていないということである。人間の命、水田の周辺で生きる生き物の観点がぬけている。残念である。現在メダカは1匹何千円とかで売買され根っからの地元産のメダカはいない。しかしいるところにはいるし増殖もかのうである。なぜかってメダカは本来水田の生きもだからである。谷津田の残された水田域で農薬、化学肥料を避けてコメ作りが持続できたところでは10年もすれば{メダカの学校」は実現する。福島の地震の時、神崎も激しくゆれた。たまたま水田にいたがその周辺は水田の基盤整備がされない開発地域になっていて水田は水路が昔の儘でコンクリートはなかった。冬にメダカはその周辺の水路で生きていた。6月に大雨が降って水路を通して大水が水田に流入しふなや鯉、ドジョウなどが産卵のために押し寄せてきた。稲の苗はいためつけられた。福島の阿部さんが唐網持参で大収穫であった。放射能を気にしながら鯉やフナを食べた。
多古の染井地区での水田の構造改革の検討会で所英亮さんは江戸時代に行われた基盤整備をそのまま残すべきであると訴え、残った。空中散布をやめたら、ホタルがかえってきた。ドジョウやかめの生息も当たり前であるしコウノトリまで飛来した。機械が入りにくいという人間さまの都合で水田の規模を拡大し、農家の人もその土地の耕作をやめた。そこが生き物の楽園となった。江戸時代のコメの収量は4,5俵であった。今は化学肥料、農薬を使い除草剤に頼る。私は定年してからコメ作りを始めたが、年金で生活できる範囲で人が食べるものを作れば安全を維持できるのではないか。太陽パネルを使って地域で必要とする電気を活用する。原発なんて生き物の生息を
狭めるだけで全く益はない。
私の近所周りも前のオリンピックの時マキの木が高く売れたからと植えたまま残され北側の竹藪は土地の切り売りで残り、今ではウグイスガ朝から晩まで鳴いている。モントゴメリーの世界である。
カワセミがいた(多古自然公園)、サシバが鳴いた(多古、佐倉和田実験田)亀がいた(多古染井水田)佐倉実験田、コウノトリがやってきた(多古染井水田)香取の藤崎芳秀水田(コハクチョウ、タシギ、トンボの羽化、アブの幼虫、メダカの大群)タニシ、サカマキガイ、平巻貝、ヘビ類(マムシ、シマヘビ、カナヘビ)シラサギ、アオサギ、ハクセキレイ、
などなどしかしこうした普段普通にいた生き物が少なくなったというのがただしいか。佐倉でもジャンボタニシが外来種ということで村を上げて対処しようと奮闘している。アイガモと同じで対処法がはっきりすれば、逆に除草の友となる。コメ作りを25年続けて、収量を気にしないやり方ではあったが同じ生き物として生存権を与えることを前提に取り組んできた。ここ15年の変化としてネオニコチノイドという水生の農薬の使用で環境が大きく変わったのではないかとおもわれる。





朝ドラのアンパンを見るにつけ1961年大学をスタートさせた私にとって現代の若者がどのように生きているかと比較すると果たしてつながるのかとかんがえさせられる。千葉大時代はひたすら農業の現場主義にこだわりとにかく現場に行ってそこから新たな技術を学ばねばならない。それとソビエトのレーニンの哲学ノート、その後東京教育大学で鈴木芳夫さんと学術会議会員の福島要一さんの率いるミチュ=リン会で活動したことである。東京農工大学の柳下先生が引き継いだ〈農の会〉であるがなす科どうしの交雑、接ぎ木の研究であった。