買った芋から、さし穂を育てる 2025-07-14 09:57:52 | 日本不耕起栽培普及会 2回に分け15本とり雨を見計らって畑に植えた挿し木をするとき穂に水田の土を塗り付けると付きがよくなる土に指しワラで日差しを避ける
妻も80の壁を越えた、ブラボー 2025-07-14 09:38:16 | 日本不耕起栽培普及会 tたまには息子の家族と九十九里の海岸と飯岡灯台散策旭の矢指海岸、飯岡灯台の見える丘九十九里海岸と飯岡漁港
水田の近くに休耕している畑を借りて大豆と落花生サトイモ、さらにサツマイモを始める 2025-07-10 09:39:59 | 日本不耕起栽培普及会 手前が大豆、奥が落花生、右にサトイモ2週前にワラを敷く大豆はへそ曲がりと品種ソラタカクは直播、その後おい播もしたが雨が降らず発芽せず失敗、しばらく雨が降らず温度も高いので、開花を始める(落花生)食べるようと買ってきたサツマイモ、水を与えたら芽が伸びてきた。この芽を伸ばして挿してみることにした。畑は乾いているので夕方の雨を待って植え付けてみたい。とりあえず8本とれている。
米の減反政策あたりからかんがえる 2025-07-06 15:08:51 | 日本不耕起栽培普及会 米の価格の決め方として生産者価格と消費者価格が問題だった。生産者を保護するために生産に必要な労賃、生産資材、機械、施設などこれに対してお米を食べる消費者の生活を守るために両方を守るためにコメの二重価額制度を取った時代があった。農家はそれなりに安定した時代があった。1960年代から池田勇人あたりから高度経済改革で農業も構造改善で水田の基盤整備が全国的に行われ大型機械が活用できるように水田の規模を50aとか100aとかに平坦な地域は拡大させた。化学肥料や農薬、除草剤などの活用でコメの生産量は格段に伸びていった。1971年にはコメの生産調整といっていわゆる減反政策が必要となった。日本人はとにかく几帳面であるから村八分にされるほど厳密に生産調整がおこなわれた。いわゆる生かさず殺さずの論理である。2018年までこの減反は続いた。その間有機JAS農法で農薬を使わないで10a当たり5,6俵程度取れる小規模農家は存在し学校給食に農産物を収めている。古くは江戸時代には収量が5,6票が普通であり、日本人の強靭な肉体はこのコメと野菜が原動力となっている。1970年代以降次第にコメ食からパンと肉食に食習慣を変えられてしまった。
私が昨年リュウマチで中央病院に入院した時5,6階の病棟から旭の街を見渡した時農薬、化学肥料を使わない水田がつきれないのか? 2025-07-04 16:19:20 | 日本不耕起栽培普及会 大原幽学の記念館にも足を運び、ファックスでも私の意志を伝えた。市役所にも足を引きずって課長にあったり、改良普及所にも意見を求めでかけた。農家の意見も結局経済性の観点でしかコメ作りを考えていないということである。人間の命、水田の周辺で生きる生き物の観点がぬけている。残念である。現在メダカは1匹何千円とかで売買され根っからの地元産のメダカはいない。しかしいるところにはいるし増殖もかのうである。なぜかってメダカは本来水田の生きもだからである。谷津田の残された水田域で農薬、化学肥料を避けてコメ作りが持続できたところでは10年もすれば{メダカの学校」は実現する。福島の地震の時、神崎も激しくゆれた。たまたま水田にいたがその周辺は水田の基盤整備がされない開発地域になっていて水田は水路が昔の儘でコンクリートはなかった。冬にメダカはその周辺の水路で生きていた。6月に大雨が降って水路を通して大水が水田に流入しふなや鯉、ドジョウなどが産卵のために押し寄せてきた。稲の苗はいためつけられた。福島の阿部さんが唐網持参で大収穫であった。放射能を気にしながら鯉やフナを食べた。