K&A

kan-haruの日記

イベント(7) 大森駅開業130周年(その2)

2006年10月22日 | イベント
大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」第1回
10月14日に大森東急イン通路で、大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」が展示されました。パネル展は、東京都大森貝塚保存会の企画で、大森駅開業から今日までの姿を、小説、絵や写真などで紹介しておりました。その展示物をみて、それらの背景の時代の大森駅に関する記録から、130年の歴史を浮き彫りして大森駅と周辺の模様の変遷を浮き出してみました。

・モースの大森貝塚発掘の日記から見た1897年頃の大森駅の模様
エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838-1925)が、1877年(明治10年6月)に来日した時に、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見し、大森駅の近くにあったので大森貝塚と名付けられました。この貝塚が、日本考古学の発祥の地となりました。
しかし、大森駅は大森村にあるのではなく、新井宿村にありましたが、なぜ大森駅と名付けられたのかは理由がよく分かっておりません。大森駅から700mほど東にある東海道の三原通りから谷戸にかけては、品川宿と川崎宿の中間に当たる大森村の間(あい)の宿(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)であり、それにより大森の名は知られておりましたので名付けた(「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)というのが理由のようです。

パネル展の展示から、モースの1887年(明治10年)9月16日日曜日の日記「日本その日その日」(石川欣一訳)によると、この日に行った貝塚の発掘は、直弟子の生物学者、佐々木忠次郎と学生二人で大森駅まで汽車に乗り、築堤までの半マイルの線路を歩いて行ったと記述してあります。
ところが、モースは生物学者であったため、考古学者であれば必ず実施する発掘地点周辺部の測量をしなかったことから、モースのリポートを見ても正確な発掘地点はわからなかったのです。
現在、大森貝塚に関する石碑は、大田区側の大森駅近くと品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内との2ヵ所にあります。この2ヵ所の大森貝塚については、今後記述を予定しておりますので、ここでは大森駅との係わりのみで留めておきます。

・幸徳秋水の論説記事から見た1897年頃の大森駅の模様
パネル展の展示から、ジャーナリストの幸徳秋水が、崩御された英照皇太后の京都後月輪東山陵に東海道線で葬送するお見送りの模様を、拡張高い筆運びで書いた中央新聞論説記事の「大森駅奉送記」の中に、当時の大森駅の状況が見られます。当時の大森駅の周辺は、明治の大森村編集の地図に示す通り田んぼの中にありました。
英照皇太后(えいしょう こうたいごう、旧名:九条夙子(くじょう あさこ)、1833年- 1897)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母にあたります。1897年(明治30年)1月11日、65歳で崩御。同月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)で、孝明帝と同所に葬むられました。


当時の大森駅の周辺は、田んぼが広がっています。

幸徳秋水(1871-1911)は、高知県幡多郡中村町(現四万十市)の酒造業と薬種業を営む有力者の家に生まれ、本名は幸徳伝次郎と云い、思想家、社会主義者で1901年に「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行し帝国主義を道徳見地から批判しました。また、1903年には記者をしていた「万朝報」が開戦論に転換したので退社し、「平民新聞」を創刊して非戦論を訴えつづけました。1910年「大逆事件」で逮捕され、翌年処刑されました。

・小説「暗夜行路」(志賀直哉)の中で見る1913年頃の大森駅の描写
志賀直哉(1883-1971)は、宮城県石巻市の出身で、学習院初等、中等、高等科を経て東京帝国大学英文科に入学し、国文科に転じた後中退し、1910年に武者小路実篤らと文芸雑誌「白樺」を創刊した。1949年に文化勲章を受章し、1971年に没しました。


<パネル展の説明図写真には、小説に記述の品川行きの電車が写っています。

暗夜行路」は、志賀直哉唯一の長編小説で、大正10年(1921)1月~昭和12年(1937)4月、『改造』に断続連載し、小説の場面は東京、尾道、京都、山陰の大山と移っていきます。この中の東京大森駅付近の描写場面から、1913年頃の大森駅付近の模様が見られます。
小説に出てくる、(院線電車のない頃)の注釈の意味は、後記の「1920年までの日本の鉄道管轄官庁」の記載に示す様に1913年(大正2年)頃は、まだ鉄道院管轄の院線電車では無かったという説明です。

[1920年頃までの日本の鉄道管轄官庁の概略]
日本の鉄道管轄官庁は、新橋-横浜間鉄道開業の前年の1871年に設置の工部省鉄道寮が最初で、1885年に工部省が廃止され内閣直属となり、1890年に鉄道庁となり内務省外局になった、1892年に逓信省外局とされ、1893年には内局化され逓信省鉄道局となった。
さらに、1897年に現業部門を外局として独立させ、鉄道作業局(1908年に帝国鉄道庁へと改組)となり、鉄道行政の相次ぐ所管変更や監督組織と現業組織の分離による混乱が、鉄道国有化問題化をきっかけに、1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合して内閣鉄道院を設置し内閣の直属機関とすることになり、総務・運輸・建設・計理の4部と鉄道調査所が置かれた。
1913年には4部が技術部・運輸局・監督局・経理局に再編され、1918年には建設局の新設と鉄道管理局の鉄道局への再編成が行われた。だが、鉄道路線の増大によって行政事務が増加した事から、1920年に鉄道院は省に昇格する事となった。(Wikipedia調べ)

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(9月分掲載Indexへ)
<前回 イベント(7) 大森駅開業130周年(その1) へ
次回 イベント(7) 大森駅開業130周年(その3) へ>
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イベント(7) 大森駅開業130周... | トップ | イベント(7) 大森駅開業130周... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

イベント」カテゴリの最新記事