波と狛のつれづれ日記

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感謝の言葉しか見つからない……… さくらももこさんが遺したもの

2019-01-23 01:12:32 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
昨年の8月15日に、漫画家で作詞家でエッセイストのさくらももこさんが亡くなりました。 彼女は人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の原作者として有名ですけど、私のいる静岡県出身で、さらに作風にも共感できることが多々あるので、私には親近感があります。今回はそんなさくらももこさんの出身地を訪れつつ、彼女の歩んだ道を辿っていこうと思います。



さくらももこさん(本名はシークレット)は、昭和40年(1965年)の5月に静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に生まれました。 入江小学校、同・第八中学校と地元の学校に通い、高校は公立ながらも当時は女子校だった県立清水西高等学校へ。 さらにこれもまた地元の静岡英和女学院短期大学(現在の静岡英和学院大学短期大学部)に進学しました。



そんな今年の1月中旬に、私は静岡駅に降り立ちました。 その駅前には、さくらさんによって描かれた、静岡市をアピールする横断幕が掲げられていました。
彼女は後日談で「何の取り柄もなかった私に、学校の先生は『お前のエッセイは群を抜いて優れている』と言ってくれました。私は漫画を描くのが好きだし、そうだ エッセイの漫画を描いてみよう」と、語っていました。そのようにして、短大に在学中の昭和59年(1984年)に「りぼんオリジナル」の冬の号で「教えてやるんだありがたく思え!」という作品で漫画家デビューしたのです

さらに、漫画家をやりながら東京の企業に就職したのですけど、二足のわらじはさすがにキツかったみたいで、仕事中には居眠りばかりしていたそうです。 しまいには、上司に「仕事か漫画か、どちらかにしろ」とまで言われ「じゃあ、漫画を取ります 」入社からわずか2ヶ月でその会社を辞めてしまいました。



漫画に専念する決意をしたさくらさん。デビューから2年後の昭和61年(1986年)に「りぼん」「ちびまる子ちゃん」の連載を始めたのでした。 姉が単行本を持っていたこともあって、私はかなり前からその存在を知っていました。その書き出しが、こんな感じなのですよ。 このような作者のノリ、私は好きです。



その記念すべき第1話は「おっちゃんの まほうカードの巻」というタイトルでした。 夏休みを前に、終業式から帰ってきた小学生のさくらももこさんことちびまる子ちゃんは、両手に持ちきれないほどの荷物を持って帰宅しました。 そのあと、誰でも手品ができるというカードを売る、怪しいオジさんと出くわすのですけど………
初期の「ちびまる子ちゃん」は、さくらさんが小学校3年の時の自らの姿を描いていて、日常の生活の中で彼女のまわりに起こることには、思わず「うんうん」とか「あるある」と言ってしまいます。



とかなんとか言っているうちに、私は清水駅に到着しました。ここは、さくらさんが生まれ育った街でもあります。



その駅の西口となる江尻口には、そこがかつては東海道の宿場町だったということもあって、さくらさんの手による旅人に扮した彼女の自画像がありました。 また、一緒にいるレッサーパンダは、日本平動物園のシンボル的存在でもあります。



その反対側の東口ことみなと口には、今度は茶摘み娘姿のさくらさんが 富士山と駿河湾の風景も、いいですね。



そのみなと口を出たところからは、エスパルスドリームプラザへの無料送迎バスが出ているのですよ ということで、今から私はそのバスに乗っていきます。



清水駅から10分ほどで、エスパルスドリームプラザが見えてきましたよ ちなみにこちらは、お土産屋、飲食店、映画館、観覧車などを備えた複合施設であります。 さらにその3階には………



ちびまる子ちゃんのテーマパークとなる、ちびまる子ちゃんランドがあるのですよ その入口前には、漫画に出てくる駄菓子屋のみまつ屋や神社が設けられています。



そこを入ったら、ちびまる子ちゃん(以降は『まるちゃん』とさせていただきます)とお友達のたまちゃん、それと友蔵じいさんがお出迎え なんか、これから楽しいことが始まりそうな気がしてきました。



そのまた先には、さくら家の日常の風景がありました。 台所にはお母さん(名前はすみれ)とお姉ちゃん(さきこ)がいて、茶の間にはお父さん(ひろし)とお祖母ちゃん(こたけ)の姿がありました。



さらに子供部屋には、いましたよ まるちゃんが。それにしても、かなり散らかしていますね。



さくら家ゾーンを過ぎたら、学校の教室に突入しました。 その一角で………



着ぐるみ、いや、生身のまるちゃんがグリーティングをしていたので、一緒に写真を撮ってもらいました。 これはいい記念になります。



………なんて言いながらも、次の公園ゾーンでは、まるちゃんやたまちゃんに囲まれつつ、しっかりちゃっかり自撮りしている私の姿がありました。



それらのような見て撮って楽しむコーナーの他にも、新聞の四コマ漫画に連載していた頃の、さくらさん直筆のネーム(大ざっぱな流れを表す下書き)や………



アニメのオープニングに流れる映像の原案なども展示されていました。 「ちびまる子ちゃん」は平成2年(1990年)にアニメ化され、当初のオープニングは今のような「おどるポンポコリン」ではなく、「ゆめいっぱい」という曲だったのですよ。 アニメの放送は一旦途切れたのですけど、あまりの人気と反響に押されて放送は再開され、今ではすっかり日曜日の夕方の定番となっています。



ちびまる子ちゃんランドのすぐ横では、期間限定で「さくらももこ ありがとうの会」の展示がおこなわれていました。その入口には長蛇の列ができていたのですけど、私はそれを見るまでは帰らない決意をして並びました。



お待たせしました。今から皆さまをその中にご案内いたします。 ある程度の人数で仕切られたのですけど、かなり賑わっていますね。



入ってすぐのところには、さくらさんの仕事部屋の様子が再現されていました。このような環境の中で、数々の作品が産み出されてきたのですね。



こちらにも、新聞の四コマ漫画の原画がありました。「うんうん」な内容ですけど、カラーだとキレイで見やすいですね。



こちらは、ネームみたいですね。まるちゃんと父ひろしとのやりとりがとても面白いです。



さらに、まるちゃんとクラスメイトなどが描かれたイラストや………



さくらさんのメッセージが書かれた色紙などもありました。 またその会場では、さくらさんの歩んできた道や、彼女へのメッセージが収録されたビデオも流されていました。 そのナレーターは、やはりキートン山田さんだったのですけど………
「『ちびまる子ちゃん』など、私の描いてきた作品をたくさんの皆さまに可愛がっていただき、とても感謝しています」という彼女のメッセージに対して、キートン山田さんが「ありがとうと言いたいのは、こちらのほうである」と返したところで、私はぶわっときてしまいました。 さらにそれに追い討ちをかけるように「さくら、ありがとな 」などといった、まるちゃんのクラスメイトの声でお礼の言葉が続いたので、泣かない自信があった私でも耐えきれませんでした。 彼女が亡くなってから、5ヶ月近くも経つというのに………



さくらさんは故郷の清水が好きで、このような環境で生まれ育ったので、長年多くの人から愛されてきた「ちびまる子ちゃん」などの作品が生まれたのですね。そのことは、彼女の直筆のメッセージからもうかがうことができます。



静岡市葵区の新静岡セノバの近くには、さくらさんがデザインしたマンホールの蓋があります。



さらにもう1ヶ所、清水区の清水駅の江尻口の近くにも、その地域をイメージしたデザインのものが設置されているのですよ。 そこからも地域愛を感じるのですけど、これが彼女にとって最後の仕事となってしまいました。



あと、会場の外に「さくらももこさんにメッセージを書こう 」というコーナーがあったので………



私も一筆書かせていただきました。 さくらさんの活動場所は天国に移ってしまったのですけど、彼女が遺した作品はこれからも親しまれ、伝わり続けていくことでしょう。 エスパルスドリームプラザの「さくらももこ ありがとうの会」の特別展は、2月11日までおこなわれているので、さくらさんを偲びたいという方は、期間内にそちらを訪れてみてくださいませ。
それからオマケとなりますけど、彼女が郡上八幡(岐阜県郡上市)をいたく気に入り、そこを舞台にして勝手に作ったという「GJ8(エイト)マン」というヒーローが主役のネットアニメに、私は最近ハマっています。 主題歌の「長良川鉄道の夜」の歌詞は彼女が手掛け、さらに自ら声優も務めたのですよ その肉声が、まるちゃんをやっているTARAKOさんにソックリなのですよ さくらももこ先生、いろいろと楽しませてくださり、ありがとうございました。


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