昔々、東海道の白須賀宿というところに、あるウワサ話がありました。 それは……… 真夜中に旅人がその峠道を越えようとしたら、大入道や一つ目小僧が突如現れたというのです 「ひいいいっ 」旅人は驚いて腰を抜かしたのですけど、化け物は笑っていたそうです。
その話を聞いた若いお侍さんは「私が退治してみせましょう」と、自信満々に立ち向かっていきました。 そしてその夜、彼の目の前にウワサ通りの化け物が現れたました ………なんか、大入道と一つ目小僧がごっちゃになっていますね。 それでも、お侍さんは少しも怯まずに、一つ目大入道をバッサリと斬り捨てました。
翌朝、宿場の住民たちがそのあたりを見に行ったら、六地蔵のうちの1体が袈裟懸けに切られていました。 それ以来、化け物は出てこなくなり、人々はその地蔵のことを「袈裟切り地蔵」と呼び、災難避けの対象として信仰したそうです。 めでたしめでたし?
皆さまに、私の地元に伝わる昔話をお伝えしたくて、いつもの波狛日記と違う書き出しをしてみましたけど、いかがだったでしょうか? ということで、話は再びGWに戻ります。 その「主に自宅で過ごすGWシリーズ」の最終話となる今回は、近くに住んでいながらも今まで1度も訪れたことがなかった袈裟切り地蔵を、波と狛を伴って旧東海道から攻めていこうと思います。
そのちょっとした散策は、街道から少し奥まったところにある蔵法寺からスタートさせていただきます。 こちらのお寺には、17世紀中頃に漁師の網にかかった潮見観音が祀られていて、海上安全の信仰の対象となっています。
私たちはその脇の坂を上がっていきました。 こちらは樹木に覆われて薄暗いのに加えて、細くて急な道なので、車で行くのにはかなりの覚悟が要ります。 その坂を300mほど上り、その道からちょっと外れたところには………
うないの松という立ち寄りスポットがあります。 「うない」はうなじのことで、松があったのが潮見坂の首にあたることから、そのように呼ばれたそうです。初代の松は切り株のみとなっていて、そのすぐ傍に2代目となる若松が植わっていました。 さらに、この松のことを詠んだ久内和光の歌碑と、小ぢんまりとした今川義忠公のお墓が
蔵法寺からの坂道は、ここで本来の旧東海道の潮見坂と合流します。そちらは先の坂ほどではないのですけど、やはり曲がりくねっていて細くて急です。 たつぴは小・中学生だった9年間、毎日この坂を上って登校していたのですよ。 かつて彼が歩いた道を、私たちも辿っていったら………
ハアハア……… 上りきったところには、白須賀宿の資料館と休憩所を兼ねたおんやど白須賀があります。 しかし、この時はまだコロナ禍の影響で休館していました。
かつての東海道は、こちらの白須賀中学校の中を突っ切るルートとなっていました。 江戸時代が終わり、明治天皇が新たな首都となる東京に行幸される際には休憩所が設けられ、その跡地は学校ができるまでは潮見坂公園となっていました。
そのすぐ近くには、明治天皇に関わる場所と潮見坂公園の跡を示す石碑があり………
さらに、白須賀宿の案内図も設置されていました。 その中に、私たちが目指している袈裟切り地蔵もあるのですけど、かなりアバウトですね。 それでも、私は事前に調べておおよそのアタリをつけているので、迷うことはないでしょう。たぶん、きっと。
そこからちょっと西に行ったところから旧東海道を外れて農道に入っていくのですけど、袈裟切り地蔵の案内標識のようなものはありません。
私たちより先に行った方の実地調査ブログによると、畑の端と2代目の潮見坂となる国道42号線の間を通してある、狭くて切り立った道の突き当たりに、例のお地蔵さんがあるそうなのですけど、木々によって完全にブロックされていました。
そのもうちょっと北側に、それっぽい藪と人が入れそうな隙間が見つかりました。 もしかしたら、この中に………
あった ありました。ウワサに聞いていた袈裟切り地蔵が、私たちの目の前に
確かに、そのうちの一体は袈裟懸けに斬られたように、バッサリといっていますね。 ………なんて言っておきながらも、実はその地蔵は私たちが発見した時は後ろに倒れている状態だったので、撮影するために立てておいたのですよ。 それが、下半分とピッタリと合ったので、本来はこのような姿をしていたと思われます。
昔話の通りで、六地蔵で1チームとなっているのですけど、なぜか袈裟切りとなっている物以外でも首がなかったりして、まともなものは一体もありませんでした。ひょっとしたら、自信満々だったというお侍さんは実はビビっていて、手当たり次第に斬りまくったからこうなったのかも知れませんね。
そうしたら、立ち去る前にお地蔵さんたちと記念撮影をしておきましょう。 私がここに来る前に見たブログ等の写真では、すべてと言っていいほどこれと同じ絵となっているので、訪問者はみんなして私みたいに撮影時に袈裟切りさんの上下を合わせたということになります。 しかし、このままの状態で放置しておいたら、何かの拍子で倒れて袈裟切りさんが損傷する恐れがあるので、私は帰る前にまた倒れていた場所に戻しておきました。
その後、私たちは旧東海道の潮見坂を通って帰りました。 桑名から宮(名古屋市熱田区)の七里の渡しの先の街道は内陸部を通っていて、旅人はこの潮見坂でようやく海を仰ぎ見ることになります。 その同じ場所からの現在の風景は………
こうなっています ちょっと曇っていますけど、雑木を伐採して視界がより開けたこともあって、解放感がありますね。
この波狛日記によくコメントを残してくださる袈裟切り地蔵さんはこの地域の出身で、そのハンドルネームは言うまでもなく袈裟切り地蔵にちなんでいます。 しかし、私たちが訪れてきた六地蔵はお墓と一緒に祀られていたので、祟りがあるから絶対に手を触れてはいけないとも云われています。
う~む……… 撤収する前に私は丁重に手を合わせ、さらに今回の日記で袈裟切りさんたちの魅力(?)を世界中に発信したので、どうかそれで相殺してくださいませ。
………と言いつつも、この話で袈裟切り地蔵に関心を持ち、私たちに続きたいという方がいらっしゃるとしたら、袈裟切り群は深い藪の中にあるので、蚊やダニが発生するこれからの時季は避け、冬場に訪問することをオススメします。
「実は、旅人たちを怖がらせた一つ目大入道には攻撃能力はないのでは?」と、鋭いところを突かれた方は、こちらに投票してやってください。
あそこは、昔の土葬場ですぞ。 地元では、てんだい、でんだいと言います。かなり古い土葬場ですな。
各所に、てんだいはありますよ。森になっているところがそうですな。昭和45年くらいに火葬が義務化になるまでは、土葬してましたよ。町内の人が墓穴を掘るのですわ。祖父も昭和43年に土葬しまして、最近50年忌が過ぎたら、土に戻るということで、てんだいの墓じまいをしましたよ。最近土葬場の墓終い多いですよ。ちなみに、てんだいは、市有地になるので、固定資産税はかからないのです。
そういう事で、あそこは白須賀の祖先達が眠る神聖な場所ですから、興味本位に行かないほうが良いですよ。掘れば人骨しか出ませんよ。
丁寧に教えてくださり、ありがとうございます。 袈裟切り地蔵が存在することを公表しつつも、そこへの行き方をぼやかしているのには、そのような理由があったのですね。 てんだい(でんだい)という土葬場だったなんて………
近くを通るようなことがあったら、茂みの外で手を合わせるようにします。
こんにちは。 袈裟切りです。 最近どえらい事にきずいた。本物の袈裟切り地蔵のあるところを、どこの
よそ者かしらんが、山削ってメガソーラーを設置しているのだよ。ちゃんと、お祓いしたのかな
地元出身のわしとしては、すげえバチ当たりなこと
してるなと感じた。わしです。
現地に確認しに行かないといけないのですけど、地蔵の領域にメガソーラーは由々しき事態です。 袈裟切り地蔵さんが「掘っても骨しか出てこない」と仰っているのに………
こうなったら、また大入道に化けて出てもらうしかと思った、白黒茶々でした。