波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

吉田町のシンボル・小山城

2018-10-06 00:01:32 | お城
こんばんは、白黒茶々です。
9月9日に牧之原サービスエリア(上り)でおこなわれた「Wonderful Style」主催のSUMMER DOG FESTIVALは、晴天にも恵まれて無事に閉会することが……… いや、たつぴの白黒茶々家の2人と1頭は最後までその会場にいなかったので、その様子を見届けてはいないのですけど、拍手喝采の中で幕を閉じたに違いありません。たぶん、きっと。 そういう私たちは浜松方面に帰るということで、Uターンをするために吉田インターチェンジ(以下IC)を目指しました。

吉田といえば……… 会場でご一緒した白ふわ仲間がひと足先に吉田公園に行っているので、私は彼らを追いかけることも考えました。しかし、すでに16時近くにもなっていて、もしその公園で合流できたとしても、すぐに解散となりそうだったので、後ろ髪を引かれつつも諦めました。 とはいっても、前回の日記で含みを持たせた通り、私はまっすぐに帰る人間ではありません。
東名高速道路の吉田IC付近を走っていると、南側の小高い丘の上にお城みたいなものがあるのに気付かれた方もいらっしゃると思います。 それはICから約2Kmのところにあって行きやすいので、この機会にその実態に迫らせていただきます。



とかなんとか言っているうちに、その南側の専用駐車場にたどり着きました。 ここから見ても、存在感ありありですね。
実は私はすでにその正体を知っていて、箔母さんと一緒に訪れたことがあるのですよ。とはいっても、それは20年以上も前の話で、たつぴや波にとっては今回が初めてとなるので、また新たな気持ちで挑むことにします。



その麓にある能満寺は、弘長2年(1262年)に開かれた由緒あるお寺です。写真にも少し写っている、本堂前にある大蘇鉄は、長徳元年(995年)頃に安倍晴明が中国から持ち帰り、植えたものと云われています。高さは約6m、幹の太さは約5mにもあって、大阪府堺市の妙国寺、静岡市清水区の龍華寺とともに、日本三大蘇鉄に数えられています。
またこの蘇鉄には、徳川家康がいたく気に入って、駿府城内に移しかえたところ「寺へ帰りたい」と夜ごと泣いたので、再び寺に戻したという伝説が残っています。



能満寺の境内を突っ切っていったところに、お城に続く登山道があるのですけど……… 案内図にそのお城の名前が出てしまっていますね。はい、丘の上の謎のお城は、小山(こやま)城といいます。 しかし、お寺側からは裏道となるというか、その登山道の写真を撮るのを忘れていたので………



お城の西側にある大手門までワープさせていただきます。 小山城の正面入口に当たる大手門跡には、立派な冠木門形式の門が建てられています。 そこを潜っていくと………



樹木に覆われた、三重堀が見えてきます。 小山城は半島状に突き出た台地の先端に築かれていて、このお堀によって分断&独立しています。三重の土塁と空堀によって厳重な防御となっているこの三重堀は、かつてのお城の姿を最もよく伝えています。 ということで、このあたりで小山城の説明をさせていただきます。
城の起源は不明なのですけど、今川氏によって築かれた山崎の砦がもとになったとされています。その後、永禄11年(1568年)に武田信玄は、徳川家康との「大井川以西(の遠江)には攻め入らない」という紳士協定を破って侵攻し、今川氏真を討って山崎の砦を攻略してしまいました。 元亀元年(1570年)には、一時家康に奪回されたのですけど、その翌年に信玄は2万5千の大群を率いて再攻略。その際に、これまで小さな砦だったのを本格的な城郭に大改築し、名前も小山城と改めました。

しかし、信玄の子の勝頼の代の天正9年(1581年)に、遠江の軍事拠点となっていた高天神城が徳川方に下ると、武田勢は遠江から追われていきました。その翌年の天正10年、敗北を悟った武田方は自ら城に火をかけて甲州へ落ちていき、小山城は廃城となりました。
その三重堀のところには勘助井戸というのがあるのですけど、武田方が小山城から退く際に、城兵の家族の女子供が足手まといになることを恐れ、自らその中に身を投じたという悲しい伝説があります。 さらに、その霊たちは口の赤い蛭へ姿を変えたと云われています。蘇鉄が泣いたり、口の赤い蛭が出たり、………と、このお城は曰く付きでもあるのですよね。



そして、話と風景は現在に戻ります。 先ほどの三重堀を突破したら、今度は整備された三日月堀に行き当たりました。こちらは二の丸の入口に設けられた防御施設で、土塁と組み合わせて馬出しを形成していて、攻め入ろうとしてもまっすぐに入れない構造となっています。 三日月堀や馬出しは、武田氏が築いた城に多く見られるのですよ。



その近くを歩いていったら、何か見えてきましたね。 そうしたら、さらに迫ってみます



こちらは、昭和62年(1987年)二の丸跡に建てられた、模擬天守にございます。小山城にはもともとこのような建物はなかったのですけど、城跡が能満寺公園として整備された際に、展望台として設けられました。 国宝の犬山城をモデルにしたそうですけど、言われてみれば似てないこともないですね。 ちなみに入場料は200円です。そこに上れば、吉田町の全域はもちろんのこと、大井川の向こうに富士山を臨むこともできます。 しかし、私たちが着いた頃には入場受け付け時間(16時、見学は16時30分まで)を過ぎていたので、今回は外観を眺めるだけとなりました。



せっかくなので、波ちゃも写真にお入りなさい。 ちなみに、背景の橋が架かっているところは、本丸と二の丸を分断している堀切です。小山城の模擬天守は鉄筋コンクリート製(RC構造)で史実とは関係がなく、小ぢんまりとしているのですけど、遠くからでもその姿を見ることができ、築30年以上も経ったこともあって、インパクトもありありです。 もちろん、私はこの建物に対しては、肯定派ですよ。
吉田町といえば、吉田公園と鰻も有名ですけど、私はまだそれらを堪能したことがありません。なので、次にこちらに来る機会があったら、それらの実体験レポートができるようにする所存にございます。


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