波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

愛犬と訪れる丸岡城(越前訪問その1)

2021-11-10 02:02:40 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

話が前後しますけど、岡崎の犬市場から1週間ほど前の、10月16日の土曜日の夜にまで遡らせていただきます。 その日の22時頃に、私はを伴って自宅を出発しました。 夜立ちという手段から、遠征のニオイがする……… というよりは、すでに今回の日記のタイトルに向かう方向が出ていましたね。 はい、太平洋側の地元から、日本海方面を目指しております。私たちは東名高速道路から東海環状自動車道に入っていき………

まずは鞍ケ池PA(パーキングエリア)で一息つきました。 そのPAは鞍ケ池公園の近くの高台にあり………

そこからは、豊田市街を見渡すことができます。 夜景もいい感じですね。 さらに私たちは高速道路を進んでいき、美濃IC(インターチェンジ)から一般道に降り、長良川に沿って北上していきました。

そして、翌日の2時頃には郡上市の道の駅清流の里しろとりに到着しました。 画像は夜が明けたあとの様子ですけど、私たちはそこでお得意の(?)車中泊をしました。

全国的に雨予報だった翌17日の日曜日の朝は、そのあたりは小雨が降ったりやんだりしていました。 そのような中で、波と狛を道の駅周辺で散歩させて………

ブラッシングなどいつものお世話をしてから、朝のご飯を食べさせました。 後ろの「モーニング」の看板が気になるのですけど、この日は朝早くから行動しなければならなくて、お店が開くまでは待ちきれないので………

私のぶんの朝食は、近くのコンビニで調達してきました。 このような場所でいただくモーニングもいいですね。 私たちは7時前に道の駅を出発し、再び降りだした雨の中、油坂峠を越えて福井県に入っていきました。

7時半頃には、次のチェックポイントとなる道の駅九頭竜に到着。 その頃には、雨はあがっていました。 こちらには越美北線の終点の駅やコンビニが複合されているのですけど、動く恐竜が名物となっています。 波は4年前に訪れたことがあるので、今度は狛の反応を見てみたい ………と思ったのですけど、まだ早い時間だったので恐竜たちは寝て(稼働前)いました。 気を取り直して、私たちはさらにその先に進んでいき、大野市から勝山市を経て、坂井市へと入っていきました。 そして、この日最初の目的地となる………

丸岡城に到着しました 波と狛の視線の先には、天守が見えていますね。今からそこを目指しますよ

天守のある山上の本丸跡に至る階段の脇には、このような灯籠が並んでいました。 丸岡城といえば………

徳川家康の重臣の本多作左衛門重次が陣中から、嫡男仙千代の母に宛てて「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という内容だけの短い手紙を送ったことから、日本一短い手紙で地域の活性化を図っています。 仙千代はのちに丸岡城の城主となった人物です。
私たちはそのまま天守に肉薄するのかと思いきや………

もったいぶって、先程の反対側となるお城のビュースポットのほうに行ってしまいました。 この日、こちらの広場では骨董市やフリーマーケットなどの露店が出ていました。

前置きが長くなってしまいましたけど、ようやく波と狛を本丸跡の天守の前に連れてくることができました。 このあたりで、このお城について説明させていただきます。
丸岡城は天正4年(1576年)に、柴田勝家の甥の勝豊によって築かれました。 以降は城主が入れ代わったりしたのですけど、本多成重(仙千代)のときに丸岡藩が成立しました。明治以降はお城を囲む堀が埋められたり建物が撤去されたりしたのですけど、天守は残されました。

その天守は現存するものとしては最古とされ、昭和9年(1934年)に旧国宝に指定されました。 ところが、昭和23(1948年)年に起こった福井大震災によって土台の天守台ごと倒壊。 のちに8割ほどの再利用できる部材を使って修復再建されたのですけど、指定は国の重要文化財となりました。
しかも最近の調査によって、天守は江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に建造されたと推測されました。

その入口に繋がる石段の下には、この地方原産の笏谷石で作られた鯱ほこが置かれています。 丸岡城の天守は昭和初期に修理がおこなわれたのですけど、本来の木の型に銅板を張った鯱が金属不足で製造が困難だったこともあって、瓦と同じ材料の石を使ったのでした。 それにしても、かなり重そうですね。 しかし、その石製鯱を乗せた天守は先の福井大震災で崩れ落ちてしまいました。のちにその鯱ほこを拾って、この場所に据えたのですよね。 ちなみに現在の天守には、木の型+銅板の鯱ほこが乗っています。
そうしたら、波と狛には車の中に待機していてもらって、私は天守の内部を見学することにしましょう

その頃には、雲が切れて青空が広がっていましたよ。 丸岡城の天守は、外観2層で内部は3階。望楼型という古式の構造で、1層の大入母屋の屋根の上に2層目から上を乗せたような姿をしています。 さらに、白木の板の壁で覆われているうえに………

屋根は、寒冷地で土の瓦は凍結したら割れてしまうこともあって、代わりに笏谷石を瓦型に彫った石製瓦が葺かれているのですよ。

といったトコで、1階から廻ります。 こちらは柱が並んではいるのですけど、部屋の仕切りのようなものはなく、一間となっています。

そこから上の階に行くには、現存する天守のなかでは私が日本一と認めた急角度の階段を登らなければなりません。 あまりに急過ぎて、上からロープが渡されていますし。 以前訪れたときには、私は手放しでこの階段を登っていったのですけど、今回は歳の影響もあって、自分が思っている以上に体力が落ちているかも。 もしブチ堕ちたらまわりに迷惑がかかる……… 子供が見ていたらトラウマになる恐れがありますし、波と狛ともども帰れなくなりますし……… ということが頭をよぎったので、手すりを掴んで登っていきました。
2階は、四方に配された破風の裏側は小さな部屋となっているのですけど、やはり先程と同じような急階段が渡されています。

最上階となる3階は開放的で、そこからは………

福井平野やまわりの山々を見渡すことができます。 その外側は回廊のようになっているのですけど、飾りのようなものなので、くれぐれも歩いてまわったりしないでくださいませ。

あと、丸岡城には人柱伝説もあります。 柴田勝豊が築城していた際に、天守台の石垣を積んでもすぐに崩れてしまい、なかなか工事が進みませんでした。 そこで人柱を立てることにしたら、お静という隻眼(片目)の女性が「息子を武士に採り立ててくれたら」という条件付きで名乗りを挙げました。 人柱は人身御供みたいなもので、生き埋めになるというのですよ。 そんなお静の犠牲もあって、工事は無事に完了。 しかし、間もなくして勝豊が国替えとなったこともあって、彼女の願いは叶えられませんでした。

お静の霊はこれを恨んで、お城のお堀で年に一度の藻刈りをやる卯月(4月)に大雨を降らすように。 人はこれを「お静の涙雨」と呼び、彼女の霊を慰めるために小さなお墓を建てました。波と狛がお参りしているのは、お城の本丸跡にあるお静の慰霊碑です。

丸岡城は小さいながらもいろんな意味でインパクトありありで、つい長々と語ってしまいました。 そんなお城に波と狛を連れて行く夢が叶って、本当によかったです。 さらに今回は、お昼にローカルチェーン店のラーメンを食べて締めるつもりだったのですけど……… ラーメンだけにこれ以上1回ぶんのレポートを伸ばしてはいけないので、次回はそいつの実食レポートから入らせていただきます。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「ラーメンと言っちゃったから、ヨーロッパ軒のソースカツ丼じゃないのか………」と、少し惜しまれている方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする