波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

湖北五山巡りは、浜納豆のお寺から(湖北五山その1)

2018-01-31 00:56:24 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
まだ寒い日が続いていますけど、皆さんは風邪やインフルエンザなどお召しになったりしていないでしょうか? お出かけには厳しい時季ではあるのですけど、日が当たっている日中はそこそこ温かいです。 そんな晴れた冬の休日の1月14日に、私はを連れて近場の名所旧跡を巡ってみることにしました。 気になるその目的地は………



今回はお城はヌキの、湖北五山とその周辺にございます。 ここでいう湖北とは奥浜名湖のことで、その地域には5つの名刹のお寺が点在しています。その中には、「おんな城主 直虎」ですっかり有名となった井伊谷の龍潭寺や、奥山氏ゆかりの方広寺も含まれています。 その他のお寺は、失礼ながら知名度があまり高くなくてついついスルーしてしまうのですけど、国指定重要文化財の仏像や宝物、見応え充分の建物や庭園などを備えているのですよ そういう私も近くに住んでいながらも、実は5つのうち3つしか行ったことがありませんでした。
………というワケで、今回は湖北の向かって右(西側)から順にクリアしていくことにします。



まず私たちがやって来たのは、大福寺にございます。 その参道の入口となる道路端には、朱塗りの仁王門が聳え立っていて………



さらにその両内側には、鎌倉時代に造られた金剛力士像が睨みをきかせています。ちなみに2体の像は、静岡県指定文化財となっております。 お寺の主要部はここからかなり奥まったところにあるのですけど………



その間を、新東名高速道路が横切っているのですよ。 さらに北に向かって歩いて……… いや正確には、私たちはお寺の駐車場までは車に乗って行きました、はい。



突き当たりには、こちらも朱塗りの本堂があります。 屋根は緑青の銅瓦葺きで、ご本尊の阿弥陀如来像(県指定文化財)が安置されています。背後の山には近代的な構造物は一切なく、いい感じの借景となっていますね。 その本堂をよく見てみたら………



カラフルに装飾された像が この表情が、強烈ですね。 その他にも、竜や鳥(雀?)などのお仲間もいました。
このお寺は、貞観17年(875年)に富幕山に開創した、幡教寺が発祥とされています。 承元元年(1207年)に現在地に移され、伽藍が整えられ、名前も大福寺と改められました。
今回私は入らなかったのですけど、有料ゾーンの庭園は、室町時代に造られた観賞式回遊式庭園で、こちらは県指定名勝。 宝物館には、金銅装笈紙本墨書瑠璃山年録残篇絹本著色普賢十羅刹女像といった国指定重要文化財が保存されています。



大福寺といえば、大福寺納豆が有名ですよね 中国の明朝から伝わった唐納豆が起源で、このお寺で作られたものは、足利義勝、今川義元、豊臣秀吉、徳川家康などに献上されました。
納豆とはいっても糸は引かず、室町時代から伝わる独自の納豆菌、塩、山椒の中皮などで味付けされていて、ご飯やお茶漬けにも合い、酒のつまみにもなります。 徳川家康は「浜名納豆」と名付けたのですけど、今では「浜納豆」の名前で知れ渡っています。



あとこの地域には、三ヶ日町立西小学校大福寺分校があったのですけど、平成11年(1999年)の春に閉校し、その校舎は現在、みかんの里資料館として活用されています。
大福寺レポートは以上で終わりなので、次に移らせていただきます。 そこからは程近く、車で走ること5分ほどで………



立派な城門のような山門を備えた、摩訶耶(まかや)寺にたどり着きました。 これは、お城特有の高麗門の形式ですね。それもそのハズ、こちらの門は延宝8年(1681年)にこの地方の領主が、浜名湖畔にあった野地城の城門を移築したものだそうです。



その山門を入って左手には、岩場に囲まれた滝があり………



さらにその手前には多数の石仏が並んでいて、霊場の雰囲気がありありです。



そして、そのまた右手には、本堂が聳え立っています。 現在の本堂は、寛永9年 (1632年)に建造されました。入母屋造り5間4面で、総ケヤキの巨財をもって造作されていて、格天井には法橋関中の筆になる極彩色の花鳥が配されています。



さらに、大福寺の本堂と同じポジションにはやはり象の像がいるのですけど、こちらのものには彩飾はされていません。 その代わり彫りはより凝っていて、「象をここまで高められるのか!」と思わず感心してしまう程です。
せっかくなので、ここからは有料ゾーン(400円)に入っていくことにします。 私が訪れたときはほとんど貸切り状態で、お寺の方が親切丁寧に説明と案内をしてくださいました。

摩訶耶寺は、奈良時代の神亀3年(726年)に行基によって富幕山に開創された新達寺が発祥とされています。その後、平安時代末期に一条天皇の勅願により現在地に移されました。しかし、元亀3年(1572年)頃に武田信玄軍の兵火によって、堂宇は焼失してしまいました。
江戸時代初期に、この地方を治めていた近藤用行によって再建されたのが、今日見られる本堂であります。 お寺の方によると、本堂の建物は保存状態が良く、ほとんど手を加えられないまま、伝わっているそうです。それよりも「近藤………用?、なんか聞いたことのあるような名前だな」と思われたそこのアナタは、鋭いです



彼は「おんな城主 直虎」で井伊谷三人衆の中でもインパクトありありだった、近藤康用の3代後の子孫なのですよ。



その用行公と夫人のお墓(供養塔)は、本堂の前に移設・整備されています。



それから、撮影禁止ゾーンの保存庫には、平安時代末期に作られた千手観音像不動明王像(ともに国指定重要文化財)、それと阿弥陀如来像(県指定重要文化財)が、安置されています。 それらの像の額には翡翠(ひすい)がはめ込まれ、さらによく見てみると表面には金箔が施された跡を確認することができます。 いずれも、仏像マニアにはオススメの逸品であります。
………と、ここまで紹介しただけでも摩訶耶寺は見どころ満載なのですけど、あともう1つ、お寺を代表するほどの最大の魅せ場が残っているのですよ ということで、皆さんも靴を履いて私に付いてきてくださいませ。 再び屋外に出ていくと、もぎり所はないのですけど、こちらもまた有料ゾーンに含まれる一角があります。そこには………



平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて造成された、池を中心とした回遊式の庭園があるのですよ ただし、訪れたのがこのような時季なので、池の水が凍っていますけど。 これもまたお寺の方の説明によると、近年までこちらの庭園は荒れ果てていて、池は枯れ、築山は雑木林に覆われていたそうです。それがこれほどまで見事に復活して、さらに維持管理の大変さも思うと、ありがたみはより増します。



それから、見る角度によって表情が変わるのが、回遊式庭園の魅力でもあります。 それだけではなく、訪れる季節によっても変わっていくので、何度でも楽しめそうですね。

写真やガイドブックなどでその存在を知っていながらも、私が今回初めて訪れた摩訶耶寺。そこにはいろんな意味でお宝が溢れていて、期待していた以上に満足することができました。 もちろん、大福寺も行ってソンはないですよ 今回は2ヶ所の訪問で一旦締めさせていただき、次回はさらに東に進んでいくので、そちらのほうにも是非ともお付き合いくださいませ。


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コメント (2)
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