昨日は黒門小学校の級友たちと、千駄木駅前の級友の奥さん所有の建物の2階に午後2時に集まり、時間が経つのも忘れて8時近くまで、今まで聞いたこともないことや、現況の日本や海外での状況について、それぞれが普段考えていることを、素直に話し合いました。
この千駄木の隠れ家の建物は、級友の奥さんが旧持ち主のご婦人のお世話をする内に、身寄りがなかったためにご婦人から相続を受けたもので、級友と共に私たちに接して頂いている姿を見れば、さもありなんと思える心温かい方です。
現在でも大学に通い研究を続けている小駒くんは、学生たちと接していたり、企業の方々への講演を今でも開いているせいか、若々しい雰囲気を持っておられます。 実家は着物のお店を開いていて、戦火にあう寸前に叔父の勧めで着物共々に避難し、その後に大きな利益をもたらしたと話してくれました。
更に自分は博士課程の時に、国会図書館勤めの奥さんと結婚し、経済的な支えをしてもらったとのこと。 またその奥さんが3年ぐらい前にc型肝炎に罹患した時に、米国で臨床実験中であった新薬を服用したら、2週間で治ってしまったと云うことを、話してくれました。
2年間フランス留学中に感じたことは、旧植民地であった北アフリカ等からの学生が多かったものの、卒業してもフランスで就職することが出来ず、その様な不満がテロに繋がる可能性があったのではないかと云います。
実家が家具を作っていた松田くんは、小学校6年の3学期は肺炎で休み、卒業写真にも自分の顔が写ってないと云いながら、学生時代に九州の長崎のケーブルカーのところで、地元の方から写真を撮って頂けませんかと声をかけられたことから、遠距離での付き合いが始まるものの、その方が地元での結婚式の前日に、松田くんのところへ来てしまい、本人の卒業式の翌日に結婚をしたと云うのです。
もともと旅行が好きで60歳になったのを機会に、日本全国の鉄道の踏破をしようと決意して、北海道はほぼ達成し、JR線だけでなく私鉄線も隈なく行き、その過程で福島と沖縄について、何とか出来ないものだろうかと、日々考えているとのこと。
また全国つず浦々旅行しているせいか、話の過程で地名が出て来ると、どんなところでも問題になっていることを、話しされるのでびっくりします。 由緒ある地名が無くなっていることを怒り、私たちの小学校の黒門町等の地名が、上野何丁目などと変わったしまったことにも、怒り心頭でした。
実家がお寿司屋さんであった慶応ボーイの山崎くんは、南アフリカの果物の輸入会社に勤めておりましたが、英語が出来ると云うことで、現在は級友の所有する外国人向けの短期入所の住居の入退出時の、お世話を週2日間行いながら、テニスにゴルフにと忙しい日々を送っています。 勿論、飲酒込みの会食は入っております。
山崎くんのお蔭で、私たちの小学校のクラス会も続いている様な感じがします。 みんなのお世話を厭わず、積極的にみんなが集まれる様に動いてくれます。 定期的に抗がん剤の点滴を受けながらも、何時も明るく振る舞います。 黒門小学校から慶応大学まで、満遍なく歳の差も関係なくお付き合いがあり、下町のご隠居さん以上の存在です。
私の記憶違いがあったらしく、3年次の米田健治先生は、チョークが飛んで来ただけで、ゲンコツやピンタはなかったと云うことでした。 然るに4年から6年まで習った柿沼正悦先生は、頭の上からのゲンコツがあり、おでこに指でピンがあったと、それぞれの体験談でした。
楽しいひと時を過ごさせて頂きました。
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