地震への対し方・再び・・・・「耐震」は本当に可能なのか

2007-07-30 04:11:18 | 地震への対し方:対震

[サブタイトル追加:7月30日9.43AM]

 先に、応急危険度判定のために茨城から柏崎へ行かれた方の撮影した「屋根がずれて跳び出した土蔵」を紹介した(7月26日)。

 同氏は、茨城県建築士会HPに、柏崎で見た「現実」に対して「感想」を書き込まれている。同感なので、そのままコピーする。

 ・・・・
 人間は自然に逆らい、人間に都合の良いものを作り続けて来た。
 自然(地球)に抵抗するのではなく、協調、調和をすることを
 考えなくてはならないのではないか。

 自然にとっては、ここのところの各地の地震は
 蚊の刺した程度かもしれません。
 警笛をならしてるのか・・・

 今回の法改正で建築士に対し、かなり厳しいものとなった。
 その場しのぎの、取り繕いの法律にならなければよいが・・・

 しかし、自然はもっと恐ろしい罰則を用意しているかもしれない。


 氏は、柏崎中心部で、上掲の事例を目撃している。コンクリートブロック造の平屋建て車庫のようだ。床は無筋のコンクリートと思われる。
 両側の壁部分が沈下、土間は逆に盛り上がっている。

 この事態を防止することができるだろうか。
 たとえば、土間をRCにする、あるいはベタ基礎の一部と考えて設計・施工する。これで、このような状態になることを防げるか?
 建物全体は形状を維持することができたとしても、傾くだろう。その復原は大ごと。

 そうだとすると、残るは、杭を打つしかない。建築法令もそのように規定している。しかし、柏崎一帯の砂質層の厚さは5~6kmあるという。関東平野の比ではないそうだ。だから、杭を打つと言っても、摩擦杭にするしかない。それが砂質地盤の波打つ揺れに堪えられるという保証はない。多分、気休めにすぎまい。

 では、どうしたらよいのだろうか。
 こんな悪い地盤の場所には建物はつくらない、これが最高の策。しかし、それでは暮すことができなくなる。
 多分、「いかなる地震にも耐える建物をつくろうという考え」、つまり、「耐震建築をつくろうという考え」、を捨てるしかないのではなかろうか。
 柏崎刈羽原発の設計は、通常の建物の数倍に相当する「耐震基準」の下で成されたと言う。そして、今回は、その想定されていた「基準」を越える揺れだった、つまり「想定外」だったという「弁明」がなされている。

 しかし、考えて見るまでもなく、この「基準」は、言葉の正当な意味での「基準」ではなく、あくまでも「仮定」にすぎない。
 もっと言えば、「多分、起きてもこの程度の地震だろう」という程度のもの。それをもっともらしく言うことで、あたかも「絶対的な基準」であるかのフリをしてきたにすぎない。
 考えてみれば、一般の建物に関する「基準」もまた、この程度のもの。だから、僅か半世紀の間に、何度も「基準」が変ってきた。

 こういうのを「基準」と言うのか?「変るのは、科学・技術の進歩だ」と言うのか?
 このような「基準」にしたがって設計するのが「耐震設計」、という考え方自体が、すでに「科学的:scientific」ではない。むしろ、単なる気休め、あるいは思い過ごしと言ってよいのではないか。

 では、何が残るか。
 このような地震に際して波打つ地盤では、しかもどんな波になるか分らないところでは、分ってから考える、あるいは分ったと思い込んで考える方策から脱するしかない。ことによると、船の設計が役に立つのかもしれない。しかし、多分、重量の重い船は不適のはず。たしか、RCの船はないはずだ。

 では、たとえば、現在の法令が推奨する木造建築を、海に浮かべたらどうなるか?多分、少しの荒波で、あるいは並みの波で、バラバラになるだろう。
 では、昔ながらのつくりの木造建築ならどうなるか。全体の形状を維持したまま、つまりバラバラになることなく、波間を漂うはずだ。
 そしておそらく、かつての工人たちの考えたことは、動きに耐えよう、堪えよう、ではなく、動きに任せよう、ではなかったか。
 だからこそ、動きによって屋根瓦や壁が落ちても、骨格を成す部分、つまり木造軸組が形状を維持すればよいのだ、という考えでものをつくったのではあるまいか。
 
 絶対的に「自然」に対抗しよう、などというおこがましい考え方から、もう脱してはいかがなものか。

 柏崎刈羽原発の停止による電力不足で、あらためて省エネが言われている。出てくる策は姑息なものだけ。そういう省エネを言う前に、一番電気を喰う「都市」のあり方をなぜ考えないのだろう?それは、つまるところ、都会の消費する電力のための発電施設を、何故、遠く離れた日本海につくるのか、その問題に行き着くはず。「経済合理主義」から言えば、きわめて非合理ではないか。

 もっと、「問題」を「根源的」に考えたい。「根源的」、これを英語では“radical”と言う。根源的に考えると、とかく、世の「常識」からは「過激」に見える。それゆえ、通常、radical=過激、と訳される。しかしそれは間違い。
コメント (1)
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