昨日、「龍吟庵・方丈」は、
軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている。
さらに
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められている・・・つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められている・・。
以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功している・・。
と書きました。
実は、その続きがあったのですが、その段階で、字数が1万字を越えてしまい、これ以上書き込み不可ということになってしまいました。
いささか尻切れ状態で終わっているのは、そのためです。
そこで書けなかったこと、書きたかったこと、は次のようなことでした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
工人たちが、このような一体化した立体を考えることができたのは、彼らが常に「全体」を頭に描くことができたからだ、と言えるでしょう。
つまり、工人たちが部材を刻むとき、すでに「全体」「全容」が頭の中に描かれている、ということです。
彼らは仕事のために、「絵」を描きます。それはいろいろな形をとるようです。しかしそれはいずれも、彼らが頭に描いた「全体」を示すためのもののはずです。そのときすでに、その「全体」が、どのような「立体」なのか、理解されているのです。
国立歴史民俗博物館から「古図にみる日本の建築」という書物が刊行されています。1987年に同館で開かれた同名の企画展の「図録」です。
その冒頭に、古代に於いて、そのような仕事のための図が描かれるとともに、1/10程度の模型をつくったらしい、と記されています。要は、頭に描いたことを模型にしてみて、事前に確認をしたらしい。
その一つ、奈良の元興寺に保存されている1/10の「元興寺五重小塔」(国宝、私は見たことはありません)は、当時、他の寺で五重塔をつくるときの参考にもされたらしい、とのこと。もちろん外形の模型ではなく、組み方までつくってある。
現在の「清水寺」の造営にあたっても、1/10の模型がつくられています。
大事なことは、かつて、工人たちは、常に、「全体の立体」を頭に描くことから仕事を始めている、という事実です。「模型」を事前につくる、ということも、「頭に描いたこと」の確認のための作業の一環。
当然ですが、その模型は、現在の設計でつくられる「プレゼンテーションのための模型」ではない。
描かれる図も、「プレゼンテーションのための恰好いい絵」ではありません。
そうではなく、
どのような「立体」ならば自立できるか、各部材をどのように組めば「一体の立体」になるか、それを見通した上での「全体像」を描き、それを何らかの図で示し、そして模型でも確認したのです。
彼らにとって、「部分」は、あくまでも「全体」の部分、「全体」あっての「部分」なのです。
たとえば、「龍吟庵・方丈」も、「全体」が見えていなければ、つくれなかったはずです。
彼らが描く図やつくる模型は、そのままで「現場」の使用に耐えた。
現在のように、別途「施工図」を描く、などというムダは必要としなかった。
なぜなら、彼らは「現場」の人だから「現場」の使用に耐えることをしたのです。
さて、ここまで書いたなかで、特には触れてこなかったことがあります。
それは、「一体に組まれた立体」は、「掘立て」から「礎石建て」に移行して以来、常に、「礎石の上に置かれただけ」だった、という「事実」です。
「礎石建て」になってから、すでに1000年はおろかそれをはるかに越える時間が過ぎています。
しかしその間、「一体に組まれた立体」を「礎石の上に置くだけ」ということには、何の変りがありません。
もしも、その方法に支障があったのならば、「掘立て」が「礎石建て」に移行したように、とっくの昔に、その方法は変更されて当然です。しかしながら、そのようなことは「気配」さえ窺われない。
ということは、
置かれる建屋が「一体に組まれた立体」であるならば、何ら問題がない、
ということの「実証」にほかなりません。
事実、現在遺されている事例がそれを証明しています。
「一体に組まれた立体」でない場合には、問題が生じる、
そして、そういう「体験」を経て、工人たちは、より一層
「一体に組まれた立体とすることが重要である」ことに気付く。
そして、技術・工法はより確実な方向へと進んでゆく、
これが技術の歴史の「なかみ」である、と私は考えています。
こういう「知見」は、数式や実験室の実験では得られないのです。
けれども、このような「歴史的事実」が存在している、「歴史的に実証されている」にもかかわらず、「事実」が認められない、「事実」を認めようとしない、のが現実です。「実験」しなけりゃ分らない・・・らしい!
かつての工人たちの「現場」での仕事、それが現在まで長期にわたり健在である、こんな見事で過酷な「実験」が他にありますか?
なぜ「歴史的事実」を見ようとしないのか、そのわけの「論理的な説明の開示」を求めたい、と思います(私の知る限り、みたこと、きいたことがまったくありません)。
ある人が、現在の「木造建築の権威」とされる方に、
なぜ昔の建物は、基礎に「緊結」しなかったのですか、という質問をした。
答は、昔は金物が高価だったからだ、というものだった、
という話をききました。まさか、とは思いますが・・・!?
軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている。
さらに
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められている・・・つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められている・・。
以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功している・・。
と書きました。
実は、その続きがあったのですが、その段階で、字数が1万字を越えてしまい、これ以上書き込み不可ということになってしまいました。
いささか尻切れ状態で終わっているのは、そのためです。
そこで書けなかったこと、書きたかったこと、は次のようなことでした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
工人たちが、このような一体化した立体を考えることができたのは、彼らが常に「全体」を頭に描くことができたからだ、と言えるでしょう。
つまり、工人たちが部材を刻むとき、すでに「全体」「全容」が頭の中に描かれている、ということです。
彼らは仕事のために、「絵」を描きます。それはいろいろな形をとるようです。しかしそれはいずれも、彼らが頭に描いた「全体」を示すためのもののはずです。そのときすでに、その「全体」が、どのような「立体」なのか、理解されているのです。
国立歴史民俗博物館から「古図にみる日本の建築」という書物が刊行されています。1987年に同館で開かれた同名の企画展の「図録」です。
その冒頭に、古代に於いて、そのような仕事のための図が描かれるとともに、1/10程度の模型をつくったらしい、と記されています。要は、頭に描いたことを模型にしてみて、事前に確認をしたらしい。
その一つ、奈良の元興寺に保存されている1/10の「元興寺五重小塔」(国宝、私は見たことはありません)は、当時、他の寺で五重塔をつくるときの参考にもされたらしい、とのこと。もちろん外形の模型ではなく、組み方までつくってある。
現在の「清水寺」の造営にあたっても、1/10の模型がつくられています。
大事なことは、かつて、工人たちは、常に、「全体の立体」を頭に描くことから仕事を始めている、という事実です。「模型」を事前につくる、ということも、「頭に描いたこと」の確認のための作業の一環。
当然ですが、その模型は、現在の設計でつくられる「プレゼンテーションのための模型」ではない。
描かれる図も、「プレゼンテーションのための恰好いい絵」ではありません。
そうではなく、
どのような「立体」ならば自立できるか、各部材をどのように組めば「一体の立体」になるか、それを見通した上での「全体像」を描き、それを何らかの図で示し、そして模型でも確認したのです。
彼らにとって、「部分」は、あくまでも「全体」の部分、「全体」あっての「部分」なのです。
たとえば、「龍吟庵・方丈」も、「全体」が見えていなければ、つくれなかったはずです。
彼らが描く図やつくる模型は、そのままで「現場」の使用に耐えた。
現在のように、別途「施工図」を描く、などというムダは必要としなかった。
なぜなら、彼らは「現場」の人だから「現場」の使用に耐えることをしたのです。
さて、ここまで書いたなかで、特には触れてこなかったことがあります。
それは、「一体に組まれた立体」は、「掘立て」から「礎石建て」に移行して以来、常に、「礎石の上に置かれただけ」だった、という「事実」です。
「礎石建て」になってから、すでに1000年はおろかそれをはるかに越える時間が過ぎています。
しかしその間、「一体に組まれた立体」を「礎石の上に置くだけ」ということには、何の変りがありません。
もしも、その方法に支障があったのならば、「掘立て」が「礎石建て」に移行したように、とっくの昔に、その方法は変更されて当然です。しかしながら、そのようなことは「気配」さえ窺われない。
ということは、
置かれる建屋が「一体に組まれた立体」であるならば、何ら問題がない、
ということの「実証」にほかなりません。
事実、現在遺されている事例がそれを証明しています。
「一体に組まれた立体」でない場合には、問題が生じる、
そして、そういう「体験」を経て、工人たちは、より一層
「一体に組まれた立体とすることが重要である」ことに気付く。
そして、技術・工法はより確実な方向へと進んでゆく、
これが技術の歴史の「なかみ」である、と私は考えています。
こういう「知見」は、数式や実験室の実験では得られないのです。
けれども、このような「歴史的事実」が存在している、「歴史的に実証されている」にもかかわらず、「事実」が認められない、「事実」を認めようとしない、のが現実です。「実験」しなけりゃ分らない・・・らしい!
かつての工人たちの「現場」での仕事、それが現在まで長期にわたり健在である、こんな見事で過酷な「実験」が他にありますか?
なぜ「歴史的事実」を見ようとしないのか、そのわけの「論理的な説明の開示」を求めたい、と思います(私の知る限り、みたこと、きいたことがまったくありません)。
ある人が、現在の「木造建築の権威」とされる方に、
なぜ昔の建物は、基礎に「緊結」しなかったのですか、という質問をした。
答は、昔は金物が高価だったからだ、というものだった、
という話をききました。まさか、とは思いますが・・・!?
それぞれの見解には、一致するところも、ずれるところもあるでしょう。
それが当たり前です。
そんななかから、一つの筋道が見えてくる、そういうことなのだ、と私は思っています。
その見解を持つために一番なのは、自分の眼でものを観ることだと思います。
若いときに、いろいろな建物を、自分の眼で(カメラと案内書なしで)観るのがいいと思います。
先程まで、時間が過ぎるのも忘れ、下山さんのブログのいろいろなところを閲覧していたのですが、建築の教科書では決して学べない、建築界のおかしさ・ひどさ(特に木造建築に関する事)についてを知る事が出来、私がいずれ社会に出てゆく上での教訓が得られました。
また、かつてこの日本に、優れた工人が数多くいた事を改めて認識させられました。
これからもこのブログを読み続け、さらなる教訓を得てゆきたいと思います。