「金物補強」と「歴史認識」

2007-11-16 10:07:56 | 論評
[追加・修正11月16日11.05]

2月20日に書いた「ホールダウン」金物の「解説」が、相変わらずよく読まれ、質問コメントも多い。

7月13日にも書いたが、ふたたび何故なのか、重複するところがあるけれども考えてみた。

おそらく、このブログを読んでくださっておられる方は、と言うより、現在建築に係っている方の大半が、戦後生まれの方なのではないだろうか。
つまり、身のまわりで見かける木造建物が、ほとんど全て、建築基準法の下の工法によるもの、という世代。
身のまわりにある、「筋かい」が入り、部材の接合部には金物を添えるのが「あたりまえの木造建築」、と考えてしまっても無理はない。これは特に、都会化した地域の方々に多いようだ。

だから、ホールダウン金物はもちろん、金物の使用一般について「批判的」な言に対して、「違和感」を覚える方がいてもおかしくない。確認審査に係る行政や民間機関の担当者の中にもそういう方が当然多数おられる。もちろん、一般の人びとも、木造の建物には筋かいが入って当然と思っている。それほどまでに、基準法仕様の工法:「耐力壁依存工法」は、僅か半世紀余りの間に、深く深く浸透してしまっているのである。

実は、こういう事態自体が問題なのだ。
日本の建物づくりの歴史に於いて、明治以降すすめられた「近代化」にともなう大きな「断絶」がある、すなわち、歴史に「不連続」あるいは「空白」があるという事実の認識が欠けてしまい、それどころか、その「断絶」「不連続」を正当化する動きさえあるからだ。[言い回し修正11月16日11.05]

これは建築の専門家を養成を旨とする教育においても歴然としており、「建築史」では、日本の建物づくりの歴史を技術的に見る視点を欠き、そして「近代化」に於いて何が起きたのか問うというまさに「歴史学」がしなければならないことが行われていない。
「建築構造」では、建築の歴史は明治から始まるかの如き様相を呈し、徹底して「過去」を捨て去る、つまり、明治以前の建物は「構造について無思慮である」「地震について無思慮である」かの態度で突き進んできた(この点については「在来工法はなぜ生まれたか」で既に触れた)。
「建築材料」では、木材の特徴と日本の伝統的な工法との関係については十分説かれていない。・・・

このように、歴史に「意図的な断絶、空白」を設けて平然としていられるという国は、世界でも珍しいと言わなければなるまい。[字句追加11月16日11.05]
そして、金物の使用についての批判に対して抱く「違和感」は、この認識の欠如から発していると見て間違いない。

しかし、幸いなことに、数の上では圧倒的に少なくなってはいるが、あまり都会化していない地域に暮す方々は、身のまわりで、「基準法以前の工法による建物」を今でも目にすることが多く、「基準法以前」、「基準法以後」のつくりの両様を「あたりまえ」に体感している。さらに言えば、なぜ基準法以前の工法がダメなのか疑問に思っているだろう。なぜなら、「通説」とは違い、それらの多くは、長い年月、環境の変化(地震や風雪・・)に堪えているからである。

茨城県内の講習会などで、いつも「椎名家」(5月22日に紹介した、現存する住居建築で東日本最古と言われる農家の建物、茨城県かすみがうら市にある)を知っているか、見たことがあるか、と問うことにしている。200人ほどの方の中で、行ったことのあるという方は、いつも1~2人。大部分はその存在さえ知らない。
では、最近話題になっている建物は、と言うと、1/3から半分の方は行ったり雑誌で見たりしている。
つまり、現在建築に係っている方々の多くは、「最近」・「最新」のものには関心を抱くが、「過去」のものには関心がない、見ても意味がない、と考えておられるようだ。
また、「欧米の建築見学」と「京都・奈良の古建築見学」という二つの企画を立てたら、どちらに人が集まるか。多分「欧米・・」だろう。

建築関係の雑誌でも、1950年代の「新建築」誌では、毎号、日本の建築史上知っておくべき建築を、見事な写真とともに紹介していた。時は戦後の復興期。足元を確認しよう、という企画だったのではないだろうか。
残念ながら、今はそういう雑誌はない。あるとすれば「観光」の対象としての扱い・・・。

   註 「観光」とは、本来sight seeingの意味ではない。
      「光」を「観る」こと。
      「光」とはその土地・地域の発している「光」。
      土地・地域を視察し、土地・地域について知ること。
      類似の語に、「観風」「聴風」がある。


今まわりに見かけるものだけが全てではない。そして、ものごとは今日始まったのではない。知識も技も・・・皆、長い年月に揉まれ継承されてきたものの延長上にあるのがあたりまえの姿。そして、それがなければ、決して「新しい」ものは生まれない。「革新」もない。「新しい」というのは、単に目新しいこと、差別化することでもない。

是非、身近にある「基準法以前」の建物を、有名、無名を問わず、過去のものとしてではなく観ていただきたいと思う。そこから得るものは、大げさに言えば無限である。

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