「『峠」 を越えられるか・・・・5W1Hの復権」  1982年1月

2019-04-01 09:45:02 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №10」1982年1月 A4版10頁   

       「峠」を越えられるか・・・・5W1Hの復権・・・・ 1982年度「筑波通信 №10」

 昨年の春以来、この三月に卒業してゆく学生の数人が協働して、鉄道の枕木を使った山小屋を実際に造っている。これが彼等の卒業設計なのだ(建築を学ぶ学生には、卒業論文の他に卒業設計が課せられるのである。しかし普通は設計図の提出であって実物を造ることはまずない)。なにしろ資金集めから木材を加工して組立てるまでの全般、そのほとんど全てを自分たちが中心になってやるのだから、これは教室できく下手な授業よりも数等ましてよい学習になったようだ。機会(これも彼等が見つけたのだが)に恵まれたからだとはいえ そしていろんな目にあったとはいえ、おそらくこれは、大学時代、というよりも青春の日の最も充実した体験として、今後彼等それぞれのなかに、必らずや何らかの形を成して残ってゆくのではなかろうか。

 この彼等の山小屋の現場は、今ごろはもう雪の中だ。

 中部地方の地図を開いてもらうとよいのだが、丁度信州の中央部、西に松本・北に上田、小諸・北東に佐久・南に諏訪そして少し離れて南東に甲府の町々があり、それらの町々がある平地・盆地にとり囲まれた形で一連の山塊がある。西から言えば、美ヶ原・霧ヶ峰・蓼科(たてしな)そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、言わずと知れた観光地の一帯である。そして、彼らの現場はこの蓼科の山中、大門峠という峠を少し北に下ったところ、標高1400mに近い地点にある。

                          「長野県の地名」平凡社より(図の挿入と青文字は投稿者によります。)

 いま名前を出した峠を含め、この山系には、先に記した町々、特にその山系の南と北に展開する町々を結ぶ山越えの道:峠が古来数多く開かれていたらしい。古代の近畿と東国を結ぶ主要国道:東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中仙道は諏訪から佐久へとまさにこの山中を縫っている(いまの国道142号はほぼその道すじに従っている)。だからこの山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠がならんでいたのである。その多さは一寸類を見ないほどだ。

 私は以前から、このいくつもの峠が横ならびしている場所に興味があった。何故にかくも多くの峠があるのか、そして何故にこんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからである。ここは高冷・寒冷の地なのだ。

 そしてまた、この山系のふもと、現在の町々があるところより一段上った斜面、ことに南側の、いま開拓地や別荘地として開発が進みつつある高原状の斜面一帯には、縄文期を中心とする住居跡・集落跡:遺跡群が、まさに所狭しとばかりに密集しており、これもまた私の興味をそそるものであった。どうしてこんなところにと、これも不思議でならなかったからである。

 藤森栄一という諏訪に生まれ諏訪を愛した民間の考古学者がいるが、彼の沢山の著書で、その辺のことについて私はいろいろと教えてもらい、一度は実際に歩いてみたいというのが、かねてからの思いであった。

 そして昨年の夏、学生たちの山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも、歩きまわることができ、貴重な体験を得ることができた(正確には乗りまわったのであるが)。そこで今回は、そのうちの「峠」について考えていることを書いてみたい。

 

 いま仮に、諏訪に住んでいる人が小諸・佐久あるいは上田や長野に行こうとする場合を考えてみよう。極く普通に行くとなると鉄道を使うことになるが、地図を見ればすぐ分るように、鉄道はこれらの山々をまいた形で走っているから、かなり時間をくい、地図上の直線距離は近くても、鉄道に頼るのに慣れている限り、はるか山の彼方の遠い町へ行く感じを持つはずである。ついでに言えば、いま鉄道は、中央地方中心都市とを結ぶには非常に便がよいけれども、地方の町々を結ぶことに関しては一時よりもかえって便が悪くなっているから、東京から長野に行くよりも諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また自動車で行くにしても、名の知れた主要な道(例えば、20号、18号、19号など)を使うと、それらは大体鉄道と並行しているから、これも時問がかかる。

 考えてみれば、鉄道も主要道も、それは地方の町々を結ぶというよりも、地方中央に結びつけることに意がはらわれるから、こういう山の向うとこちらをつなぐなどということは念頭になく、もし山を越えた町をつなぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの中央にとって都合がよいからだと言って言いすぎではあるまい。

 中央が近畿にあった古代にあって東山道は東国への近道だし、江戸期の中仙道も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし中央が東東だけになってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は抜かされ、山の両側にそれぞれ東京と長野、東京と松本をつなぐ鉄道が敷かれることになる。それは必らずしも山越えが技術的に難しかったからだけではないはずで、それは碓氷峠のこと(先進技術を導入して、あの峠を登りきっている)を考えてみれば明らかだろう。中仙道を全て鉄道化する必要を認めなかったのである。その結果、鉄道化からはずされたあの山越えの部分:諏訪から佐久までは忘れ去られる破目になり、山の向うとこちらという感じで見られるようになってしまったのだ。先に私は極く普通に行くとなるとという書きかたをしたけれども、この極く普通にというのは、だから、鉄道ができてから普通になったのであって、それ以前ならば、この山越えの方が普通だったに違いなく、おそらくそのときは、山の向うとこちらという感じはそれほどなく、両側はもっと密で近しい関係にあっただろう。

 しかし、いざ鉄道が開通したとなれば、速度も速く、輸送量も多く、第一疲れないで済む鉄道に、いかにそれが遠まわりであろうが、頼ることは必然で、結果は町々の関係も一変させてしまったのだ。だれもわざわざ山越えをして上田へ行こうなどとは思わなくなったのだ。人々は歩かなくなった。

 

 そしていま、皮肉なことに、人々の往来が少なくなって、人々の往来に拠っていたその町の生活が言わばその活動を停止し変化が止まった(というより変ることができなくなった)その道すじの町々が、伝統的街並と称されてもてはやされている。

 確かに、鉄道が敷かれてからさびれてしまった中仙道沿いの町々には、歩いてみていま栄えている町々にはない心なごむものがあるのは事実のようだ。しかし一方で、それらの街並をそのようにあらしめた主要道:中仙道が既にその役割を失ない、その意味では言わばもう死んでしまったものだというのも事実である。

 つまり、いまそれらの町々は、中仙道に拠らない生活を、中仙道に拠ってその昔造ってしまったつくりのなかで、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。考えてみれば直ちに分ることのはずなのだが、中仙道の華やかなりしころ、その町すじの家々は活気あふれ、ひんぱんに建て替えが行なわれていたにちがいない。そのとき彼等は、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるべきものは捨てる、つまり彼等の主体的な判断のもとでことにあたったはずである。それはすなわち、過去につくられた物そのものを、単に保ち続けるというような安易な営みでは決してなかったのだ。そして、そういう言わばダイナミックな人々の活動が、鉄道の敷設とともに突然の停止を迫まられ、言うなれば時間が停まってしまったときの姿、それがいまもてはやされている伝統的街並に他ならない。

 だから私には、いま行なわれている街並保存の動きがいま一つ納得できないでいる。

 一つには、そういった保存運動というのが大抵よそもの鉄道で訪れた:の発想であって、そこで生活している人たちのことが念頭にないからである。そこで生活する人たちに、時間を停めて生きろということに他ならないからである。いったいだれに、そんな僭越なことが許されているのか。そして一つには、そういった旧い物を保存することによって満足している、その安易な考えかたが気に入らないからである。

 なるほど確かにこういった心なごむ街並みがどんどん消えてゆく。心なごまない、むしろ逆なでされるようなものになってきている。それとの対比のなかで。旧きものによさを見出したからといって、ただそれらを物として保存すれば済むというものではない。まして、それらを保存すれば、それが現代のやりかた・やられかたへの免罪符になるわけでもない。こういう単純に、というか単細胞的に、よいものを残しておけばよいとする考えは、私には、まさにいまの町々街並を心なごまないものにしているつくりかた・その考えかたの裏返したもの、つまり構造が全く変りない同じ穴のむじなに見えてしまう。彼等には、彼等がよいと思う町々や街並の、その形成:生成のダイナミズムが全くもって見えないのだ。人びと:そこに生きた数代にわたる人々の、そのときどきの主体的な、自らの感性に拠る判断の積層のうちにそれらが成ったことが見えず、そのよさの因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま残ってしまった)目の前に在る物、その物の形:造形そのものに求めようとしているのだ。 

  いま書いてきたような場面について言えば、人間の歴史は、まさにつくりかえの歴史であると言ってよいだろう。だから、私たちが保存しなければならないのは、できあがった結果としての物そのものではない。そうではなく、その物をあらしめたつくりかえの論理:すなわちものづくりの論理、そしてそれを支えてきた感性の存在である。そしてまた、その存在を保証することである。そうでなければ、いま私たちがやることは、決してそのよき旧きもの以上のものには成り得まい。そしてまたそうでなければ、旧きよきものそのものを保存することは、いわゆる骨とう趣味と何ら変りないことになってしまうだろう。

 

 ここまで書いて、つい最近の経験を思いだした。ついでだから書いておこう。先月(12月)の初め、学生たちと桂離宮を見学した。それはいま修復中で、屋根のひわだぶきも新しくなって、それまでの見慣れた黒っぽいいわゆる古色とはまるっきり違って、建設当時はこうだったろうという色になっていた。それについてのある人たちの感想(デザイナーを自負する人たちなのだが)は、まわりとなじんでいなくてあの桂離宮のよさがなくなってしまった、元通りになるのにどれだけ時間がかかるだろう、というものであった。私に言わせれば、これが、この新しい色が元通りなのだ。いや木材もなにも新しい色をしていたとき、それが元通りなのだ。この山荘を実際使ったのはたかだか数十年だから、そのときこの建物は未だ古色にはなっていなかったはずだし、造った人も三百年以上だってのよさを思って造ったわけでもあるまい。そうだとすると、桂離宮がいいと言っている人は何を見て、何をもっていいと言っているのか、そのいいのなかみを疑いたくなった。いま自分が(勝手に)いいと思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思いこんでいる。だからここには誤まりが二重に積み重なっているのだ。

 そして、そうか、こういう見かたで、見かただけで教育が行なわれてきたのだな。これは大変なことだ、とあらためてことの重大さを気づかされたのである。

 碓か中学のころであったか、英語の時間に5 W1Hということを習った覚えがある。いつ(When)どこで(Where)だれが(Who)なにを(What)なぜ(Why)いかに(How)したか、これを問えば文意が通じるというようなことではなかったかと思う。なにも英語をもちだすまでもなく、人間のやることは、これらの問いで問いつめられる。そして、考えてみると、伝統的街並保存のはなしも、この桂離宮の例も、そこにはWhen、Where、Who、Whyの問いが欠落し、あるのはWhatとHowだけなのである。はたして、それだけの視点で人間のやることを語れるか、ものがつくれるか? 否である。否のはずである。少なくとも、旧きよき街並を実際に造ってきた人たちや桂離宮を造った人たちは、あたりまえなこととして、これらの問いの全てを備えていたはずなのだ。それを忘れてしまったのは、いまの私たちだけだ。それを忘れたからこそ、以前書いた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という発想が大手をふって歩きだすのである。

 旧きものも新しいものも、この全ての問いで問うとき、当然のこととして、その本当の姿、その存在の意味が見えてくるように思う。少なくとも私が旧きものに学ぶのは、必らずしもその形ではない。そうではなく、それらを造った人たちの5W1Hに対する身の処しかたなのだ。そして、もし保存しようとするならば、その身の処しかたをこそ保存しなければならないのだと私は思う。

 

 峠の道から大分はずれてしまったようである。山越えの道が、鉄道の開通とともに廃れてしまったという話をしていたのである。

 いま、この廃れた道が、再び装いを新にして復活してきている。専ら歩くしかなく鉄道に比べて全く分の悪かった峠越えの山道が、自動車の普及とともに見なおされてきたのである。

 そしていま、実際に車で走ってみて、山のこちらと向うが、驚くほど近いということをあらためて発見する。徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後培れた感覚:はるか山の向う側という感覚とは違って、やはり近しい間がらであったと考えざるを得ないのである。

 いま、これらの峠道は見ごとな舗装道路となっている。そしてその道すじは、ほとんど古来の道を踏襲しているらしい。

 それにつけても、こういう道すじを見つけだした先人たちの営為には驚くほかはない。なにしろ、私たちとは違い、彼等は正確な地形図など持ってはいなかった。現代の道路は、おそらくこの正確な地形図の上で考案されるのだろうが、彼等は違うのだ。だから、道のつけ方が根本的に異なると言ってよく、それは既に通信の2号で少し触れたとおりである。因みに、いま話題にしている山系の蓼科(たてしな)から美ヶ原にかけて、ビーナスラインなるはなはだ芳しからぬ名のついた道が造られているが、そこを車で通った例の山小屋づくりの学生たちが、古来の道すじを踏襲したと思われる道を走っているときは、例えば蓼科山はいつも前方の方向に、多少右左によることはあっても、見えがくれするのだが、このビーナスラインでは一定せず、ひどいときには突然後に見えたりして、ついには走っている方向が分らなくなり、正確な地形図上に指示された目的地に行くのにさえ(いまいるところが分らなくなり)えらく苦労したとこぼしていたけれども、これはまさに、古今の道のつくりかたの違いを見ごとに語ってくれている。

 それにしても、この山越えの最短ルートはいかにしてつくられたのだろうか。おそらく中仙道のような主要道が通る以前からこういうルー卜がいくつかあったに違いなく、主要道はそのなかから選ばれ整備されたに違いない。しかし、それらのルートはどのように(地形図もないのに)見つけられたのか。

  これについてはいろいろ考えられるし、また語られている。

 初めにも書いたけれども、いま主に人が住んでいる低地よりも一段高い高原状の一帯は、低地農業に拠る以前の、概して縄文期の人々の居住地であった。彼等は、そこより下の低地よりもむしろ、背後に拡がる山地一帯をその生活圏としていた。というより、そういう山地があったからこそ、彼等はその一帯に住んだのだ。だから、その一帯は、言うならば「彼等の地図」に組み込まれていた。そして、一帯を我がものにしてゆくなかで、はるか山中に、彼等の時代の貴重品:黒曜石の鉱脈を発見したのである。ここ産の黒曜石がこの地を越えたはるか彼方で見つかっていることから、この一帯のなかでの道の他に、その彼方を結ぶ道も既にあったのだと見られている。というよりも、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、それを黒曜石が通過していったと言った方がよいだろう。そして、そういったルートが、時代を越えて受け継がれてきた、これが一つの有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったものもあるだろうが)。

 またこの地は、古代、低地農業主体になる以前に(なってからも)この山地にかけて盛大に牧畜が行なわれたらしい(この地に限らず信州から群馬の山地一帯が馬の産地であった。〇〇牧などという地名として、それが名残りをとどめている)。だから、この山地に人が係わらなかったという時代がなく、有史以前からの道の遺産が脈々と受け継がれてきた、ということもできるのである。

 それでは、それらのルートはいったいどういうところを通っているだろうか。

 こういう山地に古来からある道には、そのルートのとりかたにいくつかのやりかたがある。それは、そういうところを歩いてみればすぐ分るし、いまでも、あたりまえな感覚で道をつけようとすれば多分そうなるだろう。一つは、等高線沿いにいわゆるトラバースしてゆくやりかたであるし、これは各地の山村の集落間を結ぶ道によく見られる。距離は長くなっても一番楽な歩行ですむし、特に稲作農業主体の集落になってからは、集落の立地条件(すぐ使える水が得やすい)をみたす土地は、大体等高で並ぶから、当然道も等高線沿いになる。因みに、関東平野北辺を通っていた東山道を復原してみると、赤城山塊の自然湧水点がほぼ等高線上に点在し、それに拠る村々をつないだ形で走っているという。もう一つは高低をつめる場合の道で、それには谷すじ道と尾根道がある。古来の道で、斜面をやみくもに登りつめるような道のつけかたは先ずないと言ってよいのではなかろうか。唯一私が知っているそういうつけ方の道は、武田信玄が上杉攻略のために造ったという甲府から善光寺平へ向けての軍事用直線道路だけである。信玄棒道と称されて、いま話題にしている山系の高原の一画に、その跡が残っている。これは、地形図でみると、全くあきれるほど見ごとに最短距離を、強引に突走っている。これは例外だろう。

 そして、山越えの道は、尾根道より谷道の方が圧倒的に多そうだ。それも、考えてみれば、あたりまえなのかもしれない。

 いま、実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道の峠の位置を、おおよそ比定することができる。そこは大体、山々のくびれの部分である。いわゆる鞍部である(峠にあたる外国語を探すと、鞍部を意味するcolとでてくる。外国でも峠はそういう場所を通るわけだ。他には、そういう形状は示さないpassという語が対応する)。このくびれの部分というのは、必らず川が切りこんでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている。しかも、その鞍部を境にして両側に川が必らずあると言ってよい。それは全くの自然現象である。

 すなわち、山越えの道は両側から谷川沿いに登りつめ、最後にこの鞍部で顔をあわせているわけである。そして、水というものの性質上当然なのだが、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。だから、谷川すじというのは、もし通れれば、下からその峠部へ行く最も能率のよい道すじとなる。第一谷川という目印があるから、支流さえまちがえなければ迷うことも少ない。おそらくそういった谷川すじのなかで通れるものが道として確立していったのである。そしてまた、実はそういった河川が平地へ出るあたりには、これも自然現象として、扇状地をはじめとする台地が形成される。そこには人が住みつく。特に低地農業主体となったとき、そこは暮してゆくのに絶好の場所である。いま見る町々のうちの大きな町は大抵そういう場所にある。そういう場所に住む人たちにとって、例え農業が主たるものであっても、背後の谷川をさかのぼった山地もまた手の内であったろう。

 つまり、彼等の「私の地図」に組み込まれていたはずである。だから、山のこちら(の町)と向う(の町)とを結ぶ最短ルートが後になって意図的に造られたかのように、いま私たちはつい思ってしまいがちだが、むしろそれぞれの側で人々が、そこに展開している自然現象に素直に対応して住みつき、生活圏が確立していったとき期せずして、あの鞍部:峠で両者が顔をあわせたに過ぎなかったと見た方があたっているように思える。言うならば、理の当然として、あるいは自然現象的に、そのルートは最短であったということだ。そして、その向うとこちらの生活圏で交流が盛んになれば、当然その峠道も整えられるだろうし、事実、平地内あるいは平地間の言わば等高線上のつきあいとほとんど変らずに、山越えの交流も盛んだったと思われる。おそらくこういう山越えの交流ルート:峠道はいろいろあって、それらのなかから取捨選択して、そのときどきの中央の為都合のよい道すじを設定した、それがその時代の主要道であったのであり、たまたまその道すじにあった村々は、そこにあったが故に、単なる農業集落ではなく、道に拠った暮しをする村々、町々として変っていった、多分これが峠道が成りたっていったすじがきであると私は思う。先の信玄棒道が、今様の正確な地形図なしでできたというのも、その土地に住みついた人々の生活圏を詳さに知り、それをモザイク状につなぎあわせてできる全体像を、見えるものをもとに想定し得るだけの感性があったからこそ可能であったのだ。そういった意味では、正確な地形図を持っていて、なお且つ各種の情報を持っている私たちよりも数等秀れたものの見かた、とらえかたを彼等は身につけていたということができるだろう。そういった感性というものを、いったい私たちは、どこへ置き忘れてきてしまったのだろうか。そして、そういう感性を失なってしまった人たちが、いい街並だ、とか、桂離宮はすばらしい、などと言い、保存を説き、それならまだしも、人々の生活に係わりをもつものを平然と造っているのだ。

  

 このごろは写真の技術が進み、非常に精密な航空写真が撮れ、このごろの地形図はそれが基になっているらしい。また、その航空写真(空中写真と呼ぶようだが)も市販されていて比較的安く手に入る。それを見ると直ちに、古来からと思われる道と最近造られた道とを見わけることができる。地形・地勢とは言わば無関係に、強引に造られているもの、そうでないものが際だって見えてくる。言わずと知れた前者が最近のやりくちで、それは地形・地勢から見る限り、極めて非合理な形状を示しているのである。(もっとも、この非合理という言いいかたには私の考えかたが入っているから適切ではないかもしれない。)それに対して古来のものと思われる道すじは、それこそ淡々と、地形・地勢のなかに通れる場所を選んで走っていて、だから地形・地勢にすっかりなじんでしまい、道だけが浮きたって見えてこない。先日、機会があって、人工衛星から撮った関東北部から信越へかけての地域の写真を手に入れたのだが、私はあまりの見ごとさにほんとに驚いた。別に現代の科学技術のすごさに驚いたのではない。それも全くないわけではないが、そんなことよりも、こういう便利な地図や写真もない時代からこの地上において人々のやってきたこと、その方に驚くのである。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども全て人が住みついていると言ってよく、それらをつないで非常に自然なかたちで道がついている。そこに見られる。人の住んでいる所といない所のモザイク、つなぐ道の網目、この合理性は、全く現代の合理性による諸々の計画を圧倒しており、古来の営為の跡に比べれば、現代のそれはさながらひっかき傷のようなものでしかない。それは、大地という自然が備えている合理性に対し、科学技術という偏狭な合理性によって対抗した手負い傷のように私には見える。最近いわゆるスーパー林道が是か非かと騒がれているけれども、そして多くそれは道の開設による自然破壊が議論の焦点になっているのだが、こういう写真を見ていると、開発論者も反対論者も少しは古来人々がつくってきた道の合理性その原理原則というものを研究したらどうかと思いたくなる。なにがなんでも自然破壊反対だという言いかたをするなら、この地上で人々のやってきたことはどれも自然破壊に他ならず、なにがなんでも開発だと言うならば、大地の備えた合理性も知らないままの開発など、人々は古来少しもやってはこなかった(いまを除いて)。

 

 過去の遺物・遺産を保存すること、それは博物館的な意味では確かに必要なことだろう。しかし、私たちがしなければならないのは、それだけで十分なのではなく、そういったものを成らしめた原理原則(それは、そのときの人々が考えたことだ)を読みとり、いま使えるものは使い、捨てるべきものは捨て、いまの原理原則を主体的に考えだすことなのではなかろうか。そうでない限り、いま私たちがやっていることは、決して後世において、価値あるものだから保存しようなどと、思われもしないだろう(別に、そうなることを唯一の目標にしてつくれ、などと言っているのではない。私たちのいまの日常の意味が認められないだろうということだ)。

 

 ところで、ここで使ってきた「峠」という字は、漢字ではなく国字である。峠的地形が中国にないはずがないから、彼等はそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、一昨年の夏中国を訪れたとき、それについて中国人の通訳にしつこく尋ねてみた。ところが、当方の納得ゆく答が少しも返ってこない。頭をひねっては、「頂」かなぁ、などとどうも私たちが持っているイメージにはぴったりしないような答しかもどってこないのである。結論的に言うと、どうも私たちの「峠」に相応の字はないらしいのである。考えてみれば当然で、もしもあったならば、国字がつくられることもなく、その漢字が使われていたはずなのだ。では、彼等はなぜ「峠」に対応する字を持ってないのだろうか。

 いろいろと考えてみて、ひょっとすると私が「峠」という字に対して持っていた観念がまちがっていたのではないかと思うようになった。私はそれを、道が登りきった所、それから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す地形名称だと思っていたのである。おそらくそれは、そういう単なる形状を示すものではないのである。峠的場所に対する地形名称では「たわ」とか「たるみ」とかいうのがある。これは、鞍部:col に相当する(大だるみ峠などというのが相模湖のそばにある。たわんでいる、たるんでいる場所という意味かもしれない)。だから、地形的名称で済ますならば、あえて「とうげ」なる言いかたをしなくてもよく、字をつくりだすこともなかったろう。そして、峠の所在を地図や実地に見ていて思い至ったのは、これは地形そのものではなく、そういった地形的場所が持つ、言わば生活的な息がこめられているのではないか、ということであった。簡単に言ってしまえば、二つの生活圏」の接点を意味するのではないかと思う。峠を越えるということは、暮し慣れた所を離れ、違う所に行くということだ。峠に神をまつる、それは単なる交通の安全を祈念する以上のもの、それぞれの生活圏の境を守る神そして、それぞれの郷土の神に前途の安全を頼んだのではなかろうか。峠を境に二つの生活圏、文化圏が隣りあう。それぞれは、それぞれが独自であって峠越しに交流する。交流されたものを、また、それぞれなりに消化し成長してゆく。それが隣あっていた。だから、峠の両側は、似ているようで違う。

 ふと思い出して、柳田邦夫の「地名の研究」を読みかえしてみた。そのなかに、峠の字を「ひよう」あるいは「ひよ」と読む所のあることが紹介されている。彼の見解によれば、それは境を示す「標」の音読みではないかという。峠的地形が村界であったというわけである。そして、その「ひよう」にあとになって新字の「峠」があてがわれ、読みだけが残ったのではないかというのである。

 なぜ中国に「峠」に相当する字がないのか。おそらくそれは簡単なはしなのだ。彼の地においては、峠的地形は境界ではなかった、というよりそうなるような形状の大地ではなかった。そして第一、彼らの生活圏の境界は、そういう固定的・恒久的自然地形に拠ることはほとんどなく、言うならば自らが(勝手に)仮に設定するものであった。それは、彼の国の確固とした城壁・市壁:囲壁があるのに、我が国にはない、彼の地の文化を積極的にとりいれても、あのような確固とした囲壁をつくろうとはしなかった、そのことにつながってくるはずである。そして、そうであるとき、彼の国においては、峠の字は必要ないのである。そしてわが国では、それを必要とした。

 

 いま、我が学生たちの自力小屋建設は、いよいよ峠にさしかかったようである。私の立場では、ただ無事の落成を祈るのみである。

 

あとがき

〇私の目の前に、人工衛星から撮った写真がはってある。見ていて少しも飽きない。載せられないのが残念なくらいである。

〇私はよく車を乗りまわす。年間にして20,000kmぐらい走っている。(おかげで暴走族だなどと言われているらしい。)なぜ距離が増えるかというと、例えば片道150kmのところへ行く場合、時間のゆとりがあると、決してまっすぐには帰ってこないからである。言わばアドリブであちこち道くさをする。バイパスがあれば、わざわざ旧道を通る。自然と距離がのびる。そういうとき、大抵は一人なのだが、ときどき、そういったなかで目にすることがらで思ったこと、感じたことについて議論できる人が傍に乗っていてくれるとありがたいと思うことがある。かと言って、だれでもよいわけではない。同じように、言うならばやじうま精神あふれる人でないとだめだ。何の関心も示さない起こさない人ならば、寄り道せずに近道見つけて早々に帰った方がましというものだ。そういう意味で傍に乗ってもらいたい人は。数えるほどしかいない。

〇初めてのところに赴くとき、私は予め地図は見ない。見てもほんとにあたりをつける程度である。迷ったりしながら、「私の地図」ごしらえをする。そして、それから地図を見る。ときには帰ってから地図を開いたりもする。ある意味では合理的・能率的でないのは確かである。けれども、私にとっては、どうもこの方がよくものが見えるようなのだ。ずぼらな性格も手伝って、昔からこうなのだ。これも結局走行距離をのばすことになる。もっとも、こういうことをくり返してきたせいか、道のつくられかた、村や町のつくられかたの構造的原理が体にしみついて、走る方向についての言わば動物的は鋭くなったみたいである。(それが通用しなくなるのは、最近できた道にのってしまったとき。)

〇十分煮つめないで書くことがかなりあるように自分でも思っている。お気づきの点や異論を是非おきかせ願いたい。

〇今年もまた、それぞれなりのご活躍を!

   1982.1.1                             下山 眞司

 

投稿者補足

「信玄の棒道」: 武田信玄が信濃攻略のために作った軍事上の道路で、諏訪方面に上・中・下の三筋と南佐久郡に一筋ある。いずれも八ヶ岳の裾野を南から北へほぼまっすぐに等高線沿いに通ったのでこの名がある。   「長野県の地名」平凡社より

故人の研究室にあった「衛星写真」部分: 左隅に松本市、諏訪湖、八ヶ岳へと続く山塊、諏訪湖の北北東に火口がわずかに赤く見えるのが浅間山です。

   

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