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会津柳津・軽井沢銀山の煉瓦造煙突-1

2008-04-16 07:15:18 | 煉瓦造建築
[記述追加、修正:23.38]

昔の写真が出てきたので、報告。

会津盆地から阿賀野川に沿って新潟へ向うと、福島県・柳津(やないづ)町がある。虚空蔵尊で知られている。
その柳津町の南、柳津から会津盆地西端の町・会津高田に抜ける山越えの道の途中に(県道53号線)、「軽井沢」という場所がある。上掲の地図のほぼ中央である。そこから少し山に分け入ると、上の写真のような大きな煙突が見えてくる(煙突は、ちゃんと垂直に立っています。傾いて見えるのは撮影のせい!)。[記述追加]
これは、1988年の暮、喜多方の帰りに寄ったときの写真。20年ほど前になる。

煙突は煉瓦造で、底辺が2間四方ぐらい。高さは100尺近くあったらしいが、崩落が進み、当時すでに半分ほどになっていた。

軽井沢を訪ねる気になったのは、そこに古い煉瓦造の構築物がある、という話を聞いていたからである。
そこは、かつての銀鉱山とその製錬所跡で、「銀山」という字名として残っており(上段の地図の赤い十字マークの所)、地図にはないが、小字は「御屋敷」という。
煙突は、当時すでに崩落がかなり進んでいたから、今はもうなくなっているのでは?と思って、最近の国土地理院の25000分の1の地図を見たら、ちゃんと煙突マークが載っていた。今なお健在のようだ(下段の地図参照)。

   註 「軽井沢」は、峠に差し掛かる手前につけられる地名である、と
      柳田國男の著作で読んだような気がする。
      たしかに、全国に数ある「軽井沢」は、そういう所にある。

「軽井沢」の鉱山は、江戸時代以前からあったようで、「日本歴史地名大系 福島県の地名」によれば、永禄元年(1558年)頃~元文年間(1736~41年)、鉱石を砕き淘汰し、精製された鉱石を火力で製錬する方法で生産された。燃料は薪。そのため、周辺の山林は禿山になったという。

その書によると、「新編会津風土記」には、諸国から人が集り、一時は小屋が千軒あったといい、寛文年間でも、70余軒の小屋があったようだ。
また集った人たちの遊興の場として、西山温泉郷は繁盛し、各地に水茶屋も置かれ、「招き林」「傾城沢(けいせいざわ)」などの地名が今も残る、とある。
これは、かつて鉱山で栄えた地域に共通する話。ただ、「小坂」のような深い山奥では、鉱山を営む主体が劇場など人びとの生活・厚生事業を自らつくったようである。

上段の地図の「銀山」の南南西2500mほどのところに「久保田」という字があるが、その北を西に向って流れている沢が「傾城沢」で、国土地理院の地図には名称が載っている。「久保田」から道を下ると「西山温泉」郷である。「招き林」とは、上段地図、西山温泉の西側にある「砂子原(すなこはら)」の謂らしい。

下段の地図で、「銀山」の南西に「銀山峠」という場所がある。その名の通り、今ははっきりとした道はないが、鉱山はなやかなりし頃、「銀山」と「西山温泉」を結ぶ人通りの多い道の峠だったのである。

下段の地図の「銀山」のあたりに数軒建物があるが、この一帯の小字が「御屋敷」。江戸期に、ここに「御殿屋敷」があった。鉱山を取り仕切る役所:鉱山事務所である。

鉱山は、先に触れたように、18世紀中頃一旦途絶えるが、幕末になって、オーガスチン式製錬法が導入され再開され、日産80貫の生産を誇るほどにまでなったという。当時、全国でも有数の銀山だった。(なお、記録では、江戸期の生産量は毎月40貫)。しかし、その生産も、明治29年(1896年)終了したという。[記述追加]
この煙突は、その明治期の製錬所の唯一の遺跡である。
多分、明治10年代~20年代初め(1877~90年ごろ)の建造ではないだろうか。喜多方で煉瓦が焼かれ始める10~20年以上前のことだ。[記述修正]
現在、煙突に続いて、いくつかの小屋があるが、ほとんど廃墟に近い。小屋の近くに坑口があるから、多分、そのあたりに製錬所があり、煙突に続いていたのだろう。

   註 オーガスティン法は、小坂鉱山や石見銀山、釜石など、
      明治期の鉱山開発で、必ず出てくる冶金技術である。
      それとともに必ず出てくる一人の人物がいる。
      冶金技術者:大島高任(おおしま・たかとう)である。
      彼は全国の鉱山を歩きわたり新技術を広めたのである。
      もしかしたら、軽井沢にも足跡を残しているかもしれない。
      ちなみに、茨城の「ひたちなか」にある「反射炉」にも、
      彼はかかわったらしい。

私どもが軽井沢を訪れたとき、一帯にはまったく人気(ひとけ)がなかったのだが、ただ一箇所、「御屋敷」の一角の大きな家屋敷にだけ、人が居られた。
その大きな建物は、明治期の鉱山事務所であったらしく、そこで、女性が一人で住まわれていた。古庄(こしょう)さんといわれる品のよい方で、当時、50代後半~60代のようにお見受けした。明治期にも人でにぎわっていたことなど、往年の鉱山の様子をうかがうことができた。
息子さんが会津若松にいて、山を下りるようにすすめられてはいるが、やはりここがいい、ということで暮しているとのこと。週末ごとに、息子さんが訪ねてきているらしかった。
大きな座敷の一隅で、火鉢にあたりながらお話をきかせていただいた。
その後も、折をみて訪ねてたが、いつもお元気であった。いま、どうしておられるのだろうか。

この軽井沢鉱山跡は、「産業遺跡」では無視されているようだが、それは、少し調査が足りないのではないか。
私は、ここは「文化財」に指定する価値のある場所だと思っている。柳津町の重要な文化「遺跡」「史跡」として。
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続・喜多方・登り窯の再稼動

2008-04-06 20:29:08 | 煉瓦造建築

[説明追加、23.34]

「産業遺産」に認定された喜多方の登り窯をはじめとする一群の「活用」について、喜多方市役所から連絡をいただいた。

5日付で書いた「遺産の活用」の続きをかねて、登り窯の焼成過程について説明をしようと思う。

先ず、この「登り窯」は、「遺産」なのかどうか、ということについて。
先回の私の定義で言えば、遺産とは、所期の目的を果し終えたもの、しかし、後世に伝え遺したいもの。
では、この「登り窯」は、目的を果し終えたのか、というと、実はそうではない。
この窯でつくられる瓦や煉瓦に対しては、今は忘れられてしまっているが、根強い需要があった。
なぜなら、その性能が、喜多方の状況(通常の言葉で言えば「風土」)に適合するように工夫・考案されていたからである。
ただ、一回の焼成でつくられる数には限りがあるから(煉瓦換算で約1万本/回)、直ぐに供給できない場合もあった。
そこへ、電気焼成等による大量生産の瓦焼成工場が各地に出現し、トラック輸送で遠隔の地まで、常時、しかも廉価に供給されるようになり、登り窯は休業せざるを得なくなったのである。
良質の地場に合った性能の製品が、廉価な大量生産品によって駆逐される、というのは、今の日本のたとえば衣料品や食品と軌を一にしていると言ってよい。

   註 これをして「市場原理主義」として当然のこと、と容認する
      経済学者がいるが、そこにはかならず「あざとさ」が表われる。
      それは、最近頻発した「食品」の事件で明らか。

更に、規格面でも、国家レベルで画一的に《統一・標準化》されたから、いわば「ふぞろいな製品」の登り窯焼成品は、あたかも劣悪な性能であるかのように誤解さえされてしまったのである。

   註 先回の喜多方・登り窯の記事に、三州瓦の生産者の方から
      次のようなコメントをいただいた。一部を抜粋紹介する
      (全文は、当該記事のコメントでご覧ください)。
      「弊社でも一応全国規模の出荷体制を持ち営業していますが、
      出張の際にそれぞれの土地で古い建物を見るのを楽しみに
      していますが、かつてそれぞれの土地で作られた瓦の色を
      美しいと思うことが度々あります。
      ただこれらの地方の色彩豊かな瓦を駆逐し滅びさせてしまった
      のは私たち三州瓦なのだと気付いたとき、愕然としました。・・」

また、建築法規は、実態を無視して、煉瓦造を頭から耐震性のない工法と見なしているため、建物に煉瓦を用いることが圧倒的に少なくなってしまった。
建築基準法の「浸透」していなかった1960年代までは、喜多方周辺では「木骨煉瓦造」が多数建てられていたのだが、現在は多分認められないと思われる。

   註 1964年(昭和39年)の「新潟地震」では、喜多方もかなり揺れ、
      土蔵の壁の崩落や、煉瓦造の煙突等には倒壊事例が見られたが、
      「木骨煉瓦造」のいわゆる「煉瓦蔵」をはじめとした煉瓦造の
      建物には倒壊に至るような被害はなかったという。
      特に、初期の漆喰目地の建物にはひび割れが少なかった、という
      事実は、注目に値する。
      建築関係者は、単に「法令」を鵜呑みにするのではなく、
      この事実・実態を、冷静に認識すべきではなかろうか。

つまり、喜多方の登り窯を「遺産」化させてしまったのは、すべて、「理の通らない人為」によるものなのだ、と言ってよい。
それゆえ、私は、先回も、そして今回も、「遺産の活用」ではなく、休止していた窯の「再稼動」という言い方をしているのである。

前置きが長くなってしまったが、登り窯とその焼成手順を簡単に説明する。
前回、3月23日の記事の図版もあわせてご覧ください。

上掲の図は、登り窯の断面スケッチ。
このようなトンネル状の窯が、斜面に沿って何連かが並べられる。
この窯の場合、トンネルの長さは4.5m、幅・高さとも約1.1m。これが10連並ぶ。
各窯の段差はおよそ30cm、いくつかの「火道」が窯相互の底に通じている。

写真左列の「上」は、煉瓦の素地の制作。左列「下」のような形枠に、練った粘土を叩きつけて成型する。そのため、密度の高い締った素地ができる(機械による押出し成型だと、圧縮度が少なく密度が低くなる)。
「中」は、形枠でつくった素地の乾燥:天日乾燥。写真「下」の形枠内の煉瓦は乾燥後の未焼成煉瓦(素地)。つまり、乾燥によりこれだけ小さくなる。天日乾燥期間は夏季で一週間、春・秋は一ヶ月程度。

写真右列「上」は、日乾し煉瓦(素地)の窯入れの用意。喜多方では、焼成前に日乾し煉瓦を釉薬に浸す。積んである素地は、釉薬処理済みのもの。
窯の側面の開口から、搬入し、搬入終了とともに、開口は右列「下」のように、土で封鎖される。
なお、この窯では、通常、瓦と煉瓦が同時に焼成されていた(手前側に煉瓦、奥側に瓦を置いた)。

焼成は、先ず、最下段の窯の三つの焚口から約12時間、重油バーナーで火を送り込む。窯は、下から順に徐々に加熱されてゆく。

窯内の様子は、窯側面に開けられた点検口(断面図参照)から覗いて確認する。
最下段・第一連の窯の内部の素地が輝赤色に輝くようになったら、第二連の窯の作業に移る。
第二連からは、両側面の投入口から、10~15分毎に薪を投げ入れて内部温度を一定に保つ(約1200度、点検口から覗いて炎の色:赤から白に変るあたり:で確認する)。第二連の焼成には約3時間。
右列「中」の写真は、第六連の焼成中、薪を投げ入れているところ。[説明追加]

以降は同様の作業を続ける。
各連の焼成時間は、少しずつ短くなる。全てが終るのには約40時間。

窯からの製品取出しは、窯が冷える約二日後。ふさいでいた開口の土壁を壊して取出す。

再稼動でつくられる煉瓦の建物への使用は、今のところ、想定外のようだ。何とかしたいと私は考えている。

   註 1997年、立教大学の礼拝堂(大正9年建設)の修理に際して、
      当登り窯で特注品の煉瓦が製造されたとのこと。
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うれしい話・・・・喜多方・登り窯の再稼動

2008-03-23 18:31:09 | 煉瓦造建築

会津・喜多方の登り窯に火が入るかもしれない。
ここ四半世紀、ほとんど火が入れられず、窯の傷みも激しくなる一方だったのだ。

数日前、喜多方市役所の方からの連絡。
昨年秋、経済産業省の「産業遺産」選定事業で、「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺跡群」の一つに喜多方の煉瓦造やそれを生産した登り窯が選ばれ、喜多方市としても、何とかして登り窯を再稼動させようと動き出した、とのこと。

2006年の12月16日、19日、22日に、会津・喜多方の煉瓦造について触れた。
喜多方の「登り窯」、それは、もとは瓦を焼くためにつくられた窯だった。
鉄道敷設工事(現在の磐越西線の敷設)にともない煉瓦も焼くようになり、そこでつくられる煉瓦が建物に使われだし、それが、今でも喜多方に残る多数の「煉瓦蔵」を生み出したのである。1960年代(昭和30年代)でも、喜多方周辺の地域ではまだ「煉瓦蔵」はつくられていた。
なお、このあたりの経緯や「煉瓦蔵」の特性については、前掲記事で簡単に触れている。詳しくは下記図書で。

しかし、この登り窯は、1960年代(昭和30年代)、各地に大規模生産の瓦焼成工場がつくられ、運輸革命:トラック輸送の普及によって、それらの製品がこの地域にも流入し、その結果、生産をやめざるを得なくなった。
しかし、登り窯は火入れをしないと傷んでしまう。そのため、採算度外視でときおり火を入れてきた。
上の写真は、いまから24年前、1984年(昭和59年)の保全用の火入れのときのもの、まるで海原を行く船の如き姿であった。

焼成のため、数日間火は燃え続ける。燃料は主に薪(重油バーナーも併用)。温度は1000度を超える。
一度の火入れで、煉瓦にして約1万本が焼成される。

焼成時間は約40時間。つまり2日弱。その間、作業は夜を徹して続けられる。
火を止めて2日後、窯が冷えて、製品を取出す。
1万本の素地を窯のなかに積み込む作業にも数日を要するから、焼成のサイクルは、最低1週間ということになる。
その一方で、窯に入れる素地の成型も並行して行わなければならない。
なお、登り窯での製造過程・工程の詳細については、あらためて紹介する。

この窯では、明治43年には、年間煉瓦5万本、瓦5万枚が生産されていたという記録があり、大正期には、その数倍が生産されていたようだ(福島県統計資料)。ということは、最盛期には、月に1回以上稼動していたのである。


さて、今回再稼動させるとなると、問題がいくつもある。
一つは、素地つくりにも焼成にも人手がいるということ。人手さえあれば、まだ、かつて焼成にかかわったことのある方々が、幸い健在、その方々に指導をお願いできる。

そして、もう一つは、窯の稼動によって生まれる約1万本の煉瓦を使う場面を確保すること。
煉瓦1枚積み(壁厚210mm)で、壁面1坪をつくるには約430本の煉瓦を使う。約130本/㎡である。1万本は、約23坪=約77㎡分。
半枚積みなら、約46坪:154㎡分。
平に張るならば132枚/坪:約43枚/㎡だから、1万本は約75坪:約230㎡分。

つまり、1回の焼成で生産される1万本をさばくには、これだけの需要が必要。
逆に、必要数がこの数字をはるかに越える大口の場合、たとえば1枚積みで50坪となると21500本の煉瓦が必要になるから、最低2回以上の火入れが必要。ということは、一定程度の在庫を用意しておかないと、即時出庫というわけにはゆかない。
このあたりをどう調整したらよいかが問題。

次に、喜多方の煉瓦は、写真のような色合いをしている。これは、焼成前の素地:日乾し煉瓦に釉薬をかけるからである。これは、凍害防止のための処置。釉薬は当初は灰汁だったが、後には益子焼の釉薬を使っている。
釉薬は、写真のように、見えがかりになる部分に施される。もちろん、釉薬なしの煉瓦もつくれる。
いずれにしろ、大量生産工場の焼成品とは異なり、整形ではなく、独特の風合いがある(今風に言えば、「てづくりれんが」)。ただし、焼成温度が高いから、昨今の輸入煉瓦に比べ、質は数等良い。しかし、「てづくり」ゆえに、当然、価格は高くなるだろう(さらに、登り窯から遠い地域の場合は、運賃も余計かかる)。

喜多方市役所では、担当課の商工課を核に、建設課も動き、そのあたりを模索中のようである。
何ができるか分らないが、私も、よろこんで協力させていただこうと考えている。

こういう煉瓦を、上記のような生産量、条件の下で使いたい、使える、という方がおられるならば、登り窯の火入れ:再稼動は順調に再開されるはずである。
いろいろな面で、登り窯再稼動に協力できる方々が、大勢おられることを願わずにはいられない。

写真、図は下記書籍より
『会津喜多方の煉瓦蔵発掘』(普請帳研究会 刊)
『喜多方の煉瓦蔵』(喜多方煉瓦蔵保存会 刊)
『住宅建築 1989年11月号:特集 煉瓦造建築』(建築資料研究社 刊)
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煉瓦造と地震-2・・・・“earth construction”の解説・続

2008-02-01 12:55:04 | 煉瓦造建築

[記述訂正 4月18日 11.59]

上掲の解説・図は、“earth construction”にある「対震策」の転載。
ここでは、earth construction の中でも、特にadobe:日乾し煉瓦造において考慮すべき留意点について触れられている。焼成煉瓦造にも共通する点があるはずである。

これも意訳してみる。

「地震に抵抗できる構造体をつくるための適切な建設技術としては、一般に組積造の技術が援用されることが多い。しかし、adobe:日乾し煉瓦 の場合は、それに加えて、材料である「土」の特性についても考慮しなければならない。その重さや、機械的強度の低さ、脆さが、地震の被害を蒙りやすくしているからである。

多くの設計者が「土」を使うのをためらうのは、普通の組積造に加えて、上記のような「土」の性質を考慮に入れなければならないからだろう。
いろいろな研究団体が、煉瓦積、煉瓦の目地材、煉瓦の均質性の確保、地震の力への抵抗力、などの性能の改良について提言をまとめている。提言には土造についても触れられはしているが、体系だっているとは言いがたい。

こういった提言の援用は、地震による損傷を低減することは疑いないのだが、しかしあまり知られていない。また、課題も多い。
ここで、紹介するいくつかの提言から、「対震」の問題について考えるための視点・観点が、ある程度は見えてくるのではないだろうか。

1.煉瓦の形状と寸法(図1)

煉瓦の形状を 40×38×10cmの方形とする提言がある。これは、煉瓦相互の接着性能は向上するけれども、正確な割付・設計を行う必要がある。
この形状の煉瓦を使う場合、「すさ」として藁を加えると、よい結果が得られる。
また、壁体を構成する煉瓦総量が減るから、より一層強度も確保できるようになる。

2.インターロッキング煉瓦の使用(図2)

メキシコでは、この煉瓦を目地材なしで使う実験が行われており、実際に建物もいくつか建てられているが、まだ改良の余地がある。
この形状の煉瓦は、きわめて簡単な「押し型」で、安定した供給ができる。
しかし、仕上げを丁寧にする必要があり、また、保管や運搬上にも難点がある。

3.補強用の煉瓦(図3)

普通の形状の煉瓦でも、補強積みはできるが、しかし、施工上問題がないわけではない。
そこで、水平方向、垂直方向に、補強材を仕込む窪みを付けた煉瓦を使う方が好ましい。

4.目地材(図4、5)

良質な目地材は、地震への抵抗力を向上させる。そのためには、普通の土ではなく、精選した土を使うことが望ましく、それによって、煉瓦相互の接着の度合いを高めることができる。

水分が過剰な目地材は、接着力を弱め、微細な亀裂を生じる原因となる。
積み上げ方向の目地の施工がおろそかだと、壁体の圧縮に対する強度はもちろん、曲げや、せん断に対しても強度が落ちる。

また、目地の位置は、できるかぎり、地震により起きやすい45度の亀裂を避けるように設計される必要がある。

5.補強積み(図6、7)

水平、垂直方向とも、補強材としては、竹、ユーカリ、異型鉄筋などが使われる。
補強により、引張りや曲げの強さが向上する。
普通の形状の煉瓦でも補強は可能だが、できれば補強用の煉瓦(3.参照)を使う方がよい。

6.Ring-beam の使用(図6、7)

Ring-beam を設けることは、力を適切に伝え、壁体が一体性を保つことができるため、いろいろな構造要素の中では、最も地震に対する抵抗力を発揮する方法である。Ring-beam を設けない壁体、特に厚さの薄い壁体では、耐震性能は低減してしまう。

Ring-beam は数段設けるが、壁の隅や交差する箇所では、Ring-beam 相互を垂直方向の補強材でつなぐことが肝要である。」


以下は私の所見。

ここで提言されている煉瓦の形状・寸法は、大きすぎる。たしかに大きな煉瓦で積まれた壁は、小さな煉瓦を積んだそれよりも強くなるが、作業性はきわめて悪い。提言にある大きさの煉瓦は、比重約2.0として、重さが30kgを越える(日本の現在の標準的な煉瓦は 21×10×6cmで重量約2.5kg)。したがって一人では持てず、おそらく、積む作業は二人がかりになる。

   註 福島県の柳津(やないづ)と会津高田の間の山中に、
      江戸から明治にかけて栄えた軽井沢銀山跡があるが、
      そこに煉瓦造の大きな煙突が遺っている。
      使われている煉瓦は約1尺×5寸×2.5寸、重さ約6.5kg。
      片手で持ち上げるには大きすぎる。
      実測すると、大きさ、重量とももう少し小さい。
      正確な寸法、重量等は、4月17日の記事、
      「会津柳津・軽井沢銀山の煉瓦造煙突-2」参照
                
      喜多方の煉瓦は7.2寸×3.5寸×2.2寸程度。重さ2.3㎏弱。
      西欧の煉瓦もこの程度の寸法。
      作業性を考えると、このあたりに落ち着くのが普通
      ではないだろうか。
                    [記述訂正追加 4月18日]

   註 現行の普通煉瓦を積むのに、250本/日が平均的な作業量。
      40cm角×10cmの大きさでは、多分、手間がかかりすぎる。

目地を亀裂の発生しやすい角度:45度にしないこと、という提言は、納得がゆく。
煉瓦の積み方には、大きくイギリス積み、フランス積みに分けられる。
壁厚が煉瓦1枚のとき、前者は、段ごとに平積みと小口積みを交互に繰り返す方法。後者は、同じ段で平積み、小口積み、平積み・・・と交互に繰り返す積み方。結果として、両者とも、目地が45度になることを避けられる。
いずれの積み方も、長年の経験からたどりついた方法なのだろう。

目地材としては、現在はセメントモルタルが普通だが、セメントがなかった時代は、漆喰(石灰)が用いられている。セメントは水硬性、漆喰は気硬性。この差が結果に表われ、セメント目地は亀裂が入りやすいが、漆喰は入りにくい。漆喰は、完全に固化することがないからのようだ。
現在でも、壁体では漆喰の方が向いているように思う(煙突等では難しい)。

Ring-beam という補強法は、おそらくadobe:日乾し煉瓦造において考え出された方法ではないか。寡聞にして煉瓦造では聞いたことがない。

なお、上掲箇所にはないが、同じく対震法として、いわゆるハーフティンバー方式:木造軸組の間に日乾し煉瓦、あるいは煉瓦を積む(充填する)方法も奨められている。
これは、見方を変えれば、壁体の隅部、交差部に垂直方向の補強材を入れ、数段ごとに水平方向の補強材:ring-beam を入れることにほかならない(喜多方の木骨煉瓦造はこれに当る)。
もっとも、煉瓦造=危険な構造という見方が「定着」してしまっている現在の日本では、この方式も忌避される。

“earth construction”に書かれている提言や方策は、いずれにしても、徹底した現場主義、現地主義の思想で貫かれていると言えるだろう。つまり、情況をまったくわきまえずに「最上(と思われる)提言、方策」の押売りをすることはしない、という方針。この点は、大いに学ぶべきことなのではないだろうか。 

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煉瓦造と地震-1・・・・“earth construction”の解説から

2008-01-29 20:34:04 | 煉瓦造建築

日本では、明治の初め、建物を煉瓦でつくることが建物の近代化:洋風化であるとして推奨されていた。西欧先進国の建物は、煉瓦造や石造ばかりだ、と思い込んでいたからである。
ところが、明治中期、大地震が発生、煉瓦造の多くが被害を蒙った(全部ではない)。
折しも、西欧では、既に新しい材料である鉄やコンクリートの建物が生まれつつあった。
いち早くこれを知った日本の建築学者の中には、もはや建物づくりは、木でもない、煉瓦でも石でもない、鉄とコンクリートだ、と思い込む人たちが生まれていた。
彼らは、地震をチャンスとばかりに、鉄、コンクリートの木や煉瓦に対する優越性を喧伝した。

材料そのものに優劣の差をつけて考えるのは、この頃から始まり以後延々と現在にまで至る日本の学者たちの「悪しき習性」と言ってよい。ついでに言えば、人にもまた優劣の差をつけて見るのが彼らの習い性であり、だから、大工職よりも自分たち学者がエライと思ってしまう。

現に、煉瓦造は、日本では禁止に近い状態に置かれ、その結果、明治以来良質の煉瓦を供給してきた「日本煉瓦製造株式会社」は、決して良質とは言いがたい海外からの廉価な煉瓦に押されて煉瓦製造をやめてしまった。
しかし、煉瓦・煉瓦造は、その性能上、一考に値する材料であり工法であると私は考えている。

   註 煉瓦・煉瓦造は、その恒久性(退化しにくい)、恒温・恒湿性
      などの点ですぐれていて、補強策を考えれば、十分今でも
      建てられるのではないか、と私は思う。


先日紹介した書“EARTH CONSTRUCTION”も(08年1月16日記事)、土造(版築や土の塊:ブロックでつくる)や煉瓦造(日乾し煉瓦:adobe を含む)の建物と地震の問題について、当然触れている。
上掲の文章と図は、同書の EARTHQUAKE-RESISTANT ENGINEERING MEASURES (耐震技術:工法)の節からの転載である(転載にあたって、見開き2頁を1頁に、図の位置も変え、編集し直した)。

内容は、Principles of earthquake-resistant engineering (耐震工法の原理・原則)と Action strategy (実施・行動戦略)に分かれる。

Principles として、①良好な建設場所を確保すること、②強い構造の建物をつくること、③建物の適切な維持管理を保つこと、の三つを挙げている。
いずれも当然のことなのだが、日本の「耐震」では、②についてのみ関心が示されているように思える。

Strategy で触れられている点は、傾聴に値する点が多い。以下、全文を意訳してみる。

「土造、煉瓦造は、地震によって最も被害を受けやすい構築物である。しかし、その地震による挙動は、これまであまり注意を払われておらず、知られてもいない。

ある人たちは、土や版築や日乾し煉瓦による建物は、最も耐震性の低い構築物であるから、そのような構築物は、地震の起きやすい地域では建造を禁止すべきである、と説く。

しかし、土造や版築、日乾し煉瓦による建造を禁止する、などというのは、簡単にできることではない。
なぜなら、土でつくる住まいが圧倒的な数を占めているのは、経済的に貧しい人びとが暮す地域であり、人びとが経済的に豊かにならないかぎり、その建造を禁止するなどということは現実性がない、つまり不可能であり、むしろ、土造の建物の耐震性を改善する方法を探ることこそ重要なのである。

そのためには、地震に対するために、何を考えるべきか、を明確にすることが必要である。
第一は、地震に強い建物をつくるための費用増大を押さえることもさることながら、先ず人命と財産の損失を低減すること、が肝要であり、そのため、建物の倒壊に伴う危険の防止に最大の注意が払われなければならない。
最低限求められるのは、比較的大きな地震の際の屋根の崩落と主要構造部の損傷を減らすことである。

また、地震に強い建物をつくるための原則と技術は、広く、多くの人びとに知られ、多くの人びとに受け容れられるものでなければならない。
そのため、実際の実施方法は、いかなるハイレベルの技術が必要であっても、各地域の社会経済的な状況に応じた方法でなければならない。
この点については、実際に地震の起きた地域の現地観察を通して、きわめて大きな教訓を得ることができる。

実際の地震の多い地域、あるいは被災が想定される地域へ向けての被災防止策として、すでに多数の提案がなされているが、しかし、乗り越えなければならない障害がいくつもあった。
けれども、1982年のアルバカーキ(アメリカ南部ニューメキシコ州)、1983年のリマ(南米ペルー)での国際会議では、いろいろな考え方が討論された結果進展が見られ、実際的、現実的な技術的推奨策がまとまった。
これは、この分野における興味あるスタートでもあった。
科学技術的、経済学的、社会心理学的、そして文化的な障害を越えることができたからである。
たとえば、多くの地域では、円筒状、円錐状あるいはドーム状の建物について、それをやめるのではなく、適切な補強策によって改良するのが良い、ということになった。
けれども、まだ、乗り越えるべき問題が、この先に、数多く残されている。」

大変下手な訳で恐縮。

この書に、というより、この著者たち:研究者たちに、一貫しているのは、常に、「建物」すなわち人が暮す空間の「耐震」を考えることであって(その意味では、私流に言えば「対震」)、「構築物の耐震」だけを考えれば済むものではない、とする思想・思考である。
おそらく、日本の専門家も、アルバカーキやリマで開かれた国際会議には出席しているのだろう。
しかし、日本の専門家・研究者から、この著者たちと同じ思想・思考が語られることを、いまだ私は一度も聞いたことがない。それぞれの地域の状況に応じる、などということは、まったく彼らの脳裏にはないのではなかろうか。

おそらく彼らは、危ない建て方は禁止すべきであると、先頭に立って主張する人たちなのだ。なぜなら、日本で彼らが推進している「耐震のすすめ」は、それ以外の何ものでもないからである。
日本の建築の専門家で、単に技術的なことだけではなく、人文・社会的な視野、文化的な視野・・・で建築を考える人は少なすぎるように思う。

もしかしたら、そんなことは「理科系」の建築の専門家には必要がないことだ、と思っているのかもしれない。
しかし、技術とは、所詮、人にかかわることで成り立つもの。人とのかかわりを欠いたならば、少なくとも建築の技術ではあるまい。建築とは、人がかかわるものなのだから。

パキスタンの煉瓦造の破壊実験(08年1月6日、18日記事参照)を試みる方々も、当然、パキスタン各地域の文化的、社会経済的・・・人文的な諸状況、諸情況を十分に知った上で行っているのであろう、と私は信じたい。
もしもそうでないのならば、それは現地の人たちに対して失礼千万だ。
これまで日本国内で人びとに失礼を繰り返して来たのと同じことを、他国に輸出してはならない、と思うのは私だけなのだろうか。

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煉瓦造の建物・・・・煉瓦造は弱い?

2008-01-18 12:49:51 | 煉瓦造建築

[説明追加:15.09][同:1月19日、9.23] なお、一時(二時間ほど)、当方のミスで画像が消えていました。


先日、煉瓦造建物の「破壊実験」のTV放映について紹介した。
おそらく、あのTV映像を見た人は、煉瓦造の建物は危ないものだ、と思ってしまったに違いない。その意味では、悪しきプロパガンダと言ってもよいのかもしれない。

先回、この「破壊実験」は、現地の実際の建物とは「似て非なる」試験体で行っている、とだけ書いた。
今回は詳しく見てみよう。
そのために、先回防災科技研のHPから転載したパキスタン北部の煉瓦造住宅の工事中の写真と試験体の写真を再掲した。

先ず、開口部を詳しく見てみる。

パキスタン北部の住宅の写真は、煉瓦の段数から推測して壁の高さが約2.1m程度。開口部の頂部までが積まれていて、その上に、さらに7~8段程度積まれるものと考えられる。
当然、開口部の上に煉瓦を積むための用意が必要で、開口部には、見付、見込とも厚手の木材で、上枠:楣(まぐさ)と下枠:窓台・敷居の間を、左右の縦枠が支えるローマ数字のⅡ形をした「四方枠」が設けられている(さらに、中間に、2本の方立が立ち、上枠を支えている)。[説明追加]
上下の枠に「角柄(つのがら)」があることに注意したい。なお、出入口となる開口部の敷居は仮止めのようだ。

  註 「角柄」:方形の枠からとび出た部分を言う。納め方の一つ。
     一般に西欧の四方枠の隅は「留め」が多いが、
     古来、日本では縦勝ちに納める(縦枠に横枠を取付ける)のが
     一般的で、時に縦枠に「角柄」を出す納めが用いられている。

これに対して、試験体の開口は楣を細い材で支えているだけ。窓の楣は、こころなしか撓んでいるようにも見える。

つまり明らかに、試験体のつくりかたは、実際の建物とは「似て非なるもの」。

上図の左側は、先に紹介した“EARTH CONSTRUCTION”の Openings:Principles の解説からの抜粋である。
図の1~3番目の図は、楣だけを設けた開口の場合の様子。重力だけで、このような変形・亀裂が生じる、との説明図。
そして、4番目の左側の図は、推奨している方法である。
上下の枠は、左右に「角柄」を出している。これにより、隅部に力が集中せず、したがって亀裂を防止できる。
図は土のブロックによる構築を例にしているが、煉瓦積でも同じと考えてよい。

つまり、写真の工事中の例は、まさにこの方法を採っていることになる。
一方、試験体のそれは、重力だけでも危険をはらみ、採るべきではない方法。

なお、4番目の図の右側は、土のブロックによる構築の場合、開口の下部を煉瓦積にすることで亀裂を避ける方法である。
煉瓦造の場合は、左右の煉瓦部と縁を切る、あるいは、その部分だけ見込み(壁厚)を変えたり、後積みとする。
要は、開口部は、床まで開口としてつくり、腰になる部分は別の材でつくる(余分な開口を充填する)と考えればよいのである。

   註 この方法は、現在でも、RC造の壁に開口を設ける場合に
      応用できる。
      実際、30年ほど前に、この方法を採った建物では、
      現在でも亀裂が生じていない(腰はコンクリートブロック、
      あるいは木軸板張り)。


次に、壁の積み方を見てみよう。

工事中の建物には、窓下枠(窓台・敷居)の下、上枠:楣の上、そしてこの二段の中間に白っぽい帯が見える。
これは何か?
たまたまそうなった、とは思えない。

この部分と他の部分とでは目地材が異なり、白っぽいところはセメントモルタル、他は土あるいは砂漆喰とも考えられる。
あるいは、白っぽい段の部分には、壁を一周して、何等かの補強がなされているとも考えられる。

壁体の数段ごとに設ける「壁を一周する補強」のことを、“EARTH CONSTRUCTION”では ring‐beam と呼んでいる。

  註 これは、桶の「たが」のような役割をはたすもの
     と考えられる。[註記追加]

同書の Walls:reinforcement and ring-beams の解説からの抜粋が、上図の右側の列の図。
補強に使用する材料として、いくつか例が挙げられている(どの材料、方法を採るかは、地域の状況による)。

残念ながら、実験者のHPでは、壁の白っぽい帯についての説明はない。
しかし、現地の実例として例示する以上、具体的にその工法を調べ、開示するのが当然。そして、試験体もそれに倣うべきだろう。
もしかして、その段階の調査が行われていないのではないか?

いずれにしろ、現地の実際の建物は、煉瓦造なりの工夫をこらしている「本格的なつくり」と考えられる。
これに対して、試験体は、あまりにもひどすぎる。

いくらわが国では煉瓦造工法の歴史が明治、大正の大地震を契機に途切れ、ゆえに煉瓦造の知識がない、と言っても、あまりにもお粗末。組積造の原理、というより「構造の原理」をはずれすぎている。

実は、日本には、見事な組積造の事例が存在する。城郭等の石垣、九州に多い石橋・・である。
これらは長き年月にわたりびくともしていないのである。
しかもこれらは、いずれも、「構造力学」が存在しない時代の構築なのだ。


少なくとも、こういうお粗末な実験・研究を基にして、煉瓦造の先進国である諸国に対して、「耐震指針」を出し、「耐震指導」を行おうとするような愚行は、やめてもらわねばならない。

“EARTH CONSTRUCTION”には、地震などへの対処法も書かれているので、おって紹介したい。

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“EARTH CONSTRUCTION” ・・・・内容紹介

2008-01-16 17:32:24 | 煉瓦造建築
先日紹介した“EARTH CONSTRUCTION”(B5判、362頁)の表紙と序文である。

  註 序文は訳そうとも考えたけれども、下手な訳より、
     原文を読んでいただく方が、と考え原文を転載。

この本は、下記から1994年に公刊されているが(Originalは1989年にフランスで刊行)、序文にあるように、これは、1976年にバンクーバーで開催された国連のHuman Settlements:人びとの居住・定住に関する国際会議において、提示された提言が基になっている。

  註 英国のINTERMEDIATE TECHNOLOGY PUBLICATIONSの出版。
     [ISBN 1 85339 193 X]で調べられる。
     私が購入したのは1995年ごろ、7500円でした。

要は、経済的に恵まれていない地域の人びとにとっても、earthすなわち「土」は容易に得られる材料であり、earth constructionすなわち「土を使った工法」は、誰にでも自分たちで(自力で)つくれる工法である、として推奨し、なおかつ、実施するにあたって気をつけなければならない点を、各面から考察、具体的に示したガイドブックである。
その内容の密度の濃さは、以下に紹介する目次を見るだけでも分る。

この書の紹介する「土を使った工法」は、いわゆる「版築:練った土を形枠内に詰めて乾燥させる工程を繰り返す方法」、「土の塊を積む方法」、「日乾し煉瓦(土の塊)を積み上げる方法」、「焼成煉瓦を積み上げる」方法など多様で、それらを各種の手段で補強する方法も含まれる(補強材は、木材、竹、鉄材など、その地で得られるもの)。後掲の「目次」の8.Construction methods を参照。

どのような方法を採るかは、「地域の状況(気候、地質、生活様式、経済状態・・)に応じて決まる」のであって、工法に優劣の順番はつけていない。
そして、「それぞれの地域で、その地域の現状に応じて、よりよい暮しが行えるようにすること」というのがこのガイドブックの基本方針・思想であることは、大いに注目してよい。
なぜなら、日本の各種の「指針」「指導」は、地域の特性や暮しの様態を見ずして、一律に推し進めようとするところが特徴だからだ。
これは、一言で言えば、研究者の、質の違い、視野の狭さ、あるいは専門性に対する誤解・・に因があるのだろう。

それはさておき、目次を紹介する。

1. Earth Construction
   01 Diversity(多様性)
   02 Universality(普遍性)
   03 History:Africa 
   04 History:Europe and the Mediterranean  
   05 History:The East
   06 History:The Americas
2. Soil
   01 Soil formation(土の組成)
   02 Nature of Soil(土の性質)
   03 Air and Water 
   04 Organic and mineral matter 
   05 Clay types
   06 Binding forces 
   07 General properties 
   08 Fundamental properties
   09 Geotechnical classification(地質学的分類)
   10 Pedology classification(土壌学的分類)
   11 Specific soil types(特有の名を持つ土:ラテライト=赤土など)
   12 Distribution of soils(世界の土壌分布図)
3. Soil identification(土の検査・鑑定)
   01 Prospecting(試験体の採取)
   02 Preliminary tests(予備的テスト)
   03 Field classification procedure(屋外・現場での分類手順)
   04 Visual analysis of fines(試供体の視認分析)
   05 Texture:grain-size distribution analysis
   06 Texture:diagrams
   07 Plasticity
   08 Compressibility
   09 Cohesion(粘度・粘性)
   10 Mineralogy (鉱物性)
   11 Chemistry 
   12 Geotechnical classification
4. Soil stabilization
   01 Principles
   02 Mechanisms
   03 Densification by compaction
   04 Densification by grading
   05 Fibres(繊維、すさ)
   06 Cement(接合材):principles
   07 Cement:practice
   08 Lime(石灰):primciples
   09 Lime:practice
   10 Bitumen(瀝青、アスファルト):Principles
   11 Bitumen:practice
   12 Resins(樹脂)
   13 Natural products(自然素材)
   14 Synthetic products(合成素材)
   15 Commercial products
5. Soil suitability
   01 Soils:general evaluation
   02 Construction methods
   03 Rammed earth(突き固めた土:版築)
   04 Adobe bricks(アドービ、日乾し煉瓦)
   05 Compressed earth blocks
   06 Stabilization:general evaluation
   07 Fibres annd mineral aggregates(すさと骨材)
   08 Cement
   09 Lime
   10 Bitumen
6. Tests
   01 Principles
   02 Identification and development tests
   03 Performance and characterization
   04 Control and acceptance tests
   05 Laboratory equipment
7. Characteristics
   01 Earth as a construction material
   02 Mechanical properties
   03 Static properties
   04 Hydrous properties(含水状態の特性)
   05 Physical properties
   06 Thermophysical properties
   07 Norms,standards and recomendations
8. Construction methods
   01 Earth construction methods
   02 Dugouts(壕:地面を掘る)
   03 Earth sheltered space
   04 Fill-in(隙間に充填 ex現在のCBなどと同じ方法)
   05 Cut blocks(固い地面をブロック状に切る)
   06 Compressed earth(版築に相当)
   07 Shaped earth(練土を成型)
   08 Stacked earth(土の積み上げ)
   09 Moulded earth(鋳型による成型:日乾し煉瓦、焼成煉瓦など)
   10 Extruded earth(押出し成型)
   11 Poured earth(柔らかい練土を注ぐ:コンクリートの打設と同じ)
   12 Straw clay(藁を粘土で固める:セメント木毛板に類似)
   13 Daubed earth(塗り土)
9. Production methods
   01 Production technology
   02 Excavation and transport(掘削と輸送)
   03 Pulverization and mixing(粉砕と混合)
   04 Rammed earth:production and products
   05 Rammed earth:preparation of the earth
   06 Rammed earth:principles of formwaorks
   07 Rammed earth:types of formworks
   08 Rammed earth:formworks for corners
   09 Rammed earth:rammers
   10 Adobe:production and products
   11 Adobe:preparation of the earth
   12 Adobe:manual production
   13 Adobe:mechanized production
   14 Compressed blocks:production and products
   15 Compressed blocks:pulverization(粉砕)
   16 Compressed blocks:screening and mixing(ふるいかけと混合)
   17 Compressed blocks:principles of compression
   18 Compressed blocks:types of press
   19 Compressed blocks:manual press
   20 Compressed blocks:motorized press
   21 Compressed blocks:mobile units
   22 Compressed blocks:industrial units
   23 Factories
   24 Production-product quality relationship
10. Design guidelines
   01 Water pathology(水のもたらす症状)
   02 Structural pathology(構造に生じる症状)
   03 Foundations:priciples
   04 Fouundations:design details
   05 Base courses:principles(根積み:基底部)
   06 Base courses:desin details
   07 Walls:principles and mortars
   08 Walls:brickwork
   09 Walls:corners and partitions
   10 Walls:reinforcements and ring-beams(補強材と輪状補強)
   11 Openings:principles
   12 Openings:design details
   13 Openings:arches
   14 Ground floors:principles
   15 Ground floors:design details
   16 Floors:priciples
   17 Floors:design details
   18 Flat roofs:principles
   19 Flat roofs:design details
   20 Pitched roofs:principles
   21 Pitched roofs:design details
   22 Vaults:principles
   23 Vaults:design details
   24 Cupolas(半球天井・ドーム):principles
   25 Cupolas:design details
   26 Fireplaces
   27 Plumbing and electrical systems(給排水および電気)
   28 Renovation and conservation(修繕および維持管理)
11. Disaster-resistant construction
   01 Earthquakes:origins and mechanisms
   02 Earthquakes:natunal origins,magnitude and intensity
   03 Earthquakes:impact on soil structures
   04 Earthquakes:pathology of structures
   05 Earthquake-resistant engineering measures
   06 Principles of earthquake-resistat construction
   07 Earthquakes:some recomendations
   08 Storms:origins and mechanisms
   09 Hurricanes:some recomenndations
   10 Floods: origins and mechanisms
   11 Floods:some recomenndations
12. Earth wall finishes
   01 Basic considerations
   02 Surface protection
   03 Plasters and renderings(漆喰塗壁と下塗り)
   04 Earth renderings and plasters
   05 Paints and sealers
   06 Whitewashes(液状にした石灰)
   07 Slurries(液状にした土)
   08 Pathology
   09 Good practice
   10 Lathing and anchoring(木ずりなど下地づくりとアンカー)
   11 Finishes and decorations
   12 Tests
Bibliography
  
各節は、図と説明を見開き単位にまとめているので見やすい。
そのいくつかを、おって紹介する。     
コメント (2)
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煉瓦・・・・その活用

2007-03-14 01:03:20 | 煉瓦造建築

昨日紹介した小坂鉱山の煉瓦造建築の煉瓦は、小坂の現地で焼成されたものだ。色から見て、かなり良い焼き上がりの煉瓦である。

煉瓦というと、明治の「近代化」を連想するのが普通だ。
私自身も、喜多方で農村の中の煉瓦造を見たときは、なぜ農村に煉瓦造?という疑問が湧いたものである。この疑問が、昨年の12月に紹介した喜多方の煉瓦造:煉瓦蔵=木骨煉瓦造を調べるきっかけであった。

喜多方を調べ、そして小坂を見て、あらためて煉瓦という材料の持つ特性・特徴を知るようになった。また、なぜ数千年にわたり、途絶えることなく使われてきたのかもおぼろげながら分かってきた。

煉瓦の良さは、先ず、原料:土が足元にあること(どこにでもあること)、土を練り成型して焼けばできること、それを積むのは誰にもできること、積めばそのまま仕上がりになること、その上、積む人の気持ちが仕上りに表れること、さらに、耐久性があり、時とともに貫禄がつくこと、そして、万一壊すことがあれば再び土に帰ること・・・などが挙げられよう。
 
喜多方の煉瓦造に触発され、応用してみた建物が上掲の写真である。竣工後20年を越えたが、今のところ煉瓦壁(1枚積み)は亀裂も入らず健在である(目地には、喜多方にならい、砂漆喰を使っている)。

この建物では、煉瓦は1階の内法まで積んでいるが、2階建ての建物で2階まで木骨式で設計したところ(1階は1枚半積みで鉄筋補強、2階は1枚積み)、確認申請時、検査官は、これは組積造だからRCか鉄骨の臥梁で補強しろ、という。
では、煉瓦半枚貼りならいいのか、と訊ねると、それならいいとのこと。かえって剥落の恐れがあると思うがそれでいいのか、と訊くと、法律的にはいい、との返事。争っても時間の無駄、やむを得ず、鉄骨を上部にまわして片がついた。

設計の「確認」というのはいったい何なのか?いつも不思議に思う。
設計を「確認」しておきながら、ことが起きると設計者だけに責任を押し付ける。ならば、最初から、一切を設計者に任せればよいのである。そして、その方が、近代以前のように、設計者そして設計の質が上るはずだ。

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「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺

2006-12-22 03:55:08 | 煉瓦造建築
 
前2回で載せられなかった写真を紹介。
喜多方は、歩くとまだたくさんの煉瓦を使った建物に逢うことができる。
喜多方の「実業家」たちの仕事に魅せられて、真似をしてみた設計例を、いつか紹介する予定。

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「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2

2006-12-19 04:47:33 | 煉瓦造建築

「煉瓦」は、日本にとって新しい材料だった。
「煉瓦」という語自体も、新しくつくられた和製漢語の一つである。
ただし、似たような材料としては、古代に中国から伝えられ使われた「磚(せん)」がある。これは、厚めの平瓦のようなもので、基壇などに使われていた。しかし、磚の使用はすぐに途絶える。

煉瓦は、当初輸入に頼っていたが、重量物ゆえに輸送費がかさみ、建設地の近くで焼成するようになる。
最初の煉瓦焼成は、安政年間(1850年代)に幕府が長崎製鉄所を建設する際に、建設地近くの瓦窯で外国人の指導の下で焼かれたという。
当時の呼称は「煉石(れんせき)」。その後「煉化石」、「煉瓦石」と転じて、最終的に「煉瓦」に落着く。

その後、明治初頭にかけて近代化のための製鉄所や工場などが外国人の指導下で建設され、その際にも、建設地周辺で焼成されている。
「富岡製糸工場」(群馬県富岡市)もその一つ。
原料の土は、一般に沖積土の砂質の土が向いているので、河川敷に近い所に窯は設けられることが多い。

1872年(明治5年)、東京銀座に煉瓦街建設が始まり、煉瓦の大量生産に適するホフマン窯が現在の葛飾区小菅に建設、供用を開始している。
ホフマン窯とは、いくつかの焼成窯が輪状に並び、端の窯から順に焼成してゆくように考案された通称「輪焼窯(りんしょうがま)」のこと。小菅の窯は現存しない。

明治政府の目指す建物の近代化は、当初「煉瓦造建築」が主であったため、煉瓦の安定大量供給が必要になり、1887年(明治20年)、埼玉県深谷・上敷免(じょうしきめん)に「日本煉瓦製造株式会社」が操業を開始する(この会社の創設には渋沢栄一が関係している)。ここの焼成窯もホフマン式で、現在重要文化財として保存されている。

なお、栃木県野木町(茨城県古河市に隣接)には、少し遅れて建設された「下野煉化(しもつけれんが)製造所」のホフマン窯があり、これも重要文化財として保存されている。いずれの窯も、月間20~40万本の煉瓦を製造したという。

ちなみに、先に紹介した(10月28日)信越線・横川の「丸山変電所」をはじめ、碓氷峠越えのトンネルや橋梁に使われたのは、「日本煉瓦製造株式会社」の煉瓦である。なお、つい最近、日本煉瓦は煉瓦生産を終結したとのこと。

前置きが長くなったが、では、なぜ喜多方に煉瓦造建築が生まれたか。
それには、鉄道の敷設工事と、そして会津の風土とが大きく関係する。

1872年(明治5年)の新橋・横浜間の開通以後、約50年間にわたり、従来の街道に代る鉄道が全国各地に敷設されるが、そのトンネル、橋脚などの土木工事の主材料は、煉瓦あるいは石であった(まだコンクリートはなかった)。

会津盆地にも、いわき(以前の平)~郡山~新潟を結ぶ「岩越(がんえつ)鉄道」が計画される(「岩」は岩代、「越」は越後。この鉄道は、現在の磐越東線と西線にあたる)。
会津若松~喜多方間が着工されるのは1902年(明治35年)完成はその2年後。さらに喜多方~新津は大工事で5年の工期を要している。そして、コンクリートのなかった時代、この敷設工事は大量の煉瓦を必要とした(現在でも、沿線にはトンネルや橋脚に往時の煉瓦を見ることができる)。
この煉瓦を焼いたのが、地元の「瓦窯」であった。

阿賀野川が越後平野に出るあたりに五泉(ごせん)、安田という町があるが、ここはすでに江戸末期以来、瓦の産地として栄え、いわば瓦の先進地である。

瓦は古代より上流階級のものであったが、一般の人びとの建物でも茅葺き、板葺き屋根から瓦への移行は、その耐久性の点でも当然の流れであった。
会津は、古来、阿賀野川水運によって、越後との結びつきが強い地域であったが、明治20年代初め、越後出身の樋口市郎氏が、喜多方で瓦焼成の事業:「樋口窯業」を開設する。27歳のときとのこと。会津も瓦葺きへ変ると見込したものと思われる。

この樋口窯業へ、「岩越鉄道」の敷設工事は、必要な煉瓦の生産を依頼することとなり、樋口窯業は、瓦とともに煉瓦の生産を行うことになる。明治30年代のことである。

鉄道工事は、それにともなう煉瓦積工事に、煉瓦積に習熟した職人・技能者を必要とするが、それに応えた人物が、喜多方出身の田中又一氏であった。
彼は、東京で清水組で修業し帰郷、樋口窯業に出入りし、樋口市郎氏に煉瓦にかかわるノウハウを伝授したようである。

福島県は、常磐線沿いの「浜通り」、東北線沿いの「中通り」そして「会津」に大きく区分されるが、前二地域が太平洋側気候に属するのに対し、会津は日本海側気候、豪雪地帯に属する寒冷の地である。
それゆえ、会津地域の建物には、寒冷に対処するために木造建物の外周を土壁で塗り篭めるいわゆる「土蔵造」が多くあった。
「土蔵造」は一般に、軸組が仕上がってから完成まで3年かかると言われ、その分費用のかさむ造りである。 

樋口市郎氏と田中又一氏のチームは、多分田中氏の示唆があったことだと思われるが、煉瓦の建物への利用を考える。
そしてその最初の試みとして、地元の小学校(二階建て)を煉瓦利用の建物とすることを提案、実施に移す。1902年(明治35年)、「岩月小学校・西校舎」が竣工する。これが喜多方式木骨煉瓦造の最初の事例となる。

その際、普通煉瓦の凍害に弱い点を補うため、乾燥させた煉瓦素地に釉薬を塗る方法が採られ、それが独特の色彩をつくりだす。釉薬は瓦にも施され、渋い色彩をはなっている(釉薬には「益子焼」と同じ灰釉が使われている)。
この前例のない試みを支えたのが、当時の同校校長大西茂吉氏で、大西氏は、「訓盲学会」を設立するなど進取の気風を持った人物であった。

この学校は、工期が早い、しかも性能が「土蔵造」と変らない、という「煉瓦造建築」の特徴:有効性を広める大きな役割を担うことになる。
以後、「木骨煉瓦造の建物は、土蔵と変らない恒温恒湿性能を持ち、しかも、3ヶ月でできる(木造本体完成後)」という特徴が評判をよび、「土蔵造」に代る工法として、樋口窯業の近在を中心に、字のごとく波状に広まっていった。

東京では、洋風建築と見られた煉瓦造建築も、喜多方ではまったくそれとは無関係、煉瓦を単なる新しい一材料として建物づくりに使ったにすぎなかった。
小屋組へのトラスの利用も、豪雪地帯の架構法として向いている、いわば「適材適所」という考えから採用されたと言ってよいだろう。

そして、このように、洋風、様式などにこだわらないところこそが、「実業家」の実業家たる所以、実業家の真骨頂と言ってよい。それは、19世紀の西欧のengineerたちの鉄やガラスへの対処の仕方に共通するところがあるのではないだろうか。

しかし、1970年(昭和45年)、そのころ盛んになった自動車運送によって、価格が廉い地域外の大量生産の瓦が会津に入るようになり、樋口窯業は廃業に追い込まれる。
以後、補修等の需要にこたえるべく年に数回の焼成を行ってきたが、現在はほとんど行われていない。しかし、今もって、喜多方煉瓦の潜在的な需要は、相当に多いという。

以上の、写真、図版、解説とも、以下の書によっている。ここでは省いた煉瓦生産の詳細等も同書に書かれている。
①北村悦子「会津喜多方の煉瓦蔵発掘」普請帳研究会刊
②北村悦子「いまに生きる明治の浪漫・喜多方の煉瓦蔵」喜多方煉瓦蔵保存会刊
③「住宅建築」1989年11月号 特集・煉瓦造建築再考  
   ①は市販されていない。②は喜多方市内で購入可。
   
   註 ②も、今は購入できないようだ(08年8月追記)

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