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とり急ぎ・・・・喜多方・登り窯:煉瓦焼成の映像

2009-01-11 19:01:07 | 煉瓦造建築
福島県の「会津地方振興局」のHP(下記)に、焼き上がり・窯出しまでは、写ってはいませんが、焼成途中の様子が動画で載りました。
更新されるまで、しばらくは見ることができると思います。

「会津地方振興局」

なお、数百枚の焼成過程の写真を現地からいただいていますので、いずれ整理して載せたいと思っています。


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とり急ぎ・・・・喜多方登り窯再稼動:喜多方市の広報誌による報道

2008-12-05 17:38:54 | 煉瓦造建築

喜多方市の広報誌「広報きたかた」の12月号(上掲はその表紙)に、今回の「登り窯」による煉瓦焼成が報告されています。
表紙は薪を窯に投入する作業。喜多方工業高校の生徒さんたちだと思います。

下記のうち1~7ページが特集記事です。

「広報きたかた:平成20年12月号」

また、喜多方市商工課HPの「地域資源活用」の中で、「登り窯・煉瓦関連施設」について簡潔に紹介されています(下記)。

「登り窯・煉瓦関連施設(近代化産業遺産)」

詳細はいずれ。

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とり急ぎ・・・・喜多方・登り窯:窯出し速報

2008-11-30 15:39:06 | 煉瓦造建築

登り窯の煉瓦の窯出し作業は、昨日、ほぼ終ったようです。

いずれ、詳細な報告をいただけることになっていますが、
とり急ぎ、
今日の地元紙「福島民友」と「読売新聞・福島県版」に写真入で紹介されていましたので、そこから写真を転載させていただきます。

久しぶりに、しかも素人が焼いたにしては、上出来だったようです。

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とり急ぎ・・・・「産業の《近代化》」が「近代化産業遺産」を生んだ!

2008-11-27 17:38:34 | 煉瓦造建築
喜多方の登り窯は、「近代化産業遺産」の指定を受けている。
実は、この「近代化産業遺産指定」のニュースを初めて知ったとき、私の中に「奇妙な違和感」が生まれたのをはっきりと覚えている。

喜多方の登り窯が、今から四半世紀前に操業を中止せざるを得なくなったのは、実は、「産業:ものづくり:の《近代化》」の結果である。「産業の《近代化》」が、この登り窯を《近代化産業遺産》化してしまったのだ。
はたして、「近代化産業遺産」指定制度にかかわった人たちの中のどれだけが、この「事実」を認識しているのだろうか。

私は、今回の「指定」により、「喜多方・登り窯」が単なる「観光資源」となり、ライトアップなどで人寄せパンダ化することを危惧していた(今でも)。観光客が増えることは、決して「地域の活性化」ではない、と私は思うからだ(註参照)。「登り窯の再稼動」という言い方をしてきたのもそのためであった。

   註 「風景・環境との対し方-2・・・・『観光』」

ところが、先ほど、その危惧を拭き払ってくれるような内容の「現場報告」が、現場の統括者からメーリングリストを通じてあったので、紹介させていただく。後半を一部割愛します。


皆様こんにちは、金親です。

週末の窯焚き、お疲れ様でした。

前日の大雪に始まり、神事の時の奇跡的な快晴、
夜中の雷雨と、天候もドラマチックな演出をしてくれた、
今回の窯焚きでした。

十数年振りに命を吹き返した窯が、何事も無く、すんなりと行くはずが無く、
案の定、深夜に大いなる試練を、我々に与えてくれたわけですが、
何とかそれを乗り越えた後は、とても順調に運んだ為、
最後の窯などは、かなりの余裕を持って、焼成することが出来ました。

事前の予測よりも、順調に事が運んだために、23日深夜からの焼成作業を
御願いしていた方達には、折角の機会を減らすことになってしまい、
大変申し訳ありませんでした。

参加された方々は、中学生から米寿を迎えた方まで、各年代にわたり、
そして近隣の方から、遥か遠方より来られた方々まで、多彩な顔ぶれでした。

今回のプロジェクトは、実行してみて初めて分る、といいますか、
「腑に落ちる」ことが沢山有るのですが、
今回の窯焚きは真に、その連続でした。

抽象的な言い方になりますが、
「焼き物とは何ぞや」、「登り窯とは何ぞや」、そして「ものづくりとは何ぞや」
という問いへの解答が、おぼろげながら見えて来た気がします。
参加された一人一人の体の内にも、湧き上がって来る「何か」が有ったのでは
無いでしょうか。

窯焚きという炎との対峙は、勝負というよりも対話に近い感覚を覚えました。
「もの」にも心があるのか、はたまた関わる人の意識が乗り移るのかは、
解りませんが、明らかに、こちらの心構えや所作に、反応している様に思えました。

思えば焼き物とは、とてもシンプルで根源的な要素に満ちています。
日(天日)、月(気侯)、火、水、木(薪)、金(粘土や釉薬の元)、土(粘土)
たったこれだけのものがあれば、出来るのです。
そして、これらは自然そのものです。

人は自然の中で生きています。(人そのものも自然です。)
そして、人は何かを創らずにはいられない、
時には生きるための道具を、時には自然と同調するための何かを、
その作業が大変であればあるほど、自然との調和が深まっていき、
自然の一部となり、心の平安を保つ事が出来るのではないでしょうか。

今回の窯焚きで、中学生、高校生が、徹夜をしてしかも真っ黒になりながらも
一心不乱に薪をくべている姿を見て、また遠方より来て、始めて出会った人
同士が、何の違和感も無く共同で作業に取り組んでいる姿を見ていて、
ふと、上のような思いがよぎったのです。

これだけ多くの人を惹きつけるのは、焼き物というものづくりが
人にとって根源的な、本能を呼び覚ますような行為だからなのかも知れません。

煉瓦の製造ということにおいて、近代化産業遺産に指定されたこの窯ですが、
始まりは、瓦の製造であり、登り窯という焼成技術なども、江戸時代から
連綿と続けられてきた、庶民に定着していたものづくりの一形態です。

近代化というものが、ものづくりの工業化、産業化によって成し遂げられ、
殊に日本において、短期間に成就することが出来た背景には、
この窯で見られるような、ものづくりにおける、当時の庶民の底力といったものが
有ったのではないでしょうか。

そういった意味で、この窯は近代化以前の姿を宿している、貴重な遺産であり、
しかも未だ生きていて、近代化への道筋を追体験できるという、稀有な存在です。

近代化以来進めて来た、ものの大量生産、大量消費の文明が、
今まさに崩壊しようとしている、最近の世界情勢ですが、

この三津谷の登り窯で、ものづくりの原点を追体験することで、
近代化に至る過程で、落とし、忘れてきた「何か」を再発見できそうな気がします。

ただ単に煉瓦を製造して販売するだけでは、この窯の存続は適わないでしょう。
しかし、体験ということに目を向けた時、この窯の存続へのヒントがありそうです。

理屈めいたことを言わなくても、既に多くの参加している方々の口からは、
そのような事が、語られ始めています。
来年に向けての提案も、多数寄せられています。

・・・・(後略)・・・


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とり急ぎ・・・・喜多方登り窯・無事焼成終了:続報

2008-11-26 06:44:05 | 煉瓦造建築

昨夜、「とれたて」の煉瓦の写真が送られてきました。
まだ全部を窯出ししたわけではなく、孔をあけて窯の中を覗いて撮ったようです。
明日、27日からが窯出し。待ちきれない・・・・。
上の写真がそれ。
どうやらうまくいったらしいです。窯出しが楽しみ。

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とり急ぎ・・・・喜多方登り窯・無事焼成終了

2008-11-24 12:36:31 | 煉瓦造建築
11月22日午前から始まった喜多方登り窯の再稼動、第一回の火入れ:焼成は、今朝ほど無事終了した、との連絡がありました。

雪が降ったり雷がなったり、窯の温度が十分上がらない時があったり・・・と、大変だったようです。
おって、詳細の報告をきけると思います。

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とり急ぎ・・・・喜多方・登り窯再稼動:現在の動き

2008-11-09 20:15:01 | 煉瓦造建築

[文言追加、図版更改 11月10日 3.55][現場連絡メール コピー転載 10日 9.40]

喜多方は、すでに冬の気配だった。
日帰りで喜多方登り窯を訪ねてきた。
片道280キロほど、以前は5~6時間はかかったが、今は常磐道、磐越道経由で3時間半。磐越道は人家の少ない今は盛りの紅葉の山中を走る。

登り窯も秋の景色に馴染んでいた。
久しぶりの訪問。登り窯の覆屋の屋根は鉄板葺きに変っていたほかは昔のまま。
登り窯の南側で何やら作業をしている人たちは、喜多方工業高校の学生さんたち。
彼らはボランティアで、学校ぐるみで今回の煉瓦焼成へ向けての活動に参加している。

11月23・24日の焼成へ向けての準備が、少し遅れ気味ながら進んでいた。

主な作業は、煉瓦素地に釉薬を付ける作業、施釉済みの煉瓦素地を窯の中に運び積む作業、そして焼成用の薪をつくる作業・・・・。
人手が足りない・・・。

釉薬を付ける作業は、中段の写真のa 。桶にためた溶いた釉薬に煉瓦の面を漬ける。施釉するのは小口と前面の2面。釉薬は益子の釉薬。
簡単に見える作業だが、一個の重さが2キロを越えるから、長いことやっていると手首、指の付け根が痛くなる。そして、付けた釉薬内に気泡ができないように注意が必要。

施釉した煉瓦は窯内に運び、よく火が通るように並べる。そのために、窯の外で樋口憲一氏(樋口窯業の後継者)から並べ方を教わった。予行演習である。写真 b はそのときの写真。
写真 c は、積み込み作業。d は積み込みの途中。これから手前まで約1千本積む。

かわって、e は薪割機を使っての薪割り作業。この機械は市販されているとのこと。長さ1mほど。
機械の端にはV字型をした刃が据えられていて、そこへ向けて断面が樋のような長めの薪受け台が付いている。そこへ大きい薪を乗せ、油圧で刃に向けて押し付ける。たしかに力はいらない。木目を見て割る位置を見極めるのがコツのようだ。
この機械を大型化したのが下段の写真。

小割にした薪は、投げ入れやすいように、窯の近くに積んでおく。写真 f は、通路に沿って積まれた薪の山。 h も薪の積まれた通路。
薪の大半は赤松材(地場産)だが、製材の端材も使われる。端材は小割にせずそのまま使う。その写真が g 。
写真 i は、暗くて見難いが、焼成の最初に使われる重油バーナーの点検作業。

薪の赤松材は、大きいもので直径30~40センチ。これを長さ50~60センチに輪切りにする。そしてそれを割ることになるが、これが大ごと。斧や鉈では大変である。
そこで見かねた喜多方工高の先生が、町の機械メーカーの社長さんに大型の薪割機がつくれないか相談して生まれたのが下段の写真の機械。
既成の中古部品を集めてつくったとのこと。原理は市販の小型薪割機と同じ。試作機を何度かつくったようだ。現場は強い。
ペンキ塗りは喜多方工高の学生さんたちが担当。

写真の黄色に塗られた部分に丸太を置き、油圧で押すと、丸太は右側にある大型の刃(V字型)に押し付けられ、割れてゆく。割れた材は、左右の受け皿に転がる。2番目から5番目の写真は1本の丸太が割れてゆく過程。

最後の写真は、補助具を付けたときの作業。
この機械は既成の部品でつくったため、油圧のピストンのストロークが短く、場合によると薪を最後まで押せない。そこで、そのときのために用意されているのが青色の円筒状の部品。写真はそれを使っているときの様子。
割られた材は、斧、鉈、先の小型の機械で小割にする。


人手が足りないというのに、大した手伝いもできないまま、窯を後にしたのは、あたりに寒風が吹きとおりだした夕暮れ時。
ほかの方々は、日が暮れるまで、というより、手先が見えなくなるまで、作業を続けるとのこと。
これからは夜業も要るかな、というのは段取りをあづかる現場の統括者(写真の大型薪割機を操作してみせてくれた方)の話。
昼ごろから始めた窯詰めの作業は、200本ほど積めた、とのことだった(先ほど、夜業もやって、9日の夕方までで1000本になったとの連絡があった)。


〇人手が足りません!
〇現場に関心のある方へ
  現場の連絡先は、以下を経由してください。
   NPO法人 まちづくり喜多方 0241-24-4541
   喜多方市観光協会      0241-24-5200

先ほど受けた現場の生々しい状況連絡メールをコピーします。
なお、文中の金親氏は現場の統括者、山中氏は事務局の統括者です。

№1
本日作業された方々はお疲れさまでした。窯詰め、釉薬掛け作業が日程的に大ピンチです、22日の火入れに窯詰め作業が間に合わない、という恐ろしい事態
が懸念されます、夕方5時以降でも現場に行ける方は1時間でも2時間でも作業応援お願いします。金親さんが夕方以降現場に詰めます。山中


ヘルプページ: http://help.yahoo.co.jp/help/jp/groups/
グループページ: http://groups.yahoo.co.jp/group/renga/
グループ管理者: mailto:renga-owner@yahoogroups.jp

№2
皆様今晩は、金親です。
この週末も延べ30人ほどの方が参加されました。
皆さん、本当にお疲れ様でした。

山中さんのおっしゃるとおり、きつい状況ですが、打開していくしかありません。

若干、補足します。

この週末から、施釉、窯詰めを開始したわけですが、最初の数時間は、
樋口さんに、レクチャーを受け、段取りを検討するなど、殆ど作業が進行しませんでした。
ようやく軌道に乗ってきたのが、午後でしたから、土日合わせて、賞味10時間の作業でした。

この間、約1000個の素地を、窯詰め出来ましたので、100個/1時間かかったことになります。
平均、6人でこの作業にあたっていましたので、100個/6時間/1人ということになります。
残り、4000個ありますので、あと240時間/1人かかります。
4人で、毎日10時間の作業をしたとしても6日かかる計算です。
これだけの時間を費やす事は、不可能ですので、何か考えなければなりません。

ところで、今回の作業の流れの中で、樋口さん達が行っていなかった工程が一つ入っています。
施釉後、脇にはみ出した釉薬を丁寧に拭う作業です。より良い焼き上がりを目指して、
皆の同意の上に、自然派生的に組み込まれることになった工程ですが、
見ていますと、ものすごい手間がかかって、恐らく2人分位の手間が取られてい
ると思います。

樋口さん達が、不要と判断していたこの作業が、本当に必要なのでしょうか。
帰宅してからずっと、手元にある中森さんが焼いた煉瓦を見ていて、ふと気付いたのですが、
脇にはみ出した、この釉薬部分は、実は必要なのです。

煉瓦は積み上げるときに、目地を詰めますが、目地は、外面よりも引っ込むのです。
引っ込んだわずかな部分ではありますが、その部分は、雨や雪が着き易いのです。
つまり、この部分にも、釉薬がかかっている必要性があります。

確かに、脇に付いた釉薬を拭わない事で、焼成時に煉瓦同士が、
くっついてしまうリスクは有りますが、それでも煉瓦の実用性を採るべきです。
しかも、手間が格段に減ります。
恐らく2/3くらいになりますので、残り160時間/1人の作業で済みます。
次の週末(15、16日)は、12時間×10人位で作業できるでしょうから、それまでの平日で、40時間分の作業をすれば何とかなります。(多分)

4人集まって、2時間づつの作業なら、5日間です。
まあ、今までと同じスタンスで、出来る人が無理の無い範囲で作業をしていく、ということにしましょう。何とかなるでしょう。

皆さんは、どうお考えでしょうか。
それでは、もう少しの踏ん張り、がんばっていきましょう。

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とり急ぎ・・・・再び、「喜多方・登り窯再生プロジェクト」案内

2008-09-16 12:01:59 | 煉瓦造建築

「喜多方・三津谷登り窯再生プロジェクト」が、いよいよ現場で動き出しました。

作業上の資料になるかもしれない、と考え、四半世紀ほど前の焼成時の記録写真を探しだし、現場の方々へお送りしました。
上の写真は、その一部。1984年10月の焼成時の写真です。

夜を徹して、約40時間の大変な作業です。しかし、壮観です。

なお、最上段の写真の屋根瓦は、この登り窯で焼成された喜多方独特の瓦です。写真の色は、ほぼ実際の色の通りです。素焼きに益子焼の灰釉をかけたもの。
この登り窯は明治末年の製作、屋根は大正に架けられたものでトラス組です。

中段の4枚は、焼成中の写真、夜と翌朝の状況。
窯から出ているのは、水蒸気。素地に含まれる水分が、熱せられ気化したもの。
この段階では、水蒸気の出ている窯には火がまわっていません。

下の写真は、焼成終了後、窯出しされた後の登り窯。


このプロジェクトの活動の今後の具体的な日程等も載せましたので、関心のおありの方は、「喜多方市観光協会」(0241-24-5200)、または「NPO法人 まちづくり喜多方」(0241-24-4541)へ連絡してみてください。

また、「案内ポスター」を載せた先回の紹介記事は下記参照。
「とり急ぎ・・・・『喜多方・登り窯』再稼動の案内」

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とり急ぎ・・・・「喜多方・登り窯」再稼動の案内

2008-08-29 00:07:58 | 煉瓦造建築

会津・喜多方の「登り窯」と、その「再稼動」を目指しての活動について、以前紹介させていただいた(下記参照)。

「うれしい話・・・・喜多方・登り窯の再稼動」
「続・喜多方の登り窯の再稼動」

昨日(27日)、「三津谷煉瓦窯再生プロジェクト実行委員会」から、今秋、窯の火入れを行なう旨の連絡がありました。

上に、その「活動案内」のポスターを載せさせていただきます。

そこに、スケジュールなどが載っています。
詳細は、下記ホームページをご覧ください。

グループホームページ

また、関心のおありの方は、ポスター内に記載の連絡先、または当ブログまで、連絡ください。

なお、喜多方の煉瓦造の建物については、下記で紹介しています。
「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」
「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2」
「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺」

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会津柳津・軽井沢銀山の煉瓦造煙突-2

2008-04-17 10:07:20 | 煉瓦造建築

上の写真は、軽井沢銀山の煙突の近景と、煙突に使われていた煉瓦。

前回、100尺近い高さの煙突が崩落して今は半分の高さ、と書いたが、これは、地震などによる崩落ではない。
冬季、煉瓦の目地が凍結して破裂し、接着力を失ったからだ。煉瓦の中にも、凍結で破砕したものもあるかもしれない。
目地が凍結するのは、使われていた目地材がセメントモルタルではなく「砂漆喰」だからである。
煉瓦が破砕するのは、煉瓦が吸い込んだ水分が凍結するからだ。
写真の煉瓦に付着しているのが、漆喰の残滓である。つまり、漆喰の煉瓦への付着力は強い。今回、写真を撮るために、水で汚れを落したけれども、漆喰は剥がれなかった。

製錬所が稼動を続けている間は、このような崩落は起きなかっただろう。煙突は、いつも暖められているからである。
そして、稼働中であるならば、セメントモルタル目地よりも、漆喰目地の方が、強かったと思われる。以前触れたように、漆喰目地には弾力性があるからだ。また、煉瓦に、喜多方のように釉薬を施すなどの措置が採られていたら、煉瓦の破砕も防げただろう。

この煉瓦は、煙突のまわりの雪の中に落ちていたものを、参考のためにいただいてきたもの。かなり上質の煉瓦で、最近ホームセンターなどで見かける外国産の煉瓦よりも数等良質である。


煉瓦のわきにスケールを置いてあるが、この煉瓦は並みの大きさではない。
約9寸4分×4寸7分、厚さ2寸3分強、メートル法では、280㎜×140㎜×70㎜。三辺の比率が、4:2:1になっている。体積:0.002744㎥。重さは4.96kg、約5kgもある。

現在の日本煉瓦製造KK製の普通煉瓦は210㎜×100mm×60㎜、体積:0.00126㎥。重量は2.5~2.6kg。
つまり軽井沢銀山の煉瓦は、一見したところ、大きさはひとまわり大きいだけだが、体積は2.18倍、重量で現在の煉瓦のほぼ2倍。つまり重い。

   註 現在の日本煉瓦の製品と同等の焼き上がりで、体積比で計算すると
      軽井沢の煉瓦は5.45kgになるはずだが、実際は、約5kg、つまり、
      軽井沢の煉瓦は、僅かだが日本煉瓦の製品よりも密度が低い。

では、軽井沢では、なぜ、このような大きさの煉瓦にしたのだろうか。
2月1日に、“EARTH CONSTRUCTION”では、強い煉瓦造の構築物をつくるには、煉瓦の大きさが大きい(目地が少ない)方がよい、と奨めていることを紹介した(「煉瓦造と地震-2・・・・“EARTH CONSTRUCTION”の解説・続」)。その際、私は、ただ、大きく重い煉瓦は作業性が悪い、と注釈を入れた。
軽井沢の煉瓦の大きさは、作業性よりも、出来上がる煙突の強さを重視したのかもしれない。
現在のようなクレーンや昇降機のなかった時代、おそらく、100尺もの高さの積み上げには苦労したと思われる。


ところで、軽井沢で使われている煉瓦はどこで焼成されたのだろうか。

これも、現在のような運搬機械、輸送システムのなかった時代、まして山中、別の所から運んでくることは考えられない。現地で焼成するしか手だてはなかったはずだ。
以前紹介したが、小坂鉱山でも、煉瓦は自前で製造していた。

   註 鉄道敷設にあたって必要な煉瓦は、当初、敷設する現地で
      焼成するのが常であった。それが、予想外に、喜多方に
      煉瓦造建築を誕生させたのである。
      鉄道敷設がある程度進行すると、日本煉瓦製造㏍などで
      焼成された煉瓦が、鉄道で輸送されるようになり、現地焼成は
      減る。
      碓氷峠のトンネル、橋脚の煉瓦は深谷の日本煉瓦㏍から鉄道で
      運ばれたものだが、富岡製糸場の煉瓦は、現地生産である。
      なお、碓氷峠の近く、安中、松井田にも、煉瓦造建物が多数ある。
      これも、鉄道敷設がもたらしたもので、日本煉瓦製造㏍製煉瓦が
      使われている。もちろん、工場があった深谷にもいくつかある。
      また、喜多方の煉瓦蔵の所在地を地図にプロットすると、
      煉瓦の輸送手段の発達(大八車~トロッコ~トラック)と
      ともに、製造煉瓦工場を中心として同心円状に建設数が増えて
      いることが分る。
      煉瓦造と輸送手段は、切っても切れない関係があったのである。


では、煉瓦という建材を、誰が軽井沢に紹介したのだろうか。
おそらくそれは、新しい銀の製錬法を軽井沢に導入した技術者である。もしかしたら、大島高任かもしれないが、今となっては謎である。


いま、とかく「建築材料」は、建築関係者に、《粗末に》扱われているような気がする。
何のためにどんな性能のものが必要か、それにはどうしたらよいか、などと考えることもないままに、商品カタログから、その歌い文句で、採用を決めてしまってはいないだろうか。昨日も「レディーメード庇」のカタログが送られてきた・・・。
何のことはない、カタログ掲載部材の足し算で建物ができてしまう。これでいいのだろうか。
学生の頃、もう40年以上前になるが、アメリカでは、カタログの図面を集めると設計できる、という話を聞いて呆れたことを覚えている。
何もない時代の人たちの方が、ものごとを真剣に考えていたように思えてならない。

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