日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成へ・1

2007-04-27 13:30:33 | 日本の建築技術の展開

 先に、鹿苑寺・金閣について触れた。しかしそれは、工法の視点に限ってであった。
 たしかに、金閣の建設は、実用の多層建築の具現化として、工法面で高く評価できるのだが、同時に、金閣をつくるにあたっては、それまでとはまったく別の思考が基にあった、と考えることができる。

 それは、単に建物を見る、あるいは視る対象としてではなく、見ること、あるいは、そこに在ること、によって心のうちに生じる感懐、「心象」を重視したつくりかた、と言ってよい。
 現在金閣は、その華麗な建物を「眺める」ことが主になっているのだが、当然、つくった立場では、外から眺めるだけが目的ではなかったはずである。そうであるならば、何も二層、三層に床を張る必要もなく、古代同様の方式で十分だからである。

 上層を実用に供する建物は、すでに鎌倉時代末から南北朝(室町前期)に、禅宗寺院の建物に存在していたようで、実物はないが、図や絵として残されているという。
 また、「自然の一画を建物として囲いとる」つくり方・考え方、普通の言い方をすれば、いわゆる「庭」を考えながら「建物」を考える建て方も、「山水:自然の中において生きることを通じて人格を形成する」という禅宗の思想の影響が強いという。
 その典型として、いわばモデルとなったのが「西芳寺(通称「苔寺」)」。「西芳寺」は、後醍醐天皇と近く、後に足利尊氏が帰依した南北朝期の臨済宗の僧:疎石(そせき:夢窓国師)のかかわった寺。そして、足利義満は、「西芳寺」にならい鹿苑寺の前身、北山殿を営んだのである。

  註 西芳寺は、かつては修学旅行も訪れる「名所」だったが、
    苔の疲弊を避けるため、現在は拝観が許可制になっている。

 ややもすると武骨と思われる武士階級に禅宗思想がなじんだ、というのは不思議な気もするが、納得できるような気もする。

  註 建物に金箔を張る発想には、禅宗思想に共鳴する一方、
    権勢誇示欲も未だ捨て切れなかった義満の
    率直な気持ちのうちが垣間見えるように、私には思える。


 おそらく、空間にいて自ずと生じてくる心象を、空間造成、建物づくりの基幹とする考え方が芽生えてくるのは、室町前期:南北朝頃からで、私は、この時期が、単なる「視覚風景の造成」から脱して、「心象風景の造成」へと、建物づくりの意識が変る重要な転換期ではないか、と考えている。

 中世から近世にかけての建物づくりを、工法・技術だけではなく、このような視点も含めて触れてみたい。
 
  註 現在は、「心象風景造成」よりも、もっぱら「視覚風景造成」に
    夢中になっているように思える。
    だから、私には、「景観法」などというのは茶番に見える。

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日本の建築技術の展開-余談・・・・時代と工人たち

2007-04-25 20:57:06 | 日本の建築技術の展開
 時代の区分は難しい。

 1185年(文治1年)~1333年(元弘3年)、鎌倉を拠点とした鎌倉幕府が政権をにぎった時代、およそ150年間が通常「鎌倉時代」と呼ばれる。

 そして、1392年(明徳3年)~天正1年(1573年:足利氏が信長により倒された年)、足利氏が京都室町に幕府を開いていた時代の約180年間が「室町時代」。

 鎌倉幕府倒壊から室町幕府誕生の1392年までのおよそ60年間は、普通「南北朝時代」とも呼ばれるが、その間も「室町時代」の前期に含める見方もあり、また、足利幕府内のいわば内乱である「応仁の乱」(1467年~1477年)から足利氏滅亡(1573年)までを「戦国時代」と区分する場合もある。

 つまり誰が統治権・政権を握っていたか、で分けるのが通常の時代区分。だから、主が誰だと明言できないと、「南北朝・・」「戦国・・」などと言うことになる。
 
 別な見方をすれば、
 〇 古代は公家が専横の時代
 〇 鎌倉時代とは武家が力を持ち、独自の政権を東国に構え始めた時代、
   だから未だ、西の公家:朝廷と拮抗する
 〇 公家が力を盛り返し、武家が逆に公家に擦り寄るのが南北朝
 〇 公家に擦り寄り共存の形をとる、というより公家の名を借りて力を維持した
   のが室町時代
 〇 武家が完全に掌握するのが戦国以降
 ということになろうか。
 そして、戦国までが、大まかに「中世」、以後が「近世」。これも諸説あり。


 建築にかかわる工人たちは、中世の初めごろまで、つまり鎌倉時代ごろまでは、大きな寺院、領主の下で「座」を形成していたという。[文の訂正:4.26・1.35PM]

  註 座:商工業者などの同業組合。
    貴族・公家や社寺の保護を受け、仕事の独占権を持っていた。

 武家が勢力を増すとともに、工人たち、特に大工は、武家の下に再編され、特に築城にあたっては、各地、特に畿内の工人たちが集められた。その多くは、それまで寺院や公家の建物にかかわっていた工人たちである。そして、その中から、仕事を統括できる「棟梁」が現れる。

 公家・朝廷にもいわば朝廷御用の工人:「大工惣官」がいたから、武家側の「棟梁」との間には権力闘争も生じたこともあったらしいが、つまるところ、武家側、幕府の下に統制されることになる。
 中でも勢力を固めたのは、法隆寺大工の出で、後に徳川幕府の棟梁をつとめる中井正清の一統と言われる。そこには法隆寺・奈良周辺の大工が集められていたという。

  註 「大工」の原義は、
    「工」:「たくみ、ものづくりを専業とする人」たちの長官。
    したがって、「大工」は、元は、一国・一政府に一人。
    その後、「大工」は、特に木工に携わる職人の「通称」になった。
 
 もちろん、これは大きな工事にかかわる工人たちで、各地の村々には村人たちの建物にかかわる半農の職人たちがいたはずである。
 当然、ときには彼らも築城をはじめ、大工事には狩り出された。おそらく、そういった現場は、技術の交流の場、醸成の場でもあったろう。

 この時代以降、木工技術の大きな進展、道具の改良・開発、あるいは矩計の術(いわゆる「木割」)の案出などが見られるのも、このような社会状況が大きく影響していると考えてよいだろう。

 註 このあたりの詳細な展開は、下記の書が参考になる。
   専門的な事項が一般向けに分りやすく解説されている。
   上記解説も、この書に拠るところが多い。
   『日本の美術 №200 平井 聖 編 桃山建築』(至文堂)
   

 特に私が感じるのは、室町~戦国・安土桃山期の「自由闊達な技術の展開」である。それは、ここしばらく観てきた城郭の建築にもよく現われている(後に触れる方丈・書院・茶室も同様である)。
 こうでなければならない、とか、こうしなければならない、こうでなければ認めない、などという決めつけがないから闊達で、それゆえ進展を見るのである。

 工人たちが幕府の下に統制されたからと言って、技術の内容まで統制されたのではない。ここが、近・現代の日本との、つまり現在との、大きな相違点。

 注意したいのは、彼の時代、いわゆる現在のような「近代科学理論」はなかった、ということ。あったのは、「工人それぞれの現場経験と彼らの感性」。それを基にして、次から次へと進展を見たのである。


 私が今このようなシリーズを続けているのも、とかく「近代科学理論」優先の技術論、あるいは「法規」優先の技術論が主流となる現在、あるいは指定した一律の考え以外では考えてはならない、という「封建主義」が横行する現在、決してそこでは本当の技術の進展はないだろう、そういう状況から脱出しなければならない、と考えるからだ。

 では、そのためにはどうするか。
 〇 技術の歴史を顧みる。
 〇 歴史上の事実を知る。
 〇 人びとが皆、優れた感性・感覚を持ち、自ら判断し、
   行動していたことを知る。
 そして、「人びとは皆、真にscientific:科学的であった」ということも知る必要があるだろう。
 「ものごとを、筋道たてて、目の前の事実・現象と対照しながら考える」こと、それがscientificということ。
 そうであれば、自ずと自由闊達な展開が可能である。

 しかし今、「科学的とは、計算できること」という《信仰》が大きな勢力を占めている。目の前に何百年も健在の建物があっても、《それは非科学的な技術の産物だ》として黙殺する。
 これはどう考えても大きな間違い。むしろ、豊穣な過去の貴重な遺産から、謙虚に学ばなければ嘘である。科学的ではない。
 このシリーズを書きながら、今でも、新しい発見、というより、これまで理解不足、認識不足だったことにぶつかる。だから面白い作業になっている。
  

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日本の建築技術の展開-15 の補足・・・・姫路城の配置

2007-04-24 16:58:38 | 日本の建築技術の展開

 城郭建築は、基本は防備。だから、建物の計画もさることながら、一帯をどのように計画するかが問題。姫路城の場合は、城の建つ姫山一帯の堀や石垣、塀・門の計画。
 上掲の図は、一帯の概略配置図と天守に至る門の位置を示したもの。下の写真は、「ろの門」を経て「はの門」に向う途中。
 実際に行かれた方は知っていると思うが、経路は屈折が激しく、まわりの状況から判断して歩を進めると行き止まりになり、しかも末広がりの広場状で行き止まり、などと言う場所もある。もしもそれが大勢だと、末広がりを逆にたどることになるから、道を引き返すのに時間がかかる。そこを城から襲撃する・・というわけ。もっとも、姫路城が戦闘の場になったことはない。

 つまり、城を計画した人物は、人は常にまわりの状況を判断して歩を進める、次の行動に移る、一人のとき、大勢のときの行動の違い・・などについて、熟知していたことになる。そして、通常の行動の裏をかけば城の基本ができる。
 そういう観点で配置を観ると、興味深い。

 このような感覚・感性を、当時の人たちは、工人、一般の人を問わず、持ち合わせていたように思う。戦国時代を中心に生まれる書院、方丈、茶室などのつくりかたにそれが表われている、と私は思う。これらは、「人の行動に対する理解」を真っ当に具現化した例だ。それがあるから、逆の発想で城をつくれたと言えるだろう。
 城と書院・茶室が時を同じくしてつくられた面白い時代、戦国・桃山。

  註 城とは関係ないが、人の行動と空間:周囲の状況との関係について
    洞察した名著があるので、ついでに紹介。
    O・Fボルノウ著 大塚恵一ほか訳『人間と空間』(せりか書房)

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日本の建築技術の展開-15・・・・多層の建物:その5-姫路城

2007-04-23 23:19:03 | 日本の建築技術の展開

 城郭の話をしていて、姫路城に触れないわけにはゆかない。
 なにしろ、およそGLから15mの高さの天守台:石垣天端上に建つおよそ31m・6階建ての木造建築なのだ。
 石垣を含め、そっくりそのまま、確認申請をし、担当者の見解をきいてみたくなる建物!もちろんダメと言われるだろうが、ダメの理由をききたいのだ。解体修理の行われた昭和38年(1963年)まででも約350年、途中に何度かの修理があったにせよ、健在だったのだ。それでもダメと言うには、それ相応の理由がなければならない。

 それはさておき、姫路城は、中央を貫通する二本の大柱が有名である。
 この柱を含め、この建物の構造について、「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」の姫路城の項に、一つのエピソードとともに、きわめて明快な解説が述べられている(なお、上の図は、同書から転載、編集した)。
 そこで、以下に、該当部分をそのまま転載することにする。なお、読みやすいように、要所で、原文にはない改行を行った。

「・・・・
 構造面からみると大天守は南北の中心線上に、東西相対して並べた二本の大柱を基本として組立てられている。
 東大柱は礎石上で径がほぼ一メートルあり、地下から六階の床下にまで達する通し柱である。西大柱も同様な太さで、同じく六階の床にまで達しているが、東大柱と違い三階床の位置で継がれている。
 両大柱は各階とも周囲の柱と繋梁で繋がれ一体化されている。

 第二次大戦後の修理において、この途中で継がれた西大柱を新材にかえる予定で、その用材を木曾に求めたが、輸送の途中で事故のため折れてしまった。
 したがって、西大柱は再び途中で継がれることになったが、『修理工事報告書』によると、東西両大柱が周囲と繋梁で固められるので、六階床までの通し柱が二本立っている場合には、組み上げて行くとき、作業が困難になるとのことである。

 三階床で西大柱が継がれていたことと、全体の構造が三階で上下に別れていることとの間には構造上の関係があったのではないかと考えられる。
  (筆者註 この説明は、解説文の最後に述べられている)

 東西の大柱のほかには、架構全体を通すような柱はないが、二階あるいは三階分を通して全体の構造を一体化する役割を果している柱が数多くみられる。
 それらは大別して地階から二階(三階床下)までに入れられているものと、四階から六階に及ぶものとに分かれる。

 地階から二階への通し柱は、母屋廻りおよび外廻りにあり、中庭に面する北側外廻りでは地階から二階まで、母屋廻りでは地階から一階、一階から二階の二種、また、地階のない石垣上にあたる外廻り部分では一階から二階にかけて、通し柱を用いている。
 これらの通し柱は、地階から二階までを一体化するのに役立っている、

 一方、上方では四階から五階、五階から六階の、いずれも外廻りに、通し柱が用いられている。これらは、四・五・六階を一体化する役割を果している。
 しかし、三階の部分は上方下方いずれからも両大柱以外に通し柱はなく、すべて管柱である。三階をはさんで上下の構造は別々で、二本の大柱が繋ぎの役割を果している。
 ・・・・」

 この解説は、「土台、通し柱、差口による横架材、貫・・による架構」=「部材を一体化する工法」の一般的な解説として通用する。
 実際、城郭の部材は大寸であるが、近世の住居(二階建て商家)では、4.3寸角程度の柱で同様の工法が採用されている(いずれ紹介)。

 補足 同書所載の詳細図から判定すると、
    大柱以外の柱は、通し柱、管柱とも、1尺2寸角程度である。
    梁は大寸もので17寸×12寸。
    貫は厚2~2.5寸、丈5~10寸、
    
    なお、断面図のRC部分は、解体修理の際の後補。

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日本の建築技術の展開-14 の補足・・・・松本城の支持柱

2007-04-22 23:21:44 | 日本の建築技術の展開

 犬山城の紹介のときに、松本城の土台の支持柱について触れた。
 上の図は、松本城の天守台上の基礎伏図と土台・根太伏図。
 赤く印を付けたのが、土台を支えるため、GLから立上がる支持柱。土台には枘差しで納めていたという。
 図は、「日本建築史資料集成 十四 城郭Ⅰ」より転載・編集。
 
 GLから天主台まではおよそ5m。
 今なら、盛り土をしたあと、天守台上に墨出しをして杭を打つだろうが、この場合は、GL上で石垣とともに支持柱の位置を決め、盛り土をしているわけだから、相当に精度よい測量がなされていたことになる。
 しかも、角度を持って積み上げた石垣の天端は、建物四周の土台に見事に一致しているのである。

 先に紹介の丸岡城では、石垣天端は建物四周の土台と一致せず、土台に水切のための小屋根をかけて隙間を覆っている(4月15日付、丸岡城の図、写真参照)。
 ここに、この間の技術の進展の様子がうかがえるのではないだろうか。

 城郭の構築にかかわったのは、古代以来の社寺の建物づくりとは大きく異なり、おそらく武家の周辺にいた民間の工人たちで、城郭には、民間の工人たちの知恵が集積したのではないだろうか。それが、どちらかと言えば無骨な、しかし確実な城郭のつくりかたに現われているように私には思える(古い住居建築に通じるものがある)。
 そして、城郭づくりで一挙に進展した技術は、ふたたび民間の建物づくりへと還元されていったのである。

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日本の建築技術の展開-14・・・・多層の建物:その4-愛知・犬山城

2007-04-21 22:28:12 | 日本の建築技術の展開

[松本城について、補足追加:4/22-0.57AM]
[図面誤記訂正:4/22-1.25AM]

 1615年(元和元年)、徳川幕府によって「一国一城令」が出される以前につくられた城郭で現存するのは、丸岡、松本、犬山、彦根、姫路、松江の六城である(この時期に築城された名古屋城は、戦災に遭い現存しないが、焼失以前に実測が終了していたため、戦後、実測図が作成された。現在の建物は、実測図に基づいたRC造である)。

 先の丸岡城をはじめ、初期の城郭は、権威の象徴としての役割以前に、城郭本来の目的を具現した建物、ということができる。
 つまり、領下一帯を望み見ることのできる望楼を兼ね、統治策を立て、万一の場合には立て篭もり防備に専念できる建物。
 したがって、先ず、高くなければならない。それゆえ、なるべく高い場所が選ばれる。だから、築城主は、地勢についての相当の知識が要求される。また、いかに長く立て篭もることができるか、も考えなければならない。構築技術のノウハウだけでは当然ながら済まない。
 また、ただの望楼ならば、懸崖造でもつくれるが、それでは、簡単に壊される。そこで石垣で人工地盤をつくることになる。だから、石垣技術は城郭とともに発達したと言われている。

  註 琵琶湖の西岸、坂本の近くに「穴太(あのう)」という地区がある。
    ここは昔から石工の街。多くの石工が各地の築城にかかわったという。
    穴太の街自体、石垣が見事である。

 石垣でつくられる人工地盤は「天守台」と呼ばれているが、その高さは丸岡城で約6m、犬山城では5m強。先ず人工地盤を築いてから、建物を建てたと思われる。

  註 松本城は、丸岡、犬山とは異なり、平地に築かれた城:平城である。
  
    松本城では、天守台をつくりながら、建物の「土台」を支える柱を
    GL上の礎石に立て、石垣を積みながら土を充填していたという。
    つまり、支柱は、土中に埋もれることになる。言ってみれば、仮設材。
    現在なら杭を打つところ。ただ、杭とちがい、足元の状況を目視できる。
    使われた柱は径約38cm、長さ約5mの栂材で、中途を「胴差」で
    縫ってあったという。 

 では、どうやって天守台上の建物に至るか。
 丸岡では、長い階段状の斜路。犬山では、天守台の一部の石垣を凹形に窪ませ、そこから上に上る方法を採っている。そこは、天守から見ると地下室。地下は二層で、まわりは石垣で囲まれている(松本城も同様の方法)。

 2階平面と梁行断面図から、中央のほぼ正方形の部分を「通し柱」で二層をつくり、その四周に下屋をまわすつくり。下屋も東側を除き「通し柱」により二層をつくる。
 柱の径は、およそ7寸強角(地下1階を支える柱で8寸角、つまり、決して太い材ではない)。基準柱間は6尺2寸強。
 柱を「土台」に立て、1階の床は、「足固め」を兼ねた「大引」を柱に差して楔で締め、その上に「根太」を流している。
 2階では、床梁を「通し柱」に「差口」で納め、一部を除き「踏み天井(根太天井)」。
 柱相互は、「貫」で縫う。「貫」は2寸×8寸ほどはありそう(@約3.5尺)。
  
  註 「大引」を楔締めにしているのは、強度上の点もさることながら、
    施工性の点からの採用ではないだろうか。
    現在のように使用材が一定形状に整形されているわけではないから、
    高さだけ決め、大きめ目の穴を柱に彫っておけば楔で調整すればよく、
    工事を早く進められる。

 この時代、「貫」「土台」「通し柱」「差口」の使用は、すでに、ごく普通の仕事になっていたと考えてよい(松本城も同じである)。
 「通し柱」+「差口による横架材」方式は、建物を高くするには絶好の方法で、同時に城郭建築は、この「差口」の技法を洗練する恰好の修練場であったと思われる。
 また、「土台」は、工事期間の短縮が重要課題である城郭建築に於いて考案された技法と言われる。「土台」を先に設置することで、柱の長さを事前に決められ、工事の進行が一段と早くなるからである。
 礎石建てでは、一本ごとに決める必要があり、まして礎石が自然石だと、柱脚を石に合わせて削らなければならず、さらに大ごとになる。「土台」を設けると、「土台」が定規になり、この作業がなくなるのである。

 「土台」「通し柱」「差口」などの技法は、近世には、一般庶民の建物でも使われるようになる。「よいもの」は自ずと広まるのである。

  註 柱脚を自然石の形状に合うように削る作業は「ひかりつけ」と呼ぶが、
    語源は未だに分からない。

 なお、三層、四層は、後に、屋上屋を重ねる要領で増築されている。

 犬山城は、一触即発の危機はあったものの戦闘が実際に行われたことはなかったという。

 図・写真は「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」より転載。
 解説も、私見以外は、同書によるところが多い。

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余談・その2・・・・木造多層建物:中国では

2007-04-20 01:42:42 | 日本の建築技術の展開

 「図像中国建築史」および「老房子:福建民居」にある多層の建物が上掲の図と写真。先に「福建民居」から転載した「土堡」も二階建てである。

 少なくとも、福建の住居では「通し柱」に床梁・桁を差す方法。
 寺院では、上段の図:龍興寺(960~1127:宋の時代)は「屋上に屋を据える」方法、下段の図:孔廟は「通し柱方式の二・三層」を「一層の上に置く」方式を採っている。
 おそらく、どの時代にも、「屋上屋」方式と「通し柱」方式が、場面に応じて使い分けられ、あるいは併用されていたのだろう。考えてみればあたりまえ。
 
 これらの材料が何であるかはよく分からないが(書中に説明があるのかも知れないが)、おそらく針葉樹系か、広葉樹でも楊樹の類だと思われる。楊樹はポプラのような直状の樹木。西欧様のつくりかたにならないのは用材のちがいだろう。
 私が華北、西域で見た普通の住居では、楊樹を丸太のまま使う方法が多かった。
 「図像中国建築史」を見ると、寺院でも、垂木などに製材せずに丸太をそのまま使っている例が多い。

 わが国の奈良時代の寺院にも、円形断面の垂木が使われている例があるが、それは中国直伝の姿を真似たらしい。しかし、それは丸太ではなく、製材した(角材にした)垂木の先端:見えがかり部分をわざわざ円形に加工しているのである。このあたりは、異「文化」を「吸収・消化」する過程を示していてなかなか興味深い。
 

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余談・その1・・・・木造多層建物:西欧では

2007-04-18 21:48:07 | 日本の建築技術の展開

[表現変更:4.19 9.40AM]
 
 西欧では、木造の多層建築はどのようにしてつくっているか、手元の本を開いてみた。
 一つはイギリス・ケント州の住居、もうひとつはいつか紹介したスイスの住居。
 イギリスの方には架構の詳細のよくわかる断面図等がないので写真だけ。スイスの方には組立図が載っていた(上掲)。

 多いのは、「屋上屋を重ねる」方法。とりわけ、「桁」に「梁」を一定間隔に並べ(日本風に言うと半間ピッチか)、上に「台輪」を流し、上の階の」柱を立てる方法が多い(イギリスもスイスも)。
 二つの方法があり、一つは、「梁」の先端は「桁」の外側でとめ、そこに「台輪」を流すやりかた。「桁」と「台輪」の間に「梁」の小口が一定間隔で並び、下階と上階の柱位置は同じライン上にある。
 もう一つは、「桁」を「梁」のラインより外に出して「台輪」を流し柱を立てる方法。

 後者はいわゆる「出桁」、そこに柱を立てれば上階が下階より迫り出すことになる。
 西欧の木造建物で、両側から上にゆくほど道の上に迫り出して頭上を覆うようになる例は、皆この方法と考えてよい。写真が小さくて分かりにくいけれども、イギリスの例の両側部分は、上階が迫り出している(梁のピッチに注目)。
 こういうつくり方は、同じ敷地で床面積を確保するためだ、という説明を聞いたことがある。
 しかし、むしろ、その発端は、階下の柱と同じライン上だと「台輪」が外れやすく施工に神経を使う必要があるが、「台輪」位置を外に出せば納めが容易になるからではないか、と思える。

 スイスの例は、下階と上階の側の柱位置が同じライン上にある建物の妻面のクローズアップ。左端に「下階柱」「桁」「梁」「台輪」「上階柱」の組まれ方が映っている。上掲の図は、組み方の実際の図解。
 この図は、時代別の工法の違い、部位・部材の呼称を説明しているのだが、呼称はともかく、興味があるのは、時代が新しくなると「屋上屋を重ねる」方式に変ってくることだ。図の一時代前の段階では「通し柱」に横材を差す方法がとられている。

 この変化は、私の勝手な想像だが、材料の枯渇が影響しているのではなかろうか。
 写真で分るように、材料はどれも広葉樹系。長い直材を得るには大径の材が必要。材料が豊富な時代には何とかなるが、減ってくると短い材料で工夫することにならざるを得ない・・。

 ところで、このような「屋上屋を重ねる」方式(「筋かい」はいっぱい入っている・・)で設計し「確認申請」書を提出したら、いったいどういう反応が返ってくるのだろうか・・・?。

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日本の建築技術の展開-13 の補足・・・福井・丸岡城:断面図

2007-04-16 01:01:37 | 日本の建築技術の展開

 丸岡城の断面図を追加。
 柱脚部は、復興時に修正してある。もとは掘立柱、とのこと。

 初期の城郭は、大体、このような、屋上屋を重ねる方式が多かったらしい。言うなれば、古代以来の重層建物をつくるきわめてあたりまえな誰もが考える方法なのだろう。

 図は、前掲書による。

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日本の建築技術の展開-13・・・・多層の建物:その3-福井・丸岡城

2007-04-15 19:18:59 | 日本の建築技術の展開

 [締切まぎわの仕事に追われ、しばらく、書けない日が続いています!
  20日すぎに完全?復活の予定です]

 日本の多層建築として、しかもきわめて実用的な建物としては、いわゆる戦国時代、諸侯が競って建てた城郭建築がある。
 ただ、多くの城郭は、明治の廃藩置県策で壊されたものが多い。

 現存資料のある最も古い城郭は、福井県丸岡にある「丸岡城」のようである。
 この城郭は1576年(天正4年)、柴田勝豊により築かれたと考えられているが、明治維新後、建物はことごとく取り壊され、堀も埋められ、辛うじて天守だけが遺っていた。
 しかし、その天守も1951年(昭和26年)、福井地震で倒壊した。現在の建物は、その後の復興によるものである。
 なお、建物は1940~42年(昭和15~17年)に解体修理がなされている。
 私は実際に観ていないので、あくまでも書物による理解。
 
 天守は、高さ6mほどの野面積の石垣の上に建ち、外観は二重、内部は三層。
 石垣は、各面の上端が直線ではなく、中央部が内側に凹んだ曲線をなし、したがって平面で見ると「糸巻き」様の形になっている(一層平面参照)。

 この建物の架構は、大変興味深い。
 天守は三層。二・三層は同一平面で、柱位置も同じ。四隅の柱が「通し柱」で他は「管柱」。

 一層の柱位置は二層と一致せず、二層の柱は一層の柱の中間に位置し、一層の梁上に渡された繋梁上に立つ。
 また、一階の母屋部分の柱は、すべて掘立柱であること。地盤面より1mほど掘った位置に礎石を据え、柱を立て、厚板で寝巻きをして漆喰が塗ってあったという。従来から、一部の柱が掘立であることは分かっていたが、1951年の再建時の調査で発掘したところ、すべての柱位置に、径1尺ほどの礎石が出て、判明したという。
 復興された建物は、当然ながら掘立ではない(上掲図面も、掘立ではない)。

 石垣の素朴さ(荒っぽさ)、掘立柱・・、なんとなくあわただしく建てたような印象。このようなことから見て、この城郭は、後の世に権威の象徴として時間をかけてつくられた他の城郭とはちがい、本当に実戦用としてつくられたのかも知れない。

 写真・図ならびに解説は、「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」による。
 ただ図面が小さいので分り辛く恐縮。「修理工事報告書」に詳細があるかもしれないのだが、見ていない。

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日本の建築技術の展開-12・・・・多層の建物:その2-鹿苑寺金閣

2007-04-13 04:33:00 | 日本の建築技術の展開

 「鹿苑寺」:通称金閣寺は「金閣」があるための呼称。
 「鹿苑寺」は足利義満の菩提寺として、1420年(応永27年)ごろ、義満の「北山殿」の屋敷、建物の一部を引継ぎ、創立された臨済宗の禅寺である。
 「金閣」は、義満の「北山殿」の一部、「北御所」(義満自身の居所)の舎利殿として、1398年(応永5年)に完工。
 つまり、「鹿苑寺」創立前からあった建物。もちろん今の建物は昭和の再建。

 第一層は寝殿造形式で住宅様、第二層は和様の仏堂風、そして第三層は禅宗様の仏堂風。言ってみれば、各層が当時の建物様式を紹介する展示場。

 第一層と第二層は5.5間×4間の同形。ただし、1間は7尺2分(約2.1m)。
 側の柱を通し柱とし、各層とも大梁で床を支え、第三層は第二層の南北の大梁の上に直交する桁を土台として別途組まれている(図参照)。
 柱は4寸5分角(約135mm)。大梁の高さは約1尺5寸(約45cm)。柱も梁も、寸面はそんなに大きくない(今の《在来工法》だったら、柱は5寸以上、梁は2尺・・になるだろう。第一、こんな建物、「確認」が下りない!)。

 一・二層では、南面の広縁部で、柱を抜いて約17.5尺(≒5.3m)とばしているが、これは古代以来の一間ごとに柱を立てる方法から脱した最古の例という。

 通し柱に梁を差して総二階をつくる、柱を抜く・・などをする一方、古代にならった方法で第三層を載せる、等々、この建物では、その当時までに得られていた、あるいは到達していた技術が、総動員されていると見ることができるのではないだろうか。

 この建物は、当時の中心、京都にある。国の中心の卓抜した工人たちの仕事であることはたしかである。
 しかし、それは都だけの話ではない。
 そのころ各地で寺院が再興、修復されていることでも分かるように、東大寺が再建されて約200年、建物づくりの技術は、各地の工人たちの間でも、静かに、着実に、確実な進展を見せていたのである。
 そしてそれは、明らかに、次の発展を予感させる。さらにたくましく、そしてさらに繊細に・・・。

 上掲の図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より転載、編集。
 解説も同書を参考にした。

 ここまで見てきたように、古代、中世・・と、人びと:工人たちのたゆみなき工夫の数々が技術を発展させてきた。そしてそれは、これから触れる近世でもまったく変わらない。
 そうであるのに、近代以降、突然進展が停まる。むしろ退化している。人びとの自由奔放な工夫も萎えている。というより、工夫しなくなった。いや、できなくなった。むろん今は・・。
 それは何故だ?

 近代以降、たしかに「封建時代」ではなくなった。
 しかし、「封建主義」が、「封建時代」よりも、むしろ強化されたからではないか、と私には思える。

  註 封建主義:支配的立場にある人が下の者を、文句を言わずに
           服従させるやりかた。 
    封建時代:君主が土地を諸侯に分け与えて領地を治めさせる代りに、
          国家有事の際に忠誠を誓わせたこと。
                            「新明解国語辞典」による
コメント (6)
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日本の建築技術の展開-11・・・・多層の建物:その1

2007-04-11 04:03:09 | 日本の建築技術の展開

 東大寺の再建には、多くの工人が関わった。おそらく、各地から呼び寄せられたのだろう。そして、工事の終了とともに、ふたたび各地に戻っていった。
 彼らは、工事に関わったことで、「新しい工法」の様式はもとより、技術的な特徴:その効能・効果を身をもって体感したにちがいない。
 そして、「新しい工法」は、彼らによって、単に社寺建築に使われただけではなく、いわゆる「和様」と呼ばれてきた建物づくりにも適用されていった。

 この新しい工法の技術的な特徴:効能は
 ① 柱を新たな横架材「貫」で縦横に縫う
 ② 横架材を柱に「挿す(差す)」仕口を使う
 ③ 細く長い柱も、①②により、中途で撓む(座屈を起す)ことがなくなった
などが挙げられるだろう。

 これらの特色は、工人たちの頭脳と手によってさらに磨きをかけられ醸成し、近世までには体系として完成の域にまで到達する。それがいわゆる「伝統工法」である。
 そこに至る途中の室町時代に、「新しい工法」の応用でなければつくれなかったと思われる建物が建てられる。三層からなる「鹿苑寺・金閣」である。つまり、多層の建築が出現したのである。

 もちろん、五重塔や楼門など、多層の建築は古代からある。
 しかし、古代のそれは、塔にしても門にしても、各層が用に供されたわけではなく、あくまでも外観:見かけのための重層なのだ。それは、復興された東大寺南大門も同じ。外観は重層だが、中途の屋根はいわば「裳階(もこし)」。

 これに対して、「金閣」は、各層を実用に供するようになった最初の建物、言い換えれば最古の建物ではないだろうか。そして、その架構は、「新しい工法」の展開がなければ生まれなかったにちがいない。
 これについては次回にまわし、その前段として、古代の重層建物のつくりかたを上掲の図面で紹介する。

 図で明らかなように、古代の重層建物では、第一層の垂木上に「台輪」をまわし、その上に第二層を組み、・・・その繰り返しで多層建築をつくっている。
 このようなつくり方は、現行法令の下ではつくることが許されない。
 だから、特に五重塔は、なぜ地震に耐えられるか、と常に話題になる。最近も模型で揺さぶったらしい。いつも注目されるのは中央の心柱。これはいわばぶら下がっているだけ。それが振り子のように働いて振動を吸収する云々・・という俗説もある。

 このような俗説は、現行法令の規定が正しい、上掲の図のような塔や楼門のつくりかたは危険、という前提で考えるからではないか。もしも危険なら、楼門もこれまでの地震で倒壊しているはずだが、健在。このようなつくりかたをしても、丈夫なつくりはできるのだ。

 塔の心柱にしても、もし、この柱がなかったら、方形(ほうぎょう)の屋根を形成する「隅木」はどのように納めるのか、を考えれば、つまり施工手順を考えれば、その役割が分かろうというもの。それに、それがなかったら垂直の定規はどうするのだ?心柱がぶら下がっているから垂直が確認できる。
 ただし、これはまったくの私の見解。なぜそのように考えるか。
 いま、単純な一層の方形屋根を木造でつくるときも、「隅木」の集まる中央に、「隅木」を納めるための材を設けるはずだ(4本の材を一点で接合するのは、やってできないことはないが、並大抵のことではないからだ)。そして、その材は、地面に立つ柱でもよし、宙に浮いた短い柱でもよい。つまり、この延長上の考え。

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余談・・・・中国の建築と「貫」

2007-04-09 20:12:47 | 日本の建築技術の展開

[改訂:4月10日10.27AM]

 「大仏様」「禅宗様」は、ともに宋の影響がある、と言われていることはすでに触れた。
 しかし、両者に初めて使われた「貫」は、中国の寺院の図や写真では見当たらない。ことによると、実際には使われているのだけれども、図にない、ということなのかもしれないが・・。

 ある書物で、来日した宋の技術者は、主として、中国南部、福建省の出だと考えられる、との話を読んだ。しかし、先日の書物には福建省の寺院がでていない。
 ふと、中国各地の住居、日本で言う「民家」を集めた書があるのを思い出し、その福建省編を開いてみた。

 その書は『老房子』(1994年12月、江蘇美術出版社出版、江蘇省新華書店発行)という書物。地域ごとに、日本でいう重要文化財級の建物(住居主体)を、主に写真で紹介している。
 そして、その「福建民居」編(上下2冊)の中に「貫」「差物」オンパレードの建物があった。上掲の写真(この他にもあるが省略)。
 福建省の内陸の「永安」市の「槐南」にある「安貞堡」という建物、というか城郭都市というか・・。
 石積みの大きな囲い:城壁?の中というか上というか、木造二階建ての建物が密集している。この中に、一族郎党が住んでいる。言うならば一つの村。住居の他に公共施設も用意されている。「土堡」と呼ぶらしい。「堡」は橋頭堡の堡。
 田畑は囲いの外の平原にある。この中には1000人の人がこもって暮すことができるという(最上段の写真参照)。

 同じ福建省にある円形の「走馬楼」という同様の木造建物をTVで見たことがある。そちらは「土楼」と呼ぶらしい。石積みの代りに築地が使われている。
 これらは、農耕主体の民族が、他からの攻撃を避けるための方策だった、という説明を聞いた覚えがある。

 上掲の事例は、そんなに古いものではなく、清の時代、1850年代の建設という。しかし、「昔からのその地域の技術」:「民間の技術」が使われていると考えてよいだろう。
 残念ながら図面はないが、二階建ての場合、どうやら柱は「通し柱」で、「貫」「差物」が使われているようだ。
 これを見ると、「貫」の技術は中国の技術者から学んだ、というのは本当かもしれない、と思えてくる。

 けれども、これはいわば民間の建物、はたして、中国では、寺院建築にも使われていたのだろうか?
 あるいは、中国の工人は、日本のように「宮大工」を別格扱いするようなことはなく、同じ工人が、民間、寺院の区別なく、仕事にあたったのかもしれない。そして、そういう工人たちが日本にやってきて、寺院建築にも関わった・・・。

 先ずは参考までに。

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日本の建築技術の展開-10・・・・大仏様と禅宗様

2007-04-07 20:22:17 | 日本の建築技術の展開

[参考資料等補足追加:4月8日1.05AM]

 「大仏様」に少し遅れて、中国・宋から、寺院建築には「禅宗」とともに、いわゆる「禅宗様」というつくりが入ってきた、と言われている。
 しかし、実の所、この区別自体、どうもはっきりしない。「大仏様」の呼称は、東大寺大仏殿に使われたから、ということなのだが、確かに禅宗寺院そのものとは外観が異なる点があるけれども、技術的にはほとんど変りはないのではないか、と私には思える。

  註 「大仏様」は、当初は「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれ、
    「禅宗様」は「唐様(からよう)」と呼ばれていた。
    いずれも「和様」に対する語。 

 禅宗は、12世紀中ごろ二度宋に渡った僧・栄西が二度目の入宋で持ち帰ったとされている。栄西は天台宗の僧、しかし帰国後禅宗を説くようになって、天台宗からは異端視されたという。

 禅宗の教義は、武家階級に好まれ、鎌倉幕府、室町幕府の下で手厚く保護され、安土・桃山江戸期を通じて、隆盛を極める。

 栄西が、禅宗の教義とともに、当時の中国の建築技術をも持ち帰ったかどうかは、いろいろな説があるようだが、確かな証拠はなく、つまるところ不明である。ただ、建築史家・伊藤延男氏は、栄西が建設に関わった「東大寺鐘楼」に新しい方式が見られることから、栄西が新しい中国方式を伝えたことは確かだと言っている。すなわち、軸組は「大仏様」のように太いが、組物は細かく、頭貫を隅で組んで交差させ、その先端や肘木の先端に「繰形(くりがた)」を設ける点などは、「禅宗様」的だからである。

 室町時代以降:13世紀中ごろ以降に、「五山十刹図(ござんじゅっさつず)」」という中国浙江省・江蘇省の有名寺院の建物の伽藍配置、平面、立面、断面図や、設備・什器などを記した写本が多数残されており、当時の中国建築の様子がおおよそ分かるようだ(筆者は内容を見たことがない)。
  
 平安時代までに、生活様式は古代の中国直伝の立式から座式となり、建物もそれに見合うように、横に伸びる:低く水平に伸びる:形に変ってきたことは以前触れた。ところが、禅宗では、ふたたび床を張らない平瓦敷きの土間での立式が主となり、つくられる建物:「禅宗様」の建物では、堂内の空間を荘厳・崇高な空間とするため、上へ伸びる:高くする:ことを好んだという。実際、内陣は見上げんばかりとなる。

 鎌倉時代の「禅宗様」の建物の遺構はきわめて少なく、「禅宗様」の代表的な建物と言われる「円覚寺舎利殿」も、現在では室町時代の建立とされている。そのため、伊藤延男氏は、「鎌倉時代の禅宗様建築」の特徴をまとめることは難しいとしている。

 鎌倉以降のいわゆる「禅宗様」と呼ばれる建物の特徴を私なりにまとめてみると、大体次のようになろうか。
 ◇柱は礎石建て、細身で長く、脚部と頂部を丸める(「粽(ちまき)」と言う)
 ◇「裳階(もこし)」を「身舎(もや)+「庇」」の本体のまわりにまわし、重
  層に見せる
 ◇「頭貫」は隅で交差させて組むため(端部が軸組の外に出る)柱群を束ねる効
  果が強まる
 ◇「頭貫」の端部には独特の「繰形(くりがた)」を彫る、「頭貫」上に平たい
  板状の部材を載せることがある(「台輪(だいわ)」と呼ぶ)
 ◇「肘木は「挿肘木」、「尾垂木」を何段にも使用する(上昇感が強まる)、柱
  間にも「尾垂木」を含む組物を設け、母屋桁を受ける(構造的にも強くなる
  が、上昇感も強まる)。材の端部には独特の「繰形」を彫る
 ◇梁(「虹梁」が多い)柱に挿す。梁上の束は丸太状の形をする(「大瓶束(た
  いへいつか)と呼ぶ)
 ◇隅部の垂木を「扇垂木」とする(隅部の垂木を平行に並べる日本式の垂木
  は、形だけで屋根を支えていないが、隅の柱芯から扇状に配する「扇垂木」
  は荷を支える)
   註 昨年11月30日の浄土寺浄土堂の天井見上図参照
 ◇柱相互を「貫」で縫う、
 ◇開口部の建具の取付けは、従来は「長押」へ軸を差し込む「軸吊り」だった
  が、長押を使わなくなったため、軸を差し込む「藁座(わらざ)」を「貫」に
  取付ける方式に変る
 ◇建具は、従来の板戸から、框戸(四周に枠をつくり、板を薄い板を嵌める。
  (「桟唐戸(さんからど)」と呼ぶ)
 ◇窓:開口を「花頭窓(華頭窓:かとうまど)」などにする
 ◇壁は板壁が多い
 ・・・・
 これらは、「大仏様」と言われる建物にも共通するところが多く、「禅宗様」と特に呼ばれるのは、いかにも中国風に見える造形(肘木や尾垂木の繰形、花頭窓、・・)を多用する場合のように私には思える。


 こういった特徴の内、「貫」や一部の装飾的造形、建具などは、いわゆる和様と言われる建物にも大きく影響し使われるようになるが、その中でも「貫」の効用は特に広く伝わってゆく(後に触れるが、民間にも広まっている)。

 上掲は、山口県にある「功山寺」で1320年の建立(筆者は実際に観たことはない)。丈の高い本体(「身舎」+「庇」)に「裳階」をまわしている。内部は、たしかに中国風だ。
 注目したいのは、仏壇前面にあたる「身舎」の柱を抜き去って大断面梁を架け、「大瓶束」で「身舎」上の梁を支えていること。
 私はここに、「身舎」+「庇」の構造方式の「しがらみ」から一歩抜け出そうとする動きの端緒を見るような気がする。

 なお、鎌倉時代、山口をはじめとして西国で盛んだった寺院復興には、東大寺再建にあたった大工職が、再建終了後に各地で関わったと見られている。
 つまり、技術の伝播は、こういった職方たちに拠るところが多いのだ。そしてそれが、各地域で消化、それぞれの地域の独自の技術として定着する。

 この技術の展開の過程は、法令によって全国一律に統御し、それぞれの地域、それぞれの職方の技術醸成をよしとしない現在の傾向とは、根本的に異なる。この点についてはいずれ触れたい。

 以上、解説は、伊藤延男「鎌倉建築:日本の美術198」、浅野清「日本建築の構造:日本の美術245」、「日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ」などを参考にした。

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日本の建築技術の展開-9 の補足・続・・・・中国では?

2007-04-04 09:49:22 | 日本の建築技術の展開

 東大寺再興で使われた「大仏様」は、宋へ行ったことのある重源が、当時の中国の技術を参考にし、宋から来日した技術者の協力を得て成された工法と言われている。
 上掲の写真と図は、「図像中国建築史」に載っていた中国各時代の「斗栱」の変遷を示した図:「歴代斗栱演変図」、および宋の時代、1125年に建てられた河南省の「少林寺初祖庵」の写真と平面および主要断面である。

 「少林寺初祖庵」の断面図を見ると、そこに「遊離尾垂木」様の架構があることが分かる。名称は「:ang」。

  註 先端は「嘴:beak of ang」
    後端(上端)は「尾:tail of ang」
    「」は「昂」の俗字、「あがる」「高まる」の意(「新漢和辞典」)

 先回(3月26日)紹介の「五台山・仏光寺」では、「尾垂木」は梁を介して母屋桁を受けている(梁で押えられている)が、この例では直接母屋桁を受けている。つまり、「遊離尾垂木」には明らかに中国の技術の影響が強く表われている。ただ、この建物では、「肘木」を何層にも重ねて軒を支える方法はとられていない。比較的規模の小さな建物だからだろう。

 一方、「仏光寺」では、「東大寺南大門」のように、「肘木」を何層にも重ねて迫り出してゆく方法がとられている。
 しかしそれは、図で分かるように、「南大門」で使われている柱に横材を挿し通す「挿肘木」方式ではなく、あくまでも通常の柱上の工作である。

 上掲の「歴代斗栱演変図」でも、また同書にある他の事例でも、「斗栱」はどれも柱上に設けられており、「南大門」のような「挿肘木」方式は見当たらない。

 また、今回は写真を省略したが、同書にある二~三層の建物の外観は、「南大門」同様、「肘木」が数層重ねられているが(「通肘木」を使った例もある)、断面を見ると、いずれも各層積重ね方式で造られていて、各層の床面を支える梁が、数層の「肘木」で支えられているにすぎない。「南大門」のように「通し柱」に「挿肘木」を用いた例は見当たらないのである。

 つまり、「遊離尾垂木」は明らかに中国に事例があるが、「通し柱」「挿肘木」「貫」の方法は、ともに、今のところ(同書を見るかぎり)中国の事例に見当たらない。
 ことによると、日本のように、素性のよい長大な柱を得ることが難しく、また、強度的にも、柱上に納める「斗栱」で十分だったからかもしれない。


 一説には、「大仏様」は福建省あたりの技法の影響ではないか、との説もあり、そのあたりについて、どなたかご存知の方がおられたら、是非ご教示いただきたい。

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