私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

イサム・ノグチ原爆慰霊碑建立の勧進(5)

2022-12-08 14:16:40 | 日記・エッセイ・コラム

 また、『イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑』と題するNHK制作のドキュメンタリー番組を自分でコピーしたDVDを、じっくりと、視聴し直し、私にとって大変意味のある事に、はっきりと、気がつきました。それは、NHKという国営の組織の中に、イサム・ノグチの原爆慰霊碑の建立を強く希求する一群の人々が存在するという事です。この明白な事実を初めから認識しなかった私が間抜け者でした。このドキュメンタリーの終わりで、一人の若い米国人を登場させて、「この原爆碑を何処かの地に建立したいと最後まで願い続けたイサム・ノグチの想いは単なる反核の思想を超えるものだった」という意味のことを語らせています。

 今の状況下で、NHKの内部のこの人たちにこれ以上の原爆碑建立の発言を求めるのは酷というものでしょう。これは、まがいもなく、「反核」「反戦」の声ですから。老人ホームの住人の様な、斬られる首など持たない人間たちが、声を上げ、立ち上がるべき場面ではありますまいか。

 イサム・ノグチは日米混血として壮絶で見事な生き様を示してくれました。この人物をもっとよく知りたいものです。優れた伝記を二つ紹介しましょう。先ず、ドウス晶代著『イサム・ノグチ 宿命の越境者』(上、下)(講談社文庫)、合わせて912頁の大冊、始めは単行本として2000年に出版されました。イサム・ノグチの生涯が見事に描き尽くされています。上巻の帯には「父との葛藤、華麗な恋愛遍歴、戦争・・・。「ミケランジェロの再来」と謳われた巨匠の波乱に富んだ生涯を描ききった傑作」と記されています。下巻の65頁には[ベル・タワー(鐘楼)]という作品のことも出ています。これについてイサム・ノグチの「私の大きな関心は戦争で亡くなった人々のために、広島か他のどこかにベル・タワーを設計することでした」という言葉が引いてあります。下巻115-6頁には「イサムは原爆の犠牲者となった広島市民の<永遠の平和の祈念>のシンボルである慰霊碑のデザインを手がけることを、<芸術家としてこれ以上の名誉はない>と思った。彼は大橋欄干デザインでは、五十万円を受け取っていたが、慰霊碑は無償で引き受けた。」とあります。彼はこの仕事を「人類が犯した罪の償いを象徴する仕事」と考えていました。

 もう一冊はドーレ・アシュトン著、笹谷純雄訳『評伝 イサム・ノグチ』(白水社、1995年)です。原著はDORE ASHTON『NOGUCHI  EAST AND WEST』(University of California Press, 1992)。著者アシュトンさんは米国で著名な芸術史教授、近代現代美術の評論家で2017年に88歳で亡くなりました。芸術家としてのイサム・ノグチの生涯に重心を置いた重厚な充実した内容の書物で、私の様なものには読み応えがありすぎるほどです。イサム・ノグチ原爆慰霊碑建立の勧進(4)の中で言及した米国のテレビ会社制作の番組『ISAMU NOGUCHI』にも、この女性は何度も出て来ます。イサム・ノグチとは長年にわたって親交がありました。翻訳書では、読者の便宜を図って図版の掲載場所を変えた場所があります。その中の一つ、私が特別の想いを寄せる『おかめ』という作品については、機会を改めてお話ししたいと思います。

 一人の物理学者として、私は、イサム・ノグチの心中にあった“人類が犯した罪”という思いが何であったかを推測し続けています。1935年イサム・ノグチはメキシコ・シティに出かけて、メキシコの壁画家の巨匠ディエゴ・リベラが制作中であった大型壁画の一部の制作を担当しました。その話はドウス晶代の著書上巻の341頁以降に詳しく述べられています。そこには書いてありませんが、前掲のKSPSという米国のテレビ会社制作の番組『ISAMU NOGUCHI』の中で、イサム・ノグチが担当した『メコシコの歴史』あるいは『戦争』とも名付けられた縦幅約2メートル長さ22メートルの壁画の一部分に

             E=mcc (光の速度の2乗、うまく書き入れることが出来ませんでした)

という数式が描き入れてあるのに、私は気が付きました。他でもない、これは質量とエネルギーの等価性を示す有名なアインシュタインの公式で、1905年に導出されました。原子爆弾が放出する巨大なエネルギー説明する式です。盧溝橋事件(1936年)直前の時点で、イサム・ノグチは一体何を考えてこの式を壁画に刻み込んだのでしょうか?芸術家が持つ神秘的予感というものでしょうか?

 ヒロシマ・ナガサキの破壊の惨状を知った時、イサム・ノグチは、人間は入手すべきでなかったものを手に入れてしまったことを嘆いたと伝えられています。

 原子爆弾の産みの親とされるロバート・オッペンハイマーについてはイサム・ノグチ原爆慰霊碑建立の勧進(2)で書きました。彼は「物理学者は罪を知った」という言葉を残して死にました。

 イサム・ノグチの後半生、四国の牟礼で、彼の良き助手、良き同伴者となった石工の和泉正敏さんは「科学がどんどん進歩する中で、人間が忘れてはならないものが、もっと大事なものがあるのではないかと考えて、それを石の中に求めたのではなかったでしょうか」と言っています。死に至るまで、イサム・ノグチが建立を切望し続けた彼の原爆慰霊碑が、究極的に、彼にとって何であったのか?広島市から拒否された1952年から後の30余年間の、原爆慰霊碑に関する数多の発言を辿ると、彼としては、日本でも米国でも、何処でもよいから建立したかったことが痛いほどわかります。それは、人間の、人類の、死と生に関する大きな祈りの石碑ではなかったのではないでしょうか。イサム・ノグチ原爆慰霊碑が、一つの大きな岩石であるこの地球の上で、全人類が、如何に生死を全うすべきかを示す力強い道導として設計されていることだけは確かだと思います。

 建立候補地の第一は、やはり、広島でしょう。全世界が核戦争の脅威に曝されている今、原爆慰霊碑の更新に反対する声を上げるのは悪しき者どもです。故丹下健三を含めて、イサム・ノグチの熱烈な願望と無私の献身を知る人々、今は鬼籍に入った人々の魂は、すべて、この更新に賛意を表するに違いありません。“過ちは繰り返さない”と誓ったのは人間全体であった筈ですから。私は、しかし、長崎も、広島に劣らない、建立の良い候補地だと考えます。その理由は、すでに、ブログ記事イサム・ノグチ原爆慰霊碑建立の勧進(3)で述べました。長崎の平和公園には、右手を掲げて空を指差し、左手は掌を広げて水平に伸ばした青銅製の大きな男性裸像があります。右手は原爆を、左手は世界平和の祈念を表しています。これは、日本で誕生した新しいプロメティウスの像です。自らが決して暴君とならない新しいプロメティウスです。また、公園内の「世界平和シンボルゾーン」には世界各地から寄せられた多くのモニュメントが建てられて、破壊と殺戮を繰り返す戦争の愚かさ、平和の尊さを訴えています。この長崎の平和公園はイサム・ノグチ原爆慰霊碑を建立するのに誠にふさわしい場所であります。

 同じブログ記事の中で、第三の候補地として、札幌のモエレ沼公園も挙げました。この三つの候補地に優劣はつけ難いという想いを、私は抱いています。そもそも、札幌のモエレ沼公園の建設をイサム・ノグチに依頼することを思いついた札幌市役所のお役人さんはどんな方々だったのでしょうか。その素晴らしい伝統が今も残っているならば、是非もう一度、声を挙げて頂きたい。この素晴らしい公園の中に、イサム・ノグチの原爆碑を、イサム・ノグチの遺志に背かない形で建立することは可能であることを私は固く信じ、札幌市のお役人と札幌市民の皆さんが進んで声を上げてくださることを念じています。

藤永茂(2022年12月8日、真珠湾攻撃の日)


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1 コメント

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Unknown (寺島隆吉)
2023-01-12 17:49:44
藤永 茂先生
 遅ればせながら開けましておめでとうございます。元岐阜大学の寺島隆吉です。
 昨年はイサムノグチのビデオを送っていただき有り難うございました。その際、「ビデオを見た感想は後日、送らせていただきます」と書きました。
 しかし、その約束を守れないまま現在に至ったことを申し訳なく思っています。遅れた理由は二つあります。

 一つは(本当は言い訳にならならないのですが)最近の私が講演やインタビューやその準備で忙しかったことです。その事情は下記に書きましたので、時間のあるときにでも覗いていただけると有り難いと思います。
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-581.html
 二つ目は、いただいたビデオがどういうわけか映像が不鮮明で、かつ音が小さくてよく聞こえかったり、映像そのものがうまく再生できなかったりで、その感想を書けなかったことです。
 しかし、そのような理由で「もう一度、送り直してください」とお願いするのはあまりにも心苦しくて、今に至ってしまいました。どうかお許しいただければ有り難いと思います。

 藤永先生については、かつて私のブログで(2016/11/07)、「NATO軍がリビアとカダフィ大佐を攻撃する残虐さを怒りを込めて弾劾している藤永先生のブログ」を引用しつつ、次のように紹介させていただきました。
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-276.html
 <それにしても、藤永氏は一九二六年生まれですから、二〇一六年一一月の現在で、氏は九〇歳前後のはずです。
 九州大学やカナダのアルバータ大学で教鞭を執っていた一流の物理化学者でありながら、老体にむち打ちつつ、NHKや朝日新聞などの大手メディアが目をつむって通り過ぎている事実を掘り起こし、上記ブログを通じてそれを私たちに伝える仕事を続けておられます。唯々(ただただ)、頭が下がります。>
 また、このブログの「註」として次のように追加しました。
 <物理化学者・藤永茂氏の著書には、『分子軌道法』(岩波書店)などといった専門書の他に、『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)、『アメリカン・ドリームという悪夢、建国神話の偽善と二つの原罪』(三交社)やジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(藤永・訳、三交社)といった専門外の本も少なくありません。
 私が藤永氏を初めて知ったのは、二〇年近くも前に、『アメリカ・インディアン悲史』を読んだときでした。なぜ物理化学者がアメリカ先住民の歴史を書くのか、そのときは理解できませんでしたが、文章の端々から、これを書かざるを得なかった氏の気持ちがヒシヒシと伝わってくる名著でした。それ以来、インディアン研究者の専門書を機会があれば目を通すのですが、藤永氏の本を超えるものに出会ったことがありません。>

 いただいたビデオは不鮮明でしたが、それを見た限りでは、かつて私が以前に見たものであることが分かりました。それ以来、私はイサムノグチという人物に興味を持ち続けてきました。
 幸いにも岐阜大学に職を得て岐阜に移住し、やっと自宅を岐阜に建てる金銭的ゆとりが生まれたとき、2回の居間の天井からイサムノグチがデザインした「岐阜提灯」を吊り下げたいと思ったのも、このような理由によります。
 イサムノグチのデザインと和紙がつくり出す「明かり」が、なんとも言えない心地よさをつくり出してくれるからです。
 それを販売している「岐阜提灯」によれば、イサムノグチが制作したこの和紙と竹からなる「光の彫刻AKARI(あかり)」シリーズは、200種類以上もあるそうです。
 が、幸いにも、その会社が市内にありましたから、自分の目で選んだ次のものが、私は一番気に入っています(写真で紹介したいのですが、添付の仕方が分からないのが残念です)。

 ところで、先述の自分のブログにも書きましたが、藤永先生を知るきっかけになったのは、『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)を読んだことでした。私の大学時代の専門が「科学史科学哲学」でしたから、藤永先生が物理化学者でありながら何故このような本を書いたのだろうかという疑問がまず浮かんだのでした。
 それ以来、藤永先生の本が出るたびに愛読させていただいています。その後またもや専門外の本として訳書『闇の奥』、その続編として著書『私の闇の奥』を出され、さらにはブログ「私の闇の奥」まで立ち上げられて精力的に活動されているのですから、私にとっては畏敬し仰ぎ見る存在以外の何者でもありません。
 かつての私はチョムスキーを仰ぎ見て、その後を追いかけ続けてきたのですが、最近のチョムスキーには疑問を感じることが多くなり、私にとっては、藤永先生がチョムスキーに代わる大きな存在になりました。今ですから、今後とも私たちを指導し励ましてくれる「導きの星」となっていただくためにも、ぜひお体に留意されることを念じてやみません。

 いただいたビデオの御礼と、その返礼が遅れたことのお詫びを書いているうちに、思わず長い長いメールになってしまいました。お許しいただければ幸いです。
 なお、いただいたビデオの内容は、私がかつて見たことのあるビデオだということが分かりましたので、再送していただくことは御無用に願います。ビデオ代も送料もダビングする手間暇も、すべて藤永先生のお世話になったのですから、それだけでも感謝感激でした。
 まだまだ寒さが続きそうです。繰り返しになりますが、これぐれも御自愛くださるようにお願いして、筆(?)を措かせていただきます。

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