私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

映画『オッペンハイマー』に物申す

2024-04-11 21:04:33 | 日記
クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』はハリウッドの映画ファイナンス及び製作会社アトラス・エンターテインメント(Atlas Entertainment)の製作によるエンタメ映画です。エンタメは我々にとって必要なもの、例えば、日本の老人にとって、歌舞伎『勧進帳』などエンタメの最たるものと言えましょう。エンタメとしては、今回の『オッペンハイマー』は大変見事な成功を収めています。アカデミー賞やユーチューブでの騒ぎ方を見ていると、「オッペンハイマー現象」という言葉、あるいは「オッペンハイマー産業」という言葉を私は使いたくなります。
昨年の広島原爆記念日に私は「日本映画『広島』と米国映画『オッペンハイマー』」と題するブログ記事をアップしました:


米国映画『オッペンハイマー』の日本での一般公開に先立って、カナダ在住の息子から送られて来たものを私はこれまでに三回見ましたが、この大評判の映画に対する私の見解は、基本的には、今も変わっていません。
 お話作り、作り話、でっち上げ、などという日本語があります。英語では、Story making, made-up story, fabrication などがこれに当たるでしょう。「人それぞれのオッペンハイマーがある」とよく言われます。映画『オッペンハイマー』のオッペンハイマーはクリストファー・ノーランさんのオッペンハイマーであり、アトラス・エンターテインメント社のファイナンスに十分の考慮を払った見事な作り話です。具体例を幾つか提示しましょう。これは伝記作家の誰もが直面する史実の取捨選択の問題とは、いささか、別であることに注意して下さい。

 先ず、映画の冒頭の「毒注入リンゴ事件」。初の留学先の英国ケンブリッジ大学で実験物理学者パトリック・ブラッケットの指導を受けますが、オッペンハイマーがあまりにも不器用なので、ブラッケットはオッペンハイマーにつれなく当たります。それに恨みを抱いたオッペンハイマーは、皆が、丁度その時ケンブリッジを訪れていたニールス・ボーアの特別講義を聴きに実験室から出かけて行った後、ブラッケットのデスクの上に置いてあったリンゴに毒薬を注入し、それから皆の後を追って、ボーアの講義に出席して、それから宿所に帰ります。翌朝ベッドで目が覚めたオッペンハイマーは、前日の自分の恐ろしい行為を思い出して、慌ててブラッケットの実験室に駆けつけると、そこにボーアがやって来ていて、ブラッケットと会話を交わしながら、デスクの上の毒入リンゴを取り上げて食べようとするところでした。間一髪、オッペンハイマーはボーアの手から、リンゴを奪い取って、屑箱に投げ捨てます。画面に緊張が走る一瞬です。
でも、これはデッチ上げもよいところの作り話です。実際にあった事件は次の様なものです。1926年5月、米国のハーバード大学時代の旧友二人(Edsall, Wyman) が英国を訪問しているのを機会に、三人で地中海のコルシカ島に旅行に出かけ、10日ほど山野を跋渉して楽しみますが、次にサルディニアに旅行する前夜になって、オッペンハイマーは、突然、ケンブリッジに帰ると言い出します。「ブラッケットのデスクの上に毒薬を注入したリンゴを置いて来たので、どうなったかを確かめなればならないから」というのが理由でした。驚く友人たちを後に残してオッペンハイマーは一人でケンブリッジに帰ってしまいました。ブラッケットの身には何事も起こっていませんでした。事件の真相は今日まで誰にも分かっていません。映画では、危うく、毒入りリンゴを食べそうになったニールス・ボーアに勧められて、オッペンハイマーはドイツのゲッチンゲン大学のマックス・ボルンのもとに移ることになっていますが、これも多分作り話です。記録によると、オッペンハイマーがブラッケットの所にいた頃、ボルンが一度ならず招待講義に訪れていて、オッペンハイマーは直接ボルンと話をしてゲッチンゲン大学への移住を決めたというのが史実と考えられます。

 次に原子爆弾のテスト爆発によって地球の大気全体が原子核の連鎖反応を起こして発火炎上するかもしれないと恐れたオッペンハイマーがアインシュタインに相談を持ちかける話も作り話(made-up story)です。この話題については、『ウィキペディア(Wikipedia)』に詳しい解説がありますので興味のある方は読んでください。映画の初めの部分から出発するこの作り話は、しかしながら、この映画の背骨と言っても良いほどの「仕掛け」になっていることに注意して下さい。フィルムメーカーとして、この仕掛けを思いついた時、ノーランさんは「しめた!これで行こう!!」と思ったに違いありません。つまり、アラモゴルドでの最初の核爆発以来、あい続いた水爆爆発によっても地球大気の核連鎖反応で地球全体の即時炎上はスタートしなかったが、オッペンハイマーの原爆開発によってスタートした全世界の核軍備の連鎖反応は現在も刻々と進行していて、地球全体の炎上終焉の時が近づいているという地獄図の表示がノーランさんのグレートアイディアだったのだと私は考えます。

 映画の始まりから間もないところで、ルイス・ストローズがプリンストン高等研究所の所長の地位をオッペンハイマーにオファーする場面があります。ストローズがオッペンハイマーに提供する予定の高等研究所所長の部屋を案内していると、その窓越しに、所内の広い庭園内の池の縁を散歩しているアインシュタインの姿が見えます。ストローズが「アインシュタインさんに紹介しましょう」と言うと、オッペンハイマーは「いや前からよく知っているから」と答えて一人ですたすたとアインシュタインのところに行き、何やら会話を始める。暫くすると、二人に歩き寄ろうとしていたストローズをまるっきり無視して、アインシュタインは沈鬱な面持ちで通り過ぎて行ってしまいます。二人は何を話し合っていたのか?この自分の悪口ではなかったのか?「疑心暗鬼を生ず」とはまさにこの事、この時点からストローズのオッペンハイマーに対する憎しみがじわじわ増殖を始めます。アインシュタインの暗い表情の理由が明らかになるのは映画の終わりに近いところです。

 この映画の主役はオッペンハイマーとストローズの二人です。ストローズは、全くの私的怨恨から、公人としてのオッペンハイマーを“殺し”、自らも、ワシントンの政治権力闘争の渦の中で“殺されて”しまいますが、オッペンハイマー殺しのためにストローズが組み上げた「オッペンハイマー聴聞会」でのやり取りは、日本人観衆にとっては分かりにくいでしょうが、米国では歴史的有名人であるこの二人を知っている米国の観衆にとってはすごく面白い映画画面の連続であろうと思われます。しかし、ここでも作り話の振幅は甚だ大きい。実際にオッペンハイマー聴聞会で行われたやりとりを知りたい人は、幸いに、『In the matter of J. Robert Oppenheimer  USAEC』(The MIT Press, 1971)というオッペンハイマー聴聞会に関する決定的出版物がありますので参考にして下さい。誰が何を問いただされ、何と答えたか、質疑の詳細なトランスクリプトを主体とする、小さい活字でぎっしり千頁の大冊です。

 ジーン・タトロックとオッペンハイマーとの恋愛関係の描写は、エンタメとしてのハリウッド映画の製作技法として、映画のプロの目には上乗の出来上がりなのでしょう。しかし、これをこの二人の人間の関係の伝記的描写として見るならば、深刻な問題があります。
 この映画が倫理規程としてR(restricted)として指定される内容の映画構成を採用したノーラン監督の意図は何処にあったのか。米国では罵りや苛立ちの表現として「fuck」という言葉が日常的によく使われる様ですが、米国の映画では、この言葉が2回以上使われるとR指定されるのだそうです。この映画では、私が聞き取っただけでも、たしかに妻のキティーが2回この言葉を吐き捨てる場面があり、ストローズも「fucking」と発語する場面があります。三度四度と繰り返し現れるタトロックとオッペンハイマーのヌード・シーンも、勿論、この映画のR指定を保証します。ノーラン監督にこの映画の商業的価値を高める計算があったとしても、何の不思議もない、何の非難にも当たらない事でしょう。しかし、これが、クリストファー・ノーランさんの「オッペンハイマー」であり、この映画の観客が、これをオッペンハイマーの伝記として受けとるとすれば、ここには看過することのできない問題があります。

 オッペンハイマーがパーティでタトロックを見染めてから間もなく、オッペンハイマーの私室で性行為が始まります。一休みの折に、タトロックはオッペンハイマーの本棚から、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギータ』の原書を引っ張り出して、たまたま開いた頁の一箇所をオッペンハイマーに翻訳させます。そこには「I am become death. Destroyer of worlds.」と書いてありました。これは、今では、トリニティ・サイトで最初の原子爆弾が爆発した時、オッペンハイマーが口にした言葉だということになってしまっています。(この I am は I have と同じだそうです。)ノーランの『オッペンハイマー』では、キノコ雲の盛り上がりを前にして、ロバート・オッペンハイマーは「I am become death, the destroyer of worlds.」と呟き、そばにいた弟のフランク・オッペンハイマーは、ただ一言、「It worked 」(うまくいった)と発します。これは全くノーランさんの作り話、それも捻り過ぎの作り話で、実際には、プルトニウム原爆の最初の爆発の時に、兄のロバートが発した唯一の言葉として,弟のフランクが、この「It worked 」を伝えているのです。ロバート・オッペンハイマーのその瞬間の思いは、正にこの一語に尽きたでしょう。

「I am become death, the destroyer of worlds.」という言葉の真意を少しでも多くの人々に理解してもらうためにオリジナルの発言の全体を以下に掲げます:

  A few people laughed, a few people cried. Most people were silent. I remembered the line from the Hindu scripture, the Bhagavad-Gita; Vishnu is trying to persuade the prince that he should do his duty, and to impress him, takes on his multi-armed form and says, “Now I am become death, the destroyer of worlds.” I suppose we all thought that, one way or another.
「僅かな人々は笑い、僅かな人々は泣いた。ほとんどの人々は黙っていた。私は、ヒンズー教の聖典バガヴァド・ギータの一行を思い出した。ヴィシュヌは、王子がその義務を果たす様に説得を試み、王子を威圧するために、自らは、多数の腕をもつ姿に変身して、「今や我は死となれり、世界の破壊者となれり」と語る。私たちの誰もが、あれこれ何らかの形で、そうした想いを抱いたものと私は推測する」

 この発言はオッペンハイマーの死の2年前の1965年に米国の放送会社NBCが制作したドキュメンタリーに記録されたものです。老オッペンハイマーの伏し目気味の面立ちが印象に残ります。

 ロバート・オッペンハイマーの伝記は多数出版されていますが、最も分厚く詳しいのは次の2冊です:
*Kai. Bird and M. Sherwin 『The Triumph and Tragedy of J. ROBERT OPPENHEIMER』(722頁、2005年)
*Ray Monk 『INSIDE THE CENTRE, The Life of J.ROBERT OPPENHEIMER』(825頁、2012年)
ノーランの映画『オッペンハイマー』はバードとシャーウィンの本に基づいたことになっていますが、お話しした様に、忠実ではありません。バードとシャーウィンの本に欠けていて、モンクの本にある重要な議論もあります。それは1960年のオッペンハイマーの次の発言です。これは原爆キノコ雲を前にしてオッペンハイマーが自分と同化していたのは王子アジュナであったことを示しています:

  If I cannot be comforted by Vishnu’s argument to Arjuna, it is because I am too much a Jew, much too much a Christian, much to much a European, far too much an American.
「ヴィシュヌがアジュナに与えた理屈では私の気持ちが楽になれないとすれば、それは、私があまりにもユダヤ人、それにもまして余りにもキリスト教徒、ヨーロッパ人、とりわけ余りにもアメリカ人であるからだ」

この言葉は、晩年のオッペンハイマーが、原爆製造もヒロシマ・ナガサキの壊滅も、「ギータ」によっては正当化出来ない事を自覚していた証拠だと言えるでしょう。

 ところで、米国人のオッペンハイマー像に大きな影響を与えているかも知れない出版物として、一冊の漫画本を紹介します。長いタイトルです:
*『fallout : J. ROBERT OPPENHEIMER, LEO SZILARD, AND THE POLITICAL SCIENCE OF THE ATOMIC BOMB』(2001年秋)
6人の著者の共同作、名前は省略します。

 この漫画本の中程に、KENなにがしがオッペンハイマーのそばに立って「Now we are all sons of bitches」と呟いている絵があります。これは、モンクの本にはなく、バード/シャーギンの本には、トリニティの原爆テストの責任者ケネス・ベインブリッジが爆発テスト成功の後のオッペンハイマーと目があった時に呟いた言葉として記されているだけです(p309)。しかし、これには興味深い後日譚があります。
 トリニティの原爆テストから21年後, ベインブリッジは次の様に回想しています:「爆風が通過してから、私は伏せていた地面から立ち上がって、オッペンハイマーや他の人たちに爆縮法の成功のお祝いを言った。最後に私はロバートにこう言った。「Now we are all sons of bitches」。何年もたってから、彼は私の言葉を思い出して、手紙でこう書いてきた。「我々は君の言ったことを、誰にも説明する必要はない」。私は彼がこう言ったことをいつまでも大切にしておこうと思う。どういうわけか、この言葉を、その背景の前に正しく置くことも、全体を考えて解釈することも出来ず、また、しようともしない妄想家連中がいるが。1966年のこと、オッペンハイマーは私の下の娘に向かってこう言った。「お父さんの言葉が、実験の後で誰が言ったことよりも良かったのだよ」」。オッペンハイマーは、それから間もなくの1967年2月18日夕刻、62歳10ヶ月の生涯を閉じました。

 ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記や芸術作品は無数にあります。ここでは、もう一つだけ追加しておきます。Peter Sellarsが台本を書いたJohn Adams のオペラ『DOCTOR ATOMIC』、私としては、ノーラン監督の『オッペンハイマー』より、このオペラの方を好みます。このオペラのエンディングが凄い。よく耳をすますと「みずをください、みずをください、みずをください、・・・」という日本語が聞こえてきます。観客の何人がそれを聞き取るでしょうか。

 映画『オッペンハイマー』をめぐる騒ぎ方は異常です。「ホロコースト産業」という言葉がありますが、私は、それに連想して「オッペンハイマー産業」、あるいは、「オッペンハイマー現象」という言葉を思い浮かべてしまいます。次回はそれについて考えてみます。

藤永茂(2024年4月11日)

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2 コメント

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ありがとうございます (tsubame)
2024-04-13 17:49:22
とても興味深く読みました。

この「難解」な作品が、どうしてアメリカで一般受けしたのか、知りたいです。
また、私たち日本人には事前学習や解説抜きでは理解できない内容なのに、
今動員数の上位にいるのはなぜか、不思議です。口コミが出れば、観客は減るだろうと思ったのですが…。

続きを待っています。
アメリカン・ヒーロー (ume)
2024-04-14 20:40:55
映画の核兵器開発者の像は、『DR. STRANGELOVE』でPeter Sellersが演じたストレンジラブ博士が決定的だと思います。
アメリカ映画は、R.ニクソンやジョン・エドガー・フーヴァーやR.オッペンハイマーなどのダークな人物も苦悩するに人間として、ヒーローに祭り上げているようです。
英雄を必要とする国は不幸なのでしょう。
映画『オッペンハイマー』は、はたして『ガリレイの生涯』より進んでいるのでしょうか ?

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