敗戦の1945年から4年後の1949年に湯川秀樹博士が日本人として初のノーベル物理学賞を受賞しました。敗戦後の日本国内を大いに元気付けたニュースでした。1952年4月には湯川記念館(正式名称は京都大学基礎物理学研究所)が設立され、1953年9月には湯川博士を会長として、国際理論物理学会議が京都と東京を中心に開催されました。 ウィキペディアには、日本初の国際会議とあります。ウィキペディアの記事に挙げられている参加者リストは不十分で、より詳しい資料は山口嘉夫博士による次の記事にあります:
海外からの出席者の選定は小谷正雄先生を中心に行われました。既によく名を知られた学者たちだけでなく中堅や若手も含まれていましたが、会議開催の時点でノーベル賞受賞者は一人もいなかったのに、会議後に、その参加者の中から15人ものノーベル賞受賞者が出ました。小谷先生たちの鑑識眼の鋭さ高さを物語っています。
この画期的な国際会議の当時、私は九州大学理学部物理の大学院特別研究生、有象無象の出席者の一人として湯川記念館に赴きました。当時の記憶で一番はっきり残っているのは、「泉屋のラスク」です。参加者には泉屋のクッキーの小箱が配られたのですが、田舎出の貧乏書生、「泉屋」も「ラスク」も知りませんでした。「こんな美味しい結構なものがあるのか!!」
ところで、おかしな噂話が会場で飛び交いました、「ヴォルフガング・パウリが参加しようとしたが、湯川さんがノーと言ったらしい。湯川さんが彼の非局所場理論の第一報の講演をプリンストンでしたら、そこに居合わせたパウリが「第二報は永久に出ないだろう」とこき下ろしたことがあったのを湯川さんが根に持ったからだ」というものでした。ハイゼンベルグもボルンも呼ばれなかったのですから、この噂は根も葉もないことだったのでしょうが、パウリという人のこうした傍若無人ぶりは、物理屋の間では有名なものでした。
オッペンハイマーがどのような人間であったかを判じるのに、彼とパウリとの美しい関係を知ることは極めて重要、それに関連する面白い逸話を紹介しましょう。拙著『オッペンハイマー』(ちくま文庫、88頁~)からの転載です。
W.ファリー(Wendell Furry, 1907-1984)はハーバード大学の教授として重きをなした理論物理学者ですが、彼が、イリノイ大学で博士号を取得する前年の1931年、ミシガン大学で開催中の理論物理学国際夏の学校に出席しました。講師としては、海外からゾンマーフェルト、クラマース、パウリという大物が選ばれ、米国人はオッペンハイマー一人だけでした。オッペンハイマーがディラックの相対性電子理論の話をしていると、突然パウリが立ち上がって、黒板の前に進み出てオッペンハイマーの話をさえぎり、「いやいや、そんな話は全部まちがいだ」と叫びました。(黒板に書いてあった数式を消してしまったという説もあります。)オッペンハイマーも負けていませんでした。クラマースが中に入って、やっと騒ぎがおさまり、パウリは元の席に戻ったのでした。天下のパウリを相手に堂々と応酬するオッペンハイマーの勇姿がファリーの心に焼き付き、元々は、イリノイで博士号取得してポストドック奨学金を手に入れるとハーバード大学で研究生活を始めるつもりでしたが、結局、オッペンハイマーの居る西のバークレーに行き先を変えたのでした。
オッペンハイマーがパウリの毒舌に傷つけられなかったのには深い理由がありました。話を数年前に戻します。1927年夏、ヨーロッパから帰国して、カリフォルニアで就職したオッペンハイマーでしたが、物理学者としてさらなる研鑽を求めて、1929年1月にはスイス、チューリッヒのパウリのもとに行きます。滞在は僅か半年でしたが、得たものは莫大でした。オッペンハイマーは、晩年、次のように回想しています:「それは実に身の為になった期間だった。私は極端なまでにパウリに尊敬の念を抱いたばかりでなく、しんそこ彼が好きになり、彼から多くのことを学んだ。・・・・パウリと過ごした時間は、ただただこの上もなく素晴らしいものに思えたのだった」
ヴォルフガング・パウリについてもっと知りたい方は次のサイトをご覧になって下さい:
生涯の終わりまでオッペンハイマーの心の友であったイシドール・ラビとの親交は二人がチューリッヒのパウリのもとで研究に従事した時に始まりました。ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』でもラビは大きな役割を担っていますが、二人の出会いは事実と異なり、パウリは出てきません。
オッペンハイマーが亡くなった直後、ラビを中心に編集されたオッペンハイマーについての本が出版されました:
『OPPENHEIMER』(Charles Scribner’s Sons・New York, 1968)
古い本ですので、入手しにくいでしょうが、オッペンハイマーに本格的に興味を持った人には一見をお勧めします。ラビが6頁に及ぶ序文を書いています。その中に、オッペンハイマーとパウリのことも出てきます。ロバート・サーバーの文章も必見です。その中には、オッペンハイマーが愛した日本人物理学者日下周一の名も出てきます。「オッペンハイマーは原爆の父ではなく産婆さんだ」と私は思っていますが、それをサポートしてくれるヴィクター・ワイスコップの言葉もあります。ロスアラモスでのオッペンハイマーの役割について「It was not that he contributed so many ideas or suggestions; he did so sometimes, but his main influence came from his continuous and intense presence」(25p)とワイスコップは書いています。
ロバート・オッペンハイマーがどんな人であったか、その答えの一つは、彼とその教え子の日下周一との関係を知ることから得られます。オッペンハイマーにとっては人間と人間との関係が何よりも大切であったのだと私は思っています。
前回のブログ記事で末尾に「私は、ロバート・オッペンハイマーとアルベール・カミュには重要な共通点があると考え始めています。次の記事でそのことを論じます」と書きましたが、次回に先送りします。
藤永茂(2024年5月2日)
川崎恭治さんは九大物理の学生さんの頃から知っていました。晩年には九大で私の同期の平川金四郎が福岡市内で開いていた絵の展覧会などでしばしばお会いしていました。川崎さんの御母堂は長崎で原爆を経験になり、反核の運動に参加しておられました。川崎さんは本当に立派な学者さんでした。