篝火シシ踊り奉納も最後です。
地元の幕踊り系シシ踊りを代表して、上郷町の板澤しし踊りさんです。
古くは板澤獅子踊りと表記していました。
上郷町には、他に佐比内しし踊り、細越獅子踊りがありますが、
廃絶しましたが、火尻、暮坪、平倉にもあったようです。
ところで、遠野のしし踊りの特徴はと云うと、幕踊り系であることには違いないのですが、
だからと云って、県内の幕踊り系が同じかと云うと、そうでもないのです。
太刀ふり(刀かけ)という踊り手や、中太鼓と云って両手に4、50センチほどの飾りのついた棒を持った子が登場します。
紫波から盛岡周辺のしし踊りには、このような役は見えませんが、
大槌町、釜石固有のしし踊りには、太刀ふりはありますが、中太鼓はないようです。
前列が中太鼓、真ん中が太刀ふり、その後ろがシシ
遠野にいると、この構成が当たり前だと思っていますが、幕踊り系でも特異な存在です。
一方、山形県や紫波・盛岡周辺のシシ踊りには太鼓が一緒に踊るものがありますが、
遠野、大槌、釜石では太鼓は踊りません。
太刀ふりや中太鼓が、列になったり、輪になって踊り、これが賑やかさを演出します。
ここで、太刀ふりは刀を振るというのはわかりますが、中太鼓って何かな?と疑問に思いませんか?
持っている道具は、田植踊りでも使用していますが、太鼓は持っていません。
しかし、中太鼓というからには、田植踊りでも、以前は何かしらの太鼓を打っていたのではないでしょうか。
それが太鼓が無くなり、バチを持って踊る所作だけが残った。
と、私は想像しているところです。笑
青笹獅子踊保存会・遠野市教育員会編「遠野郷青笹しし踊り」には、
刀かけは山神踊り、中太鼓他は豊年踊りであると記されていますが、
豊年踊りは田植踊りと解釈できそうですが、山神踊りとは何を指すのでしょう?
神楽だという人もいますが、江戸時代に遠野でも流行ったという剣舞かもしれません。
いずれにしても、どこかの時点で、この構成に落ち着いたのでしょう。
写真は、近年、板澤しし踊りさんが良く演じる「四つがかり」
違い鎌の建物(シシ頭のマーク)を付けたシシが踊りながら、後ろに下がっていく「あとすがり」
で、「篝火シシ踊り奉納」の一切が終了となりました。
異なる地域のシシ踊りを見ると、一般には、あそこのがいい、ここのがいいと云うだけの見方になりがちですが、
其々の地域に残っている他の芸能の背景を考えながら見ると、また、違った面白さが見えてくるものです。笑
幕踊りも、県内だけでも様々。
「貞山公治家記録」には伊達政宗が片倉小十郎の屋敷で獅子踊りを見た。とあり、時代は米沢にいた天正年代。
そのことから考えても、江戸時代以前にはシシ踊りが東北に広まっていたことがわかります。
現在のような幕踊り系、太鼓系に分かれ、尚且つ、其々の特徴が明確になるのは、藩の境界が明確になった江戸時代だと思います。
その江戸時代、各藩の芸能に対する規制の仕方や、その地域に存在する別な芸能のあり方等が、踊りや構成の変化となり、
当初、伝わった唄に、共通性が見いだせる程度になって今日に至る。と私は想像しています。笑
さて、今月末は駒木鹿子踊り、しっかり、記録して下さいね!