「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

東北民謡の父と田植踊り

2007-12-13 21:35:26 | 郷土芸能
  ●武田忠一郎●
 遠祖は甲斐国より出て、南部氏一族九戸家の客分となる。功ありて軽米郡に移り、小軽米を名のる。紆余曲折ありて、小軽米源太左衛門信義は武田家遠野初代となる。宝暦13年(1763)~天保3年(1832)のこと。
 八代軍右衛門信将(小源太と称す)の代にて明治維新となり、帰農。武田に改姓。慶応4年の時点では、25石と他に御切米片馬ぶん。(維新時にどこに住んでいたのか知りたくも、不明)
 忠一郎は十代直二郎の子として、明治25年遠野町石倉に生まれる。子供の頃より音楽が好きで神楽や田植踊りの笛が好きで、後に東北各地にあった童謡や民謡を訪ね歩き、採譜したものがNHK東北民謡集としてまとめられる。また、東北各地の小唄や校歌の作曲も手掛ける。(県立遠野農業高等学校校歌の作曲、県立遠野高等学校校歌の編曲、遠野小唄の作曲など)故に、東北民謡の父と称される。福島県出身の民謡歌手原田直之氏の奥さんは武田氏の娘さんである。

 以上が、概略プロフィール



  遠野物語研究所の佐藤誠輔著「武田忠一郎小伝」の中にはある一節に、明治後半から大正期の遠野の小正月の様子が載せられている。 

 ●旧正月になると遠野の町には、近在の村から田植踊りの一団がやってきた。紅白のタスキを十字に掛けて赤、黄、青の踊り衣装の若者や少女達は、手に手に唐団扇をかざし、小太鼓を抱え、十数名から時には百名を超える行列をつくって町中を練り歩いた。商家の門口に来ると太夫の「ご門ほめ」が唄われる。
  
  これは殿のご門の上に鶴と亀はひとつがい
  羽根を鳴らし 嘴を揃えて ご盛大と挙げてさやじる

 すると庭先に早乙女、中太鼓などの踊子達が、庭打込みの円陣をつくる。

  東西南北 若水かわっておめでたい
  この家に内宮、外宮、末社の福の神を迎え
  ご祝儀の御田植えを始めますぞ

 前口上が述べられ、庭田植えの演目が披露される。
旦那、太郎、野平、早助、藤三郎、徳左衛門、やん十郎などの主役達が、一年の耕作を演じていく。

 この一部は、市内の郷土芸能競演会や保育所の園児による催しで見られるだけで、遠野祭りでは、ほんの一部の演目が行なわれるのみとなっているのだが、本来は、通しで行なう芸能であった。



 ●菅江真澄●
 江戸時代に東北や北海道アイヌの風俗をまとめた人物。その中に天明大飢饉の3年後にかかれた岩手県胆沢町の滞在記「かすむこまがた」には次のようにある。

 正月18日(小正月) 田植躍というもの来る。笛吹き鼓を打ち鳴らし、また、銭太鼓とて檜曲に糸を十文字にひき渡し、その糸に銭を貫いて是をふり、紅布半纏したるは奴田植といい、青笹着て女の様しては早乙女田植えと云えり。
 やん十郎という男、竿鳴子を杖につき出て開口せり。それが詞に「えんぶりずりの藤九郎が参りた。大旦那のお田植えだと御意なさるる事だ。
 前田千苅リ、後田千刈、合せて二千刈あるほどの田也。馬にとりてやどれやどれ、大黒、小黒、大夫黒、柑子栗毛に鴨糟毛、躍り入んで曳込んで、煉れ煉れねっぱりと、平耕代、早乙女にとりては誰れ誰れ、太郎がカカに次郎がカカ、橋の下のずいなしがカカ、七月姙身(ナナツキコバラ)で、腹産(コバラ)では悪阻(ツハク)とも、植えてくれまいではあるまいか、さをとめども」と云い終えて、踊るは、みな、田をかいならし田ううるさまの手つき也。
 「うえれば腰がやめさふら、御暇申すぞ田ノ神」と返し返し唄い踊る。そが中に、瓠(ナリヒサゴ)を割りて目鼻を入れて白粉塗りて仮面として、是をがふりたる男も出まじり戯れて躍り、此事はつれば酒飲せ、ものくはせて、銭米扇など折敷にのせて、今日の祝言とて田植踊等にくれけり。



 現代文には訳す能力はないが、口上に違いはあっても、似たような踊りだったのではないかと想像される。また、遠野では藤三郎で胆沢では藤九郎となっている。同じ菅江の秋田や青森での田植躍りでも、藤九郎であることから、本来は藤九郎だったのだろう。八戸のえんぶりに出てくる藤九郎も、この田植躍りが原型ではないかと云われている。
さらに同じ菅江の「奥のてぶり」では、寛政6年(1794)の正月、田名部でのえんぶりでは「えんぶりするをここにて藤九郎といい、仙台にてはやん十郎という」とあることから、岩手の田植躍りは、その中間地域として、藤九郎もやん十郎も、装いの男女の違いも、両地域の影響を受けて引き継がれてきたものなのだろう。

 また、「田植躍り」と似たような芸能に「春田打ち」というものがあり、これについても菅江は文章を残している。これも江戸時代の遠野で演じられていた記録があるが、いずれ。



 安心していると突然やってくる雪。今朝はかなり寒かったので、もしやと思っていたら、どか雪となった。明朝は雪かきが必要かもしれない。

 
 


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8 コメント

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小軽米 (とらねこ)
2007-12-15 22:16:17
またまた遠野に今は聞かれない苗字が・・・・笑

八戸から遠野へ来た当時も小軽米姓の家臣はいたようですが、その末裔ですかね、それとも軽米の一部は遠野の飛び領地といったところで、その関連からですかね?・・・・阿曾沼時代に遠野南部時代、やはり一筋縄ではいきませんね。
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小軽米氏 (笛吹童子)
2007-12-15 22:41:34
  とらねこさんへ:
 小軽米氏については、とらねこさんがいつも図書館で見ている諸氏系譜関係の本を見ていないのでよくわかりません。「松崎じぇんご2」の「遠野南部家臣団」を見ると、寛永11年ぶんで小軽米正右衛門の名があり、維新直後のぶんにも軍右衛門の名があります。軍右衛門の先祖が遠野に来たとされるのが、村替え以降のことであれば、正右衛門を頼ってきたことになりそうです。しかし、維新前後の禄高は、同じ苗字でも軍右衛門が多く、正右衛門直系とも考えられます。本で確認してください。笑い
 話は変わりますが、ブログで御馴染みの八戸の藤九郎さんは、えんぶりの登場人物からつけた名前なのですか?
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えんぶり (とらねこ)
2007-12-16 13:46:54
小軽米氏はその内に調べたいと思ってます。

八戸の藤九郎さんは、おそらくえんぶりでの藤九郎だと思ってますが、本人が来遠したときにでも確認したいと思ってます。

それと、あくまでも予定ですが、23日来遠と一応連絡をいただいております。
もしよろしければ夜の部、お付合い願えればと思ってますが、いかがでしょうか?

いつもは軽く居酒屋で飲んで語って、後はラーメンでも食べてお開きが主です・・・22時頃には解散してますので・・・・。
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えんぶり (笛吹童子)
2007-12-16 21:25:55
  とらねこさんへ:
 藤九郎殿来遠、心の留めておきます。笑
 体調を崩しているようなので、治ればいいですね!
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出版しました (神楽童子)
2009-11-22 22:05:10
日々お世話様です。いつもホームページ拝見させてもらってます。今回念願叶って自費出版の運びとなりました。10月中旬より各書店にて販売してます。若き日の神楽師の物語でタイトルは「お神楽初恋巡演記」です。いち早く岩手県立美術館ライブラリー&書庫で配架になりました。また情報誌悠悠そしてFM岩手「岩手の本棚」でも紹介されました。詳しくはblogとりら(http://torira.exblog.jp/)神楽民族芸術見聞(http://okuderazeki.at.webry.info/)参照願います。是非お手に取り昭和の郷愁を蘇えらせて欲しいと思います。

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郷土芸能 (笛吹童子)
2009-11-23 15:18:05
  神楽童子さんへ
 初コメ&告知ありがとうございます。笑
 「とりら・神楽民俗芸術見聞」拝見させて頂きました。かなり広範囲に見聞されておられ、驚きました。そして、何よりも私の好きな分野が掲載されており、ちょくちょく、まがって見たいと思います。
 で、昨日の板沢しし踊りに同席していたということは、少しだけ会話をさせて頂いた方といことになるのでしょうか?
 これからも、ご教示、よろしくお願いします。
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小軽米? (神楽童子)
2009-11-23 17:46:58
以前デーリー東北掲載で旧題目は軽米物語。著者はなんと小軽米の出身です。また本家は旧八戸藩の隠し金山で屋号は金山堂です。詳しくはお神楽初恋巡演記に書いてます。なにかヒントになるのかもしれません。
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軽米物語 (笛吹童子)
2009-11-24 07:37:13
  神楽童子さんへ
 重ねての御紹介ありがとうございます。
「お神楽初恋巡演記」了解しました。笑
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