●遠野物語39話●
佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大きな鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父曰く、これは狼が食ひたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見てをるに相違なければ、取ることができぬといへり。
この感覚こそが、まさに狩猟民的な生々しい感覚だと京都造形芸術大学の山折先生が遠野物語ゼミナール2003の記念講演で述べられている。山を歩いているといつ動物が襲ってくるかもしれない恐怖感を持ちながら、猟師はその動物を獲るために歩く。(動物の世界のルールを尊重しながら)このような生き方は、初期の修験道の人々にも通じるもので、長い間、この国にはこういう感覚が受け継がれていたと。
これは、遠野市立博物館裏にある下屋敷稲荷神社であるが、三明院の祈祷所に祀られたものが、いつしか高善旅館の守神となったと「遠野の神々と民話の里」では紹介している。江戸時代の遠野では、俗別当が掌握していた稲荷さんは50社を超えており、一番数が多い神社だった。(中でも鱒沢・小友が群を抜く)熊野を祀る地域とその数が比例するような感じがする。
個人の稲荷さんについては、江戸時代は勿論のこと、明治に入ってから現在のように各家で持つようになったといわれるが、中でも、南部氏に縁のあるものは、上郷の繋、赤羽根と遠野町の欠ノ上稲荷なのだが、なぜ、数ある稲荷の中で、この三ヶ所に、援助の手を差し伸べたのだろう?
稲荷さんは、ご存知のとおり、宇迦神社と同じように食糧生産や商売繁盛の神様として農業や商業の方々が信仰する神様で、全国トップの数を有する。
前段で、狼の話をしながら狐の話を持ち出すのは不思議なのだが、狩猟民としての山の民がいつから、平地人としての農業を営むことになったのだろうという問いに、答えを見出そうと悪あがきをした結果・・・答えがでるはずもなく。(ただ、蓬田遺跡からの出土品から奈良時代には確実に稲作が行なわれていたようだが。)
それにもまして、意図的に農業を推進したのは、南部氏入部以降なのではとの推察の答えが、上郷の稲荷・・・・。また、なぜ、上郷でなければならなかったのか?
それは、阿曽沼氏の力が遠野から消え失せる最終章に位置する戦いによって命をおとした数多くの武将が上郷の人々だったからで、金山開発や狩猟を始めとした山人の生活から、年貢を納める農民の生活へと移行させる手段のひとつが、稲荷信仰だったのではと、田植の風景を見ながら感じている。(とり止めのない文になったことを反省しながら)
●狼に関わる神社は、飯豊の三峯神社と青笹町糠前の実木にあるミズメ神社●
佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大きな鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父曰く、これは狼が食ひたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見てをるに相違なければ、取ることができぬといへり。
この感覚こそが、まさに狩猟民的な生々しい感覚だと京都造形芸術大学の山折先生が遠野物語ゼミナール2003の記念講演で述べられている。山を歩いているといつ動物が襲ってくるかもしれない恐怖感を持ちながら、猟師はその動物を獲るために歩く。(動物の世界のルールを尊重しながら)このような生き方は、初期の修験道の人々にも通じるもので、長い間、この国にはこういう感覚が受け継がれていたと。
これは、遠野市立博物館裏にある下屋敷稲荷神社であるが、三明院の祈祷所に祀られたものが、いつしか高善旅館の守神となったと「遠野の神々と民話の里」では紹介している。江戸時代の遠野では、俗別当が掌握していた稲荷さんは50社を超えており、一番数が多い神社だった。(中でも鱒沢・小友が群を抜く)熊野を祀る地域とその数が比例するような感じがする。
個人の稲荷さんについては、江戸時代は勿論のこと、明治に入ってから現在のように各家で持つようになったといわれるが、中でも、南部氏に縁のあるものは、上郷の繋、赤羽根と遠野町の欠ノ上稲荷なのだが、なぜ、数ある稲荷の中で、この三ヶ所に、援助の手を差し伸べたのだろう?
稲荷さんは、ご存知のとおり、宇迦神社と同じように食糧生産や商売繁盛の神様として農業や商業の方々が信仰する神様で、全国トップの数を有する。
前段で、狼の話をしながら狐の話を持ち出すのは不思議なのだが、狩猟民としての山の民がいつから、平地人としての農業を営むことになったのだろうという問いに、答えを見出そうと悪あがきをした結果・・・答えがでるはずもなく。(ただ、蓬田遺跡からの出土品から奈良時代には確実に稲作が行なわれていたようだが。)
それにもまして、意図的に農業を推進したのは、南部氏入部以降なのではとの推察の答えが、上郷の稲荷・・・・。また、なぜ、上郷でなければならなかったのか?
それは、阿曽沼氏の力が遠野から消え失せる最終章に位置する戦いによって命をおとした数多くの武将が上郷の人々だったからで、金山開発や狩猟を始めとした山人の生活から、年貢を納める農民の生活へと移行させる手段のひとつが、稲荷信仰だったのではと、田植の風景を見ながら感じている。(とり止めのない文になったことを反省しながら)
●狼に関わる神社は、飯豊の三峯神社と青笹町糠前の実木にあるミズメ神社●
下屋敷稲荷神社はもとは城の中に有ったそうで、名前も下屋稲荷だったそうだ。(高善・故高橋甫の話)
この鳥居の脇に馬頭観音が有りますが、明治42年柳田国男が天神さんのお祭りに乗っていった馬の供養塔だと言われております。
鳥居脇の馬頭観音が、柳田縁の馬の供養塔という話は、ぜひ、観光パンフレットに載せて頂きたいものだと、ひとり感激しています。博物館見学後に、廻った頂きたいコースになり得ますね。
(但し、社へ至る鉄骨製の階段を修理しなければならない時期にきているのも事実なので、境内の草取りやらと合わせて整備していただきたいですね!笑)
これは、ますます、ほっておけない話です。遠野観光の奥行きの深さを知っていただく絶好の材料ですよね!すぐ対処できる話題なのに!
勿論、「裏口からこーんにーちはー」で、帰りは博物館裏手に降りて参りました。
ここも独特な空間でした。
登り口(裏手ね)に桜の古木があったり、鳥の羽根の残骸が2、3箇所に散らばっていたり(どーぶつの仕業?)・・・・お社は独特な雰囲気があったりと・・・・
ここは近々載せると思います。
↑のコメントも面白いですね。
いや~、近場の神社となると、童子的には話題性に欠けるとの判断から、とり上げないようにしていましたが、どうにも・・・。
TAMA目で見た同一神社を期待して待ってます。笑
沢に近き岸の上に、大きな黒きク○あるのを見たり。
光沢がありて、たれてまだ間もなきにや、
そこよりはまだ湯気立てり。友人曰く、
これは熊がたれたるなり。この辺の「しどけ」
ほしけれども熊は必ずどこかこの近所の山中に居るに
相違なければ、鈴や爆竹鳴らして追い払へれば
採ることができるといへり。
こののちのち笛吹童子殿に「しどけ」献上せり
どんどはれ
美味しいございましたよ。「しどけ」
あれから、次々と献上品が届けられ、焼酎のロック割がすすむ毎日です。今週末は、小学校の運動会、天気が心配ですが、我が子の為にがんばりましょう!
行きましたよ!
桜が今一だったのでネタ探しにまがってみましたよ。
ちょっち暗い雰囲気でしたが、確かに鉄階段はスリルありました。(爆)
あと曹源寺のアセビなんて立て札が転がっていたりして・・・・あとはエントリーのネタにしてるので公表は控えます。(笑)
TAMAちゃんにも云ったけど、童子的には、近場は・・・。って、また、云うけど、周辺の風景を載せないのが、これまた、童子でして・・・・。というより、目的のもの意外、デジっていないので、安心してUPして下さい。笑