「いちご白書をもう一度」という曲がある。荒井由美の曲だが、なぜかしら、頭をかすめる。先週の土曜日「親不孝」をしていた日に私とあまり齢の変わらない千葉にいる従弟が脳梗塞で倒れた。幸いにも、無事だったようだが、その知らせのせいか体力的なもののせいか今週はどうも調子がでない・・・。もしかして、五月病・・・・。そんな訳はない。嫁はん曰く「あんたは殺したって死なないタイプだから!」
そんな元気をもらう一言?を励みに?
●赤羽根稲荷神社●
赤羽根:伊能嘉矩氏は、アイヌ語のAkka(水)Pana(河下)水の下尻「アッカパナ」と解いている。一方、地元の人菊池久次郎氏は「山の走り根のところで山頭部の所である」と。また、奥州仙台領遠見記では、「赤八年」と記しているという。遠野では、青笹にも同じ地名があり、苗字にもある。かの江戸にもあり、関連書物を読んだ際には、久次郎氏と同様の説が掲載されており、やはり、アイヌ語地名とあった。
「遠野の神々と民話のふる里」の細越氏によると、
この神社の由来については不明であるが、天文年中(1532~1555)阿曽沼の臣、平倉村の地頭、刃金館主平倉千右衛門が京都の愛染寺より勧請して創建されたという。天明8年(1788)8月23日、萩野条右衛門勝信ほか6名が願主となって社殿の修復が行なわれ、東善寺法印宥尊によって武運長久の祈願がなされた。とある。
天明8年は、あの「天明の飢饉」(1783)の後のことで、飢饉を乗り切った後で、修復されたことになり、飢饉によって荒れた社を荻野以下が直したということか?この萩野「はぎの」、最初に見たときには荻野「おぎの」の間違いではないかと思った。というのは、この地域に居るのは荻野「おぎの」姓の方々だからであるのだが、南部氏家臣には萩野姓が見られることから、間違いではないようだ。ただ、不思議なのは、この赤羽根には伊達領境ということで番所が置かれ、そこは、元造り酒屋の荻野「おぎの」氏の所有地となっており、このややこしさは、まさに?である。
例のコピーを見ると、平倉には2箇所の稲荷があり、以前載せた繋稲荷と赤羽根稲荷のことと考えられる。俗別当名は、ひとつが十右衛門で、もうひとつが千右衛門とある。上記の平倉千右衛門と俗別当の千右衛門、繋がりはあるか?代々、襲名した名前ではなかろうか?
●もうひとつの稲荷●
青笹から国道340号線を上郷方面に向かい、青笹・上郷の境界附近の左側の田んぼの中にぽつんとある社。(SMCの工場の南側附近)個人所有の稲荷様なのだが、なぜ、田んぼの中にあるのだろうといつも思う。稲荷さんのイメージは今回の赤羽根や欠ノ上のように大規模なものは、山にあり、他は屋敷の敷地内にあると思っているのだが、なぜ、田んぼの中?かつて、そこに家があったのか?田屋があったのか?雷が落ちそうな場所からして、雷様かとず~と考えていた社である。
そんな元気をもらう一言?を励みに?
●赤羽根稲荷神社●
赤羽根:伊能嘉矩氏は、アイヌ語のAkka(水)Pana(河下)水の下尻「アッカパナ」と解いている。一方、地元の人菊池久次郎氏は「山の走り根のところで山頭部の所である」と。また、奥州仙台領遠見記では、「赤八年」と記しているという。遠野では、青笹にも同じ地名があり、苗字にもある。かの江戸にもあり、関連書物を読んだ際には、久次郎氏と同様の説が掲載されており、やはり、アイヌ語地名とあった。
「遠野の神々と民話のふる里」の細越氏によると、
この神社の由来については不明であるが、天文年中(1532~1555)阿曽沼の臣、平倉村の地頭、刃金館主平倉千右衛門が京都の愛染寺より勧請して創建されたという。天明8年(1788)8月23日、萩野条右衛門勝信ほか6名が願主となって社殿の修復が行なわれ、東善寺法印宥尊によって武運長久の祈願がなされた。とある。
天明8年は、あの「天明の飢饉」(1783)の後のことで、飢饉を乗り切った後で、修復されたことになり、飢饉によって荒れた社を荻野以下が直したということか?この萩野「はぎの」、最初に見たときには荻野「おぎの」の間違いではないかと思った。というのは、この地域に居るのは荻野「おぎの」姓の方々だからであるのだが、南部氏家臣には萩野姓が見られることから、間違いではないようだ。ただ、不思議なのは、この赤羽根には伊達領境ということで番所が置かれ、そこは、元造り酒屋の荻野「おぎの」氏の所有地となっており、このややこしさは、まさに?である。
例のコピーを見ると、平倉には2箇所の稲荷があり、以前載せた繋稲荷と赤羽根稲荷のことと考えられる。俗別当名は、ひとつが十右衛門で、もうひとつが千右衛門とある。上記の平倉千右衛門と俗別当の千右衛門、繋がりはあるか?代々、襲名した名前ではなかろうか?
●もうひとつの稲荷●
青笹から国道340号線を上郷方面に向かい、青笹・上郷の境界附近の左側の田んぼの中にぽつんとある社。(SMCの工場の南側附近)個人所有の稲荷様なのだが、なぜ、田んぼの中にあるのだろうといつも思う。稲荷さんのイメージは今回の赤羽根や欠ノ上のように大規模なものは、山にあり、他は屋敷の敷地内にあると思っているのだが、なぜ、田んぼの中?かつて、そこに家があったのか?田屋があったのか?雷が落ちそうな場所からして、雷様かとず~と考えていた社である。
”バンバン”の歌で大ヒットした曲ですね。
よくコピーして歌ったものです。
フォーク全盛からニューミュージックといわれるジャンルへ変化していったあの頃。
切ないまでにも胸がキュンとする青春時代でした。
水をの事を「あっこ」と言いますが、ふむふむ。
アイヌ語の勉強をしないといけないようです。
さて、田の中の稲荷様。野田の稲荷も田んぼのど真ん中ですね。祀るときの場所選定については何も知りませんがどんなことで決めるんでしょうか。知りたいなぁ。ほれ、レイラインのこともあるからさ。
「バンバン」と言えば、「ばばんば ばんばんばん」。ザ・ドリフターズのいい湯だなときたもんだ!
湯はアイヌ語で何というのだろう?水つながりということで・・・・。「アッピ」も「アッケ」も水からきた言葉ですね。でも今日の天気は、また、雨。水の神様の「御いた」が過ぎますよね。は~や~く~来い来い、ほんとの春よ~。お粗末
野田稲荷も、もとは、薬研渕橋を渡って一如さんのお宅があるであろう方向へ行った道路の南西側にある集落にあったと言われています。圃場整備等で、現在地移ったようです。
それ以前の野田の話ををお聞きください。今の木より以前の。きっと、話がわかるはずです。
今月、2回目の飲み会が終わり只今帰宅。名刺を配りつつ、その間違いに気づく。もう遅い?自分のブログの名前が違っていたようだ。これって、やはり、R2廃まあ~? 皆さん おきをつけ下さいマシ!!
今日は、昨日に続き、今週2回目の飲み会が終わり、先ほど帰宅しました。(流石に耐力がもちましぇ~ん)ちなみに隣の席は、一如さんの上司でした・・・
また、同じテーブルに、名梨さんが同席で、野田稲荷のお話を伺うことができました。私の聴取不足で、稲荷が移ったと書きましたが、どうやら、稲荷は動いていない様子。だとすれば、動いたのは、橋の付け替えによって、集落のほうが動いたのでは?と考え直しました。
さて、野田稲荷。圃場整備で動いたのは橋でしょう。どの橋から見て南西だったのかということかもよ。流されたまま再建されなかった橋もあったようですから。
昨日、秘密結社2の方でホウリャウから ”びへ~”の話になり熊野とのつながりなど、???ばかりを出し合ってきました。「ふしぎの里・遠野」(by たまひめ)とは本当だすな
やっと今日は、普段の生活。歳の割りに子供が、まだ小さいので昨日は、高ではなく、中の授業参観、PTA総会、歓迎会でした。両方の子供に同じようにしようと努力していますが、小の家庭訪問は何とか嫁さんに休んでもらい、中の対応となりました。小の縁が切れたわけでもなく、掛け持ちで夜の部までとなると、流石に無理なようです。(本当はブログのように本来やりたいことをしたいのですが)
前置きはそれぐらいにして、秘密結社2とは、どんな集団なんですか?怪しい集団?