「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

細越愛宕神社

2007-04-21 00:23:19 | 愛宕
  此の地に愛宕神社とその境内に雷神あり、佐藤何某氏の管理でる。又、西方に篠ヶ館(別名関口館)あり。大字細越関口にあり、現在は萱場で一部雑木林になっている。頂上の後方に二篠の空堀址があって山に続く、前方は数段になり北麓に早瀬川が流れる。西麓を小川が流れ、如何にも要害の地のように見える。阿曽沼氏の臣鱒沢左馬助の一族関口某の居た所と伝えられる。頂上より、瓶を掘り出したことがあり、又一説に依ると越田山より此の壕に水を引いたと言われる。(上郷村郷土教育資料)

                 

 先の文章に登場する愛宕神社。場所はわかるのに、道がわからず、行きそびれていたが、皆さん同様にトンノミの白山姫や八幡さんを見つつ、何度も行ったりきたりした社。手持ちの地図では、管理している佐藤氏のお宅から道路をまっすぐ南へ行けばよいことになってはいるが、早瀬川にあるべき橋がなくなっている。川だけでなく、新しい釜石道によって、分断された様子。本来は橋を渡ると社が見え、脇の道を登ると、そこがアタゴ沢となるのだが。

                 

 今は、佐野橋を渡り、徒歩の場合は、新釜石道なりに西へ進むとその道路下をくぐって神社の下に行くことができる。また、車では、JR釜石線の脇の道を釜石方面に一旦向かい、大きくて立派な和風住宅の手前から線路を渡り、釜石道なりに西へと行くと神社下へと繋がる。(目と鼻の先にある神社へ行くのに、この面倒くささ。)
 明治以前に、羽黒派修験大蔵坊が檀那場としていた愛宕権現がこの神社と思われる。

●話は変わるが●

                 

 先日の山口ホウリャウ社に行く手前、水車小屋の北側山に十二薬師さんがあるが、そこの鳥居そばに、どうやればここまで、ねじれるのかと思うほどの松が見える。一般的に、社寺のそばにある樹木はそれなりに手入れをされているものなのだが、見事にねじれている。
 松の木はそもそも、ねじれながら生長するもので、製材したものでも元の形状に戻ろうとまたねじれる性格の木で、その扱いは難しいのだが、遠野の大工さん方は、そのねじれに逆らわないように上手に使っているようだ。この松を見ているとこの土地の自然の厳しさがよくわかるようだ。そして、この厳しい土地を開墾した先人達が願いをこめて宝領と名付けたのも頷ける。
 さて週末は、4月後半最初の親不孝の日。懐具合に相反するように徘徊することになりそう。ひねくれ松と自分がどこか似ていると思いつつ・・・・。


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4 コメント

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Unknown (about)
2007-04-22 08:10:13
おはようございます。
愛宕さんも山伏と無関係ではないんですね。
熊野ではないので出羽三山の山伏ですか。
というか最近まで山伏と言えば出羽三山だとばかり思ってました(笑)。
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かけもち (笛吹童子)
2007-04-22 11:13:44
  aboutさん:
 昨夜はご苦労様でした。私は、二つかけもちだったので、最初と最後はご一緒できずに申し訳ございませんでした。
 江戸時代の修験者は、本山派と当山派に分かれると同様に盛岡藩でも本山派と羽黒派に分類されていたようです。遠野でも、その争いは熾烈だったようで、それぞれが、基本となる神社を管理しながら、旦那場又は霞場と呼ばれる俗別当管理の神社をそれぞれの管理下においていたもので、神社名で管轄が分かれていたわけではないようです。
 夕べ(今朝?)の余韻を体中に残しながら、明日提出の仕事をこなすべく、これから、出勤します。涙
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お薬師様も (一如)
2007-04-24 12:45:39
 そこのお薬師様は、山口地域の鎮守だったのでしょうかね。地域の人を守ってきたのでしょう。そして、近くにホウリャウ、星谷・・・際限がないように思っていましたが少しずつほどけていくでしょうか。
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絡まる糸 (笛吹童子)
2007-04-24 21:32:46
  一如さん:
 先日は、ご苦労様でした。私は、まだ、疲れが残っていて、今一です。土渕の山口は、その名のとおり、山の出入口にあたる根っこの集落ですが、十二薬師さんが信仰の中心であることは間違いないでしょう。少し下ると和野の熊野さんと愛宕さんになり、今でも、年配の方々が細々と信仰を続けているようです。これも、今のうちだけかなあと思いながら、聞いて歩いてはいるのですが・・・。あれこれと、結びつけながら調べると何がなんだかわからなくなります。笑
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