「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

南部太神楽の祖「盛岡七軒丁」

2008-06-01 00:08:07 | 郷土芸能

 旧南部領には、盛岡七軒丁の流れをくむ「太神楽」が点在しているが、その「七軒丁」のあった場所が、現在の盛岡市仙北町。

  「七軒丁」について
 青物町の西側ともその町内であったとも云われ、昔、戸数が七軒であったことからその名が付いた。そして、そこに住んでいた加藤京吉を頭取した芸能集団をも「七軒丁」と呼ぶようになった。

 加藤京吉の先祖は、南部光行公が甲斐の国から糠部へ来るに際し、馬の口取りとして共をしてきたことから「御駒太夫」と呼ばれるようになる。その御駒太夫が別当を務めていたのが、蒼前駒形大明神を祀る「御駒堂」後の駒形神社。

 

 以前から、この神社は現在も存在するのかどうか気になっていたのだが、「もりおか物語-仙北町かいわい-」という書に明治末期の地図が掲載されており、それを頼りに足を運んだ次第。

 ここと思われる場所へは意外とスムーズにたどり着いた。不思議なことにこのような時の勘はいつも冴える。東北本線が通ったことで、古くからの町と神社は分断されていた。

 

 もしかしたら、神社そのものは無くなっているかもしれないと思っていたのだが・・・・。

 

 

 七軒丁は盛岡藩の庇護の下に、お城への奉納を始めとし、領内への巡業も認められた集団として活躍していたのだが、明治になると次第に廃れ、正式に芸を継承した者は今はいない。

 

 藩の家老の家に生れた「原敬」は、この七軒丁の芸能をこよなく愛したと云われる。

 

 普通の郷土芸能と異なり、太神楽、軽業、小芝居、こま回し、からくり、万歳と多彩な芸能をこなし、厩祈祷やその守札を配るなど、伊勢神宮の神楽組が現在も行なっている姿に重なるものがある。

 

 遠野太神楽も、七軒丁の流れをくむものだと云われている。

 

 この駒形さんの境内で七軒丁の芸能の数々を見たかったと素直に感じた訪問となった。

 
 さて、この仙北町には、もうひとつ、面白いものがある。以前、テレビで放映されていたのだが、「むがす、あったずもな!んだども、ねぐなったんだど。」ということで、これを復活させたというニュースだった。

 

 北上川沿い、明治橋の上流にある「かっぱ大明神」。古くから祀られていたものだったようだ。

 

 伝「北十左衛門」の墓。この人物についてはこちら
 
 

 天気が悪く、良い景色も撮れないので、我家の花っこでも・・・。

 

 

 



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 (笛吹童子)
2008-06-03 07:49:35
  みみずくさんへ:
 初めまして。遠野に関連するものを追っていくと盛岡につながることは自然なことなのですが、なかなか、実行が伴わずです。
 時々、見てやって下さい。

 盛岡でも、小さな神社のお祭り情報が得られるサイトでもあればなどと思ったりもしています。
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はじめまして (みみずく)
2008-06-02 20:19:14
記事拝見しました。この地区、私の地元です。北十左衛門の墓などは自宅から歩いて10分くらいですし、子供の頃は駒形神社のお祭りにも行きましたよ。
今は仕事で一関に居ましたが、数年前には遠野でも仕事していました。
懐かしい写真などが載っていて、ついつい見惚れています。これからも頑張って下さい。
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R4 (笛吹童子)
2008-06-01 23:37:36
  一如さんへ:
 そう国道沿いです。皆さんが間違いなく、目にしているはずです。これが何なのかは知らずに。この周辺は、かつての殺生場があったとされる地域で、青物町のはずれとなるようです。
 十左衛門は、遠野との関わりが深く、金山開発及び経営のエキスパートでもあったようです。
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R4 (一如)
2008-06-01 21:16:09
R4の標識を確認できますが、バイパスですか?
これは、石碑ではなく墓石なのですね。
酷刑に処されてもこのように墓印があるとは、よほどの方だったのでしょう。
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