「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野南部ばやしの原風景

2010-06-04 01:16:00 | 郷土芸能

江戸時代の宝暦12,3年(1762,3)頃に宇夫方広隆によって記された「遠野旧事記」に、概略、次にような一説がある。

 

話を聞いた老人が若かった時には自他領どこでも、児踊りと云って12,3歳の子供が14,5人で笠・扇子・花などを持って小唄・笛・太鼓・小鼓などで、はやしながら踊るのが流行っていた。

(その老人が若かった頃を推定すると、寛文元年(1661)宮代から現在の地に遠野八幡宮が移った頃にあたり、その頃は、ご家中、在、町などで踊られていた)

そして、

その踊りは、狐踊りと呼ばれるものであったが、今の歌舞伎踊りと比べると二目と見られたものではなかった。

(かつて流行った狐踊りとは別に宝暦の頃には、歌舞伎踊りが演じられるようになっていた)

 

また、広隆の祖父の知行所である綾織でも、この狐踊りを踊らせていたが、太鼓・小鼓を八人の座頭に貸したところ壊され、その壊れた小鼓で広隆は遊んでいた。

元禄10年(1697)頃には本物の歌舞伎が盛んになり、児踊りは廃れ、在にしし踊り・剣舞踊りだけが残った。

(町方では、狐踊りも歌舞伎踊りも廃れる)

 

 

天和年中(1680頃)、時の公方様が能楽好きで、各藩そして遠野でも武士の間で盛んになる。しかし、後に中断し、近年再興され、遠野でも再び能楽の囃子が流行。

 

 

現在、遠野市内には、古くから伝わるものとして、仲町、一日市、穀町、上組町、綾織、小友、宮守に遠野南部ばやしが伝承されているが、旧遠野町内にある先の4団体が如何なる経緯から、それが伝承されるに至ったものか知られていない。

 

現在の形に落ち着いたのは、そう古い話ではないと、遠野町内の歴史等が書かれた本には記されている。

 

遠野南部ばやしの原点を探るとき、この芸能で使用される大胴、小鼓、笛と、踊りにみられる歌舞伎風の振り付けが手がかりとなるが、まさに、上記の旧事記に記される事柄が、その始まりに思えてならない。

 

それらが素地にある風土から、花街としての三味線などが加わり、踊りや唄がアレンジされ、明治には、現在の形になったのであろう。 

何を突然書いているのかと思われるだろうが、もうすぐ、遠野物語発刊100周年をむかえる遠野だが、そのお祝いに華を添えるもののひとつに語り部1000人プロジェクトがある。

様々な伝承者の中に郷土芸能の語り部なるものもあり、南部ばやしの紹介もそれに含まれる。郷土芸能は、古くからのものが多く、その始まりが、はっきりしないのだが、ひとつの考え方として、今回、私なりの原風景を記してみたところである。

 

今月第二土日は、遠野物語100周年記念祝賀行事で、彩られる遠野

 

新たな遠野物語が生まれるスタートの年でもある

 

秋には愛宕橋の向こうに沈む夕日が、今の季節は高清水へ

話題的には、夕日ではなく、高清水から見える六角牛の朝日が最適なのだが・・・・