タイトル通り、6月6日の日記で書き忘れてしまったことを書きます。T病院での思い出はまだ記憶が新しいし、何よりも書いていて楽しいのです。
☆実は私、患者になっていました
入院して10日くらい経った頃でしょうか。
それまで入院していたK病院への支払いが全部済んでいなかったので、1日外出許可をもらい、T病院の車いすを借りてバスでK病院に行ってきました。
同じ静岡市内と言っても二つの病院はかなり離れているので、まずT病院から駅へ約30分、そしてバスを乗り換え駅からK病院まで約25分、無事に支払いを済ませ、再びバスへ乗って駅へ、久しぶりに駅ビルのレストランに入ってランチを楽しみました。
そのあと、T病院行きのバスに乗り込んだのですが…、これまでに乗った3台のバスはいずれも床が低いバスで、車いすでも乗りやすかったのです。ところが、最後に乗ることになったこのバスは、前の3台に較べて床が高く、従って乗せて下さった運転手さんもかなり苦労していました。
そんなわけで、「降りるときも大変かも…」と、バスに乗っている間じゅう、色々考えてしまいました。おまけに雨が降ってきたらしく、遠くで雷の音まで聞こえます。さて、バス停から病院の玄関まで約50メートル、どのように歩いていこうかなとも考えました。
そんなことを考えているうち、バスはT病院に到着しました。私は前のドアから料金を払ってバスを降り、だんなさんは後ろのドアから運転手さんに手伝ってもらってバスを降ります。
バスを降りると、雨はそれほど降っていない。でも、だんなさんが心配で後ろのドアに駆け寄ろうとしたとき、視力の弱い私は目の前に生け垣があったのに気がつかず、つっこんで転んでしまったのでした。
そんなわけで、転んだ衝撃でめがねで顔の右側を切ってしまい、出血してしまった私、すぐにT病院の外科に担ぎ込まれました。診察して下さったのは優しそうな若い先生。検査の結果、骨には異常がなく、ただの打撲だということがわかりました。そこで顔に薬を塗られ、大きな絆創膏を貼られてしまいました。とてもとても、人には見せられない姿になってしまったわけです。
その日は顔がずきずきと痛んだので、食事の時以外はずっと横になっていました。おまけに、口の中も切れてしまっていたので、左側の歯でしか食べ物をかめません。時間をかけてゆっくり食べるしかありませんでした。それでも、こうして付き添いという形で病院に泊まれることをありがたく、幸せに思いました。
幸い、痛みは1週間ほどで完全に取れたので不幸中の幸いでした。こんな失敗も今となってはいい思い出です。
☆病院の食事
K病院では売店でお弁当を買って食べていました。お弁当もおいしかったのですが、どうしても同じようなメニューになってしまいますし、さめているのがちょっと辛かったです。だんなさんはさめた食事を食べるのが大嫌いなので、私のお弁当を見ていつも、「かわいそうになあ」と言っていました。
でも、先日の日記に書いたように、T病院では私の食事も出してもらうことが出来ました。だんなさんがすごく喜んでいたのを思い出します。
確かに、転院した当日から食事が出たのですが、暖かい食事ってこんなにおいしいのか~、それをだんなさんと2人で食べられるなんて幸せ…と、嬉しく思ったものです。
T病院の食事は病院食にしてはかなりおいしく、バラエティに富んでいました。最も私の食事は、健康な人用の食事だったからかもしれませんが。
朝はご飯と味噌汁とおかず1~2品、それにふりかけや佃煮がつきました。牛乳とバナナがついてくることもありました。お昼はピラフやカレー、そばやうどんというのが多かったように思えます。夕食はご飯と汁物に、おかずのお皿が3皿くらいついていました。特に、サラダや和え物がおいしかったのを思い出します。
だんなさんに対しては不謹慎かもしれませんが、私は1ヶ月間、ホテルか別荘に滞在していたような気分を味わっていたのかもしれません。
お風呂に入る時間も自由(自宅は2世帯住宅でしたが、お風呂とトイレは共同だったので、好きな時間に入るってわけにはいかなかったのですよね)、3度の食事を出してもらい、好きな本を読み、だんなさんとおしゃべりしました。
ただ、パソコンがないことだけが不自由でしたが。でも、携帯電話はあったので、SNSで友人の近況をチェックすることは出来ました。現在のように、携帯でも文章がすらすら打てるようになっていれば、病院での生活を頻繁につぶやくことも出来たかもしれないのですが。それだけがちょっと残念です。
と言うわけで、T病院での思い出を思いつくまま書いてみました。3回続けて日記の更新になってしまい、すみません。次の更新は歴史記事を予定しています。「系譜から見た平安時代の天皇」と「妄想ショートストーリー」の新しい記事、見直しと手直しを急がなくては。
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☆実は私、患者になっていました
入院して10日くらい経った頃でしょうか。
それまで入院していたK病院への支払いが全部済んでいなかったので、1日外出許可をもらい、T病院の車いすを借りてバスでK病院に行ってきました。
同じ静岡市内と言っても二つの病院はかなり離れているので、まずT病院から駅へ約30分、そしてバスを乗り換え駅からK病院まで約25分、無事に支払いを済ませ、再びバスへ乗って駅へ、久しぶりに駅ビルのレストランに入ってランチを楽しみました。
そのあと、T病院行きのバスに乗り込んだのですが…、これまでに乗った3台のバスはいずれも床が低いバスで、車いすでも乗りやすかったのです。ところが、最後に乗ることになったこのバスは、前の3台に較べて床が高く、従って乗せて下さった運転手さんもかなり苦労していました。
そんなわけで、「降りるときも大変かも…」と、バスに乗っている間じゅう、色々考えてしまいました。おまけに雨が降ってきたらしく、遠くで雷の音まで聞こえます。さて、バス停から病院の玄関まで約50メートル、どのように歩いていこうかなとも考えました。
そんなことを考えているうち、バスはT病院に到着しました。私は前のドアから料金を払ってバスを降り、だんなさんは後ろのドアから運転手さんに手伝ってもらってバスを降ります。
バスを降りると、雨はそれほど降っていない。でも、だんなさんが心配で後ろのドアに駆け寄ろうとしたとき、視力の弱い私は目の前に生け垣があったのに気がつかず、つっこんで転んでしまったのでした。
そんなわけで、転んだ衝撃でめがねで顔の右側を切ってしまい、出血してしまった私、すぐにT病院の外科に担ぎ込まれました。診察して下さったのは優しそうな若い先生。検査の結果、骨には異常がなく、ただの打撲だということがわかりました。そこで顔に薬を塗られ、大きな絆創膏を貼られてしまいました。とてもとても、人には見せられない姿になってしまったわけです。
その日は顔がずきずきと痛んだので、食事の時以外はずっと横になっていました。おまけに、口の中も切れてしまっていたので、左側の歯でしか食べ物をかめません。時間をかけてゆっくり食べるしかありませんでした。それでも、こうして付き添いという形で病院に泊まれることをありがたく、幸せに思いました。
幸い、痛みは1週間ほどで完全に取れたので不幸中の幸いでした。こんな失敗も今となってはいい思い出です。
☆病院の食事
K病院では売店でお弁当を買って食べていました。お弁当もおいしかったのですが、どうしても同じようなメニューになってしまいますし、さめているのがちょっと辛かったです。だんなさんはさめた食事を食べるのが大嫌いなので、私のお弁当を見ていつも、「かわいそうになあ」と言っていました。
でも、先日の日記に書いたように、T病院では私の食事も出してもらうことが出来ました。だんなさんがすごく喜んでいたのを思い出します。
確かに、転院した当日から食事が出たのですが、暖かい食事ってこんなにおいしいのか~、それをだんなさんと2人で食べられるなんて幸せ…と、嬉しく思ったものです。
T病院の食事は病院食にしてはかなりおいしく、バラエティに富んでいました。最も私の食事は、健康な人用の食事だったからかもしれませんが。
朝はご飯と味噌汁とおかず1~2品、それにふりかけや佃煮がつきました。牛乳とバナナがついてくることもありました。お昼はピラフやカレー、そばやうどんというのが多かったように思えます。夕食はご飯と汁物に、おかずのお皿が3皿くらいついていました。特に、サラダや和え物がおいしかったのを思い出します。
だんなさんに対しては不謹慎かもしれませんが、私は1ヶ月間、ホテルか別荘に滞在していたような気分を味わっていたのかもしれません。
お風呂に入る時間も自由(自宅は2世帯住宅でしたが、お風呂とトイレは共同だったので、好きな時間に入るってわけにはいかなかったのですよね)、3度の食事を出してもらい、好きな本を読み、だんなさんとおしゃべりしました。
ただ、パソコンがないことだけが不自由でしたが。でも、携帯電話はあったので、SNSで友人の近況をチェックすることは出来ました。現在のように、携帯でも文章がすらすら打てるようになっていれば、病院での生活を頻繁につぶやくことも出来たかもしれないのですが。それだけがちょっと残念です。
と言うわけで、T病院での思い出を思いつくまま書いてみました。3回続けて日記の更新になってしまい、すみません。次の更新は歴史記事を予定しています。「系譜から見た平安時代の天皇」と「妄想ショートストーリー」の新しい記事、見直しと手直しを急がなくては。
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