☆生没年 923~952
☆在位期間 930~946
☆両親
父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)
☆略歴
名は寛明。醍醐天皇の第十一皇子。
延長元年(923)七月二十四日、藤原忠平の東五条第において誕生。同年十一月十七日親王宣下。同三年十月二十一日、三歳で東宮に立てられました。
実は、醍醐天皇の最初の皇太子は第一皇子の保明親王でしたが位につくことなく二十一歳で世を去り、続いて皇太子に立てられた親王の子、慶頼王も五歳で亡くなりました。皇太子が相次いで世を去ったことは、太宰府に左遷されてその地で世を去った菅原道真の怨霊だとささやかれました。
寛明親王は幼少時、母、藤原穏子のふところに抱かれて育ち、外に出ることもなかったようです。穏子は、「道真の怨霊にとりつかれては大変」と考え、親王を大切に育てていたのでしょう。そのためか、寛明親王は優しくて温順な性格であったと伝えられます。
延長八年(930)十一月、醍醐天皇の譲位に伴い、大極殿において八歳で即位しました。摂政には醍醐天皇の遺詔により、藤原忠平が就任します。
天慶九年(946)、同母弟の成明親王(村上天皇)に譲位。退位の理由は不明だそうです。
退位後は朱雀院を御所とし、天暦六年(952)三月十四日、病により落飾。法名を仏陀寿と称しました。同年四月十五日、仁和寺に移り、八月十五日に至り崩御。享年三十。
朱雀天皇の御代は、天変地異が相次ぎ、東国では平将門が、西国では藤原純友が叛乱を起こすといった、不安定な時代でした。優しい性質の朱雀天皇は、このような不祥事や天変地異が起こるのは自分のような者が天皇であるからかもしれないと悩み、早々と退位してしまったのかもしれません。
和歌に優れ、「朱雀天皇御集」も遺しているそうです。
☆父方の親族
祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)
主なおじ
敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王
主なおば
均子内親王 柔子内親王(伊勢斎王)
主ないとこ
中務(父は敦慶親王)
源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
源 庶明(父は斉世親王)
☆母方の親族
祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)
主なおじ
藤原時平 藤原仲平 藤原忠平
主なおば
藤原温子(宇多天皇中宮)
主ないとこ
藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
均子内親王(母は藤原温子)
☆兄弟姉妹とおい・めい
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○成明親王(村上天皇) *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王
主なおい・めい
憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王 規子内親王(伊勢斎王) 具平親王 楽子内親王(伊勢斎王) 昌平親王 永平親王 盛子内親王(藤原顕光室) 広平親王 昭平親王(以上、父は村上天皇)
源 博雅(父は克明親王)
慶頼王・煕子女王(以上、父は保明親王)
徽子女王(伊勢斎王・村上天皇女御)(父は重明親王)
源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
源 伊陟(父は兼明親王)
源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
深覚・藤原公季(母は康子内親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
煕子女王(保明親王皇女) → 昌子内親王
藤原慶子(藤原実頼女)
☆末裔たち
朱雀天皇には皇子がいませんでしたので、皇位は同母弟の成明親王が継承しました(村上天皇)。
皇子はいませんでしたが、朱雀天皇は煕子女王との間に皇女を一人もうけました。では、朱雀天皇のただ一人の皇女である昌子内親王について、「平安時代史事典」の記述をもとに簡単に記すことにします。
昌子内親王(950~999)
朱雀天皇の第一皇女。母は女御煕子女王。
天暦四年(950)八月、内親王となる。
応和元年(961)十二月、着裳、三品に叙される。
応和三年(963)二月、東宮憲平親王の妃となる。
康保四年(967)、憲平親王即位(冷泉天皇)。九月、冷泉天皇の皇后となる。しかし、天皇の病のためほとんど同居せず、里第に下がっていることが多かったと伝えられます。
天延元年(973)七月、皇太后となる。
寛和元年(985)二月、北岩倉山の大雲寺内に観音院を創立し、自ら行啓して供養した。仏心の篤い后だったようです。
寛和二年(986)七月、太皇太后となる。
長保元年(999)十二月一日、権大進橘道貞(和泉式部の最初の夫)の三条第において崩御。三条太皇太后、観音院太后と称される。歌人としても有名。
紫式部の伯父、藤原為頼や、和泉式部の父、大江雅致が仕えていたことでも有名です。和泉式部も、その母も、女房として昌子内親王に仕えていました。
幼くして父に先立たれ、夫となった冷泉天皇とも疎遠で、家庭的には少し寂しい生涯だったのでは…と思います。それでも、献身的に仕えていた多数の役人や女房に囲まれていたことは救いだったような気がします。
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☆在位期間 930~946
☆両親
父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)
☆略歴
名は寛明。醍醐天皇の第十一皇子。
延長元年(923)七月二十四日、藤原忠平の東五条第において誕生。同年十一月十七日親王宣下。同三年十月二十一日、三歳で東宮に立てられました。
実は、醍醐天皇の最初の皇太子は第一皇子の保明親王でしたが位につくことなく二十一歳で世を去り、続いて皇太子に立てられた親王の子、慶頼王も五歳で亡くなりました。皇太子が相次いで世を去ったことは、太宰府に左遷されてその地で世を去った菅原道真の怨霊だとささやかれました。
寛明親王は幼少時、母、藤原穏子のふところに抱かれて育ち、外に出ることもなかったようです。穏子は、「道真の怨霊にとりつかれては大変」と考え、親王を大切に育てていたのでしょう。そのためか、寛明親王は優しくて温順な性格であったと伝えられます。
延長八年(930)十一月、醍醐天皇の譲位に伴い、大極殿において八歳で即位しました。摂政には醍醐天皇の遺詔により、藤原忠平が就任します。
天慶九年(946)、同母弟の成明親王(村上天皇)に譲位。退位の理由は不明だそうです。
退位後は朱雀院を御所とし、天暦六年(952)三月十四日、病により落飾。法名を仏陀寿と称しました。同年四月十五日、仁和寺に移り、八月十五日に至り崩御。享年三十。
朱雀天皇の御代は、天変地異が相次ぎ、東国では平将門が、西国では藤原純友が叛乱を起こすといった、不安定な時代でした。優しい性質の朱雀天皇は、このような不祥事や天変地異が起こるのは自分のような者が天皇であるからかもしれないと悩み、早々と退位してしまったのかもしれません。
和歌に優れ、「朱雀天皇御集」も遺しているそうです。
☆父方の親族
祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)
主なおじ
敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王
主なおば
均子内親王 柔子内親王(伊勢斎王)
主ないとこ
中務(父は敦慶親王)
源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
源 庶明(父は斉世親王)
☆母方の親族
祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)
主なおじ
藤原時平 藤原仲平 藤原忠平
主なおば
藤原温子(宇多天皇中宮)
主ないとこ
藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
均子内親王(母は藤原温子)
☆兄弟姉妹とおい・めい
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○成明親王(村上天皇) *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王
主なおい・めい
憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王 規子内親王(伊勢斎王) 具平親王 楽子内親王(伊勢斎王) 昌平親王 永平親王 盛子内親王(藤原顕光室) 広平親王 昭平親王(以上、父は村上天皇)
源 博雅(父は克明親王)
慶頼王・煕子女王(以上、父は保明親王)
徽子女王(伊勢斎王・村上天皇女御)(父は重明親王)
源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
源 伊陟(父は兼明親王)
源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
深覚・藤原公季(母は康子内親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
煕子女王(保明親王皇女) → 昌子内親王
藤原慶子(藤原実頼女)
☆末裔たち
朱雀天皇には皇子がいませんでしたので、皇位は同母弟の成明親王が継承しました(村上天皇)。
皇子はいませんでしたが、朱雀天皇は煕子女王との間に皇女を一人もうけました。では、朱雀天皇のただ一人の皇女である昌子内親王について、「平安時代史事典」の記述をもとに簡単に記すことにします。
昌子内親王(950~999)
朱雀天皇の第一皇女。母は女御煕子女王。
天暦四年(950)八月、内親王となる。
応和元年(961)十二月、着裳、三品に叙される。
応和三年(963)二月、東宮憲平親王の妃となる。
康保四年(967)、憲平親王即位(冷泉天皇)。九月、冷泉天皇の皇后となる。しかし、天皇の病のためほとんど同居せず、里第に下がっていることが多かったと伝えられます。
天延元年(973)七月、皇太后となる。
寛和元年(985)二月、北岩倉山の大雲寺内に観音院を創立し、自ら行啓して供養した。仏心の篤い后だったようです。
寛和二年(986)七月、太皇太后となる。
長保元年(999)十二月一日、権大進橘道貞(和泉式部の最初の夫)の三条第において崩御。三条太皇太后、観音院太后と称される。歌人としても有名。
紫式部の伯父、藤原為頼や、和泉式部の父、大江雅致が仕えていたことでも有名です。和泉式部も、その母も、女房として昌子内親王に仕えていました。
幼くして父に先立たれ、夫となった冷泉天皇とも疎遠で、家庭的には少し寂しい生涯だったのでは…と思います。それでも、献身的に仕えていた多数の役人や女房に囲まれていたことは救いだったような気がします。
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