平安夢柔話

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藤原魚名とその子孫たち

2006-10-26 14:38:34 | 系譜あれこれ
 当ブログの「系譜あれこれ」に収められている記事を通して拝見して下さった方がもしいらっしゃいましたら、ある一人の人物の名前があちらこちらの記事に書かれていることに気づいて下さるかもしれません。

 その人の名は藤原魚名……。「藤原魚名流」とか、「奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫」という言葉が、私の書いた記事のあちらこちらに出てきます。
 今回はその藤原魚名と、彼の数多くの子孫のうち、比較的知名度のある有名な方を何人かピックアップして紹介したいと思います。


 まず、藤原魚名とはいったいどのような人なのか、簡単に紹介させていただきます。

☆藤原魚名 (721?~783)

 藤原北家の祖、房前の五男。
 天平二十年(748)に叙爵し、神護景雲二年(768)に参議に任じられました。その後、光仁天皇の信任を得て順調に出世し、天応元年(781)には左大臣に任じられます。
 このように順調に出世し、平穏な人生を全うすると思われましたが、頼りにしていた光仁天皇が崩御すると、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。

 延暦元年(782)、氷上川継の乱が勃発します。川継は天武天皇の孫塩焼王と、聖武天皇の皇女不破内親王との間に生まれた男子です。つまり父方・母方ともに天武天皇の血を引いていたわけです。皇統は天武系から、天智系の光仁天皇を経てその皇子である桓武天皇に移っていましたが、川継はそんな中、帝位をねらって謀反を企てたのでした。
 しかし、このことは未然に露見し、事件に関与した多くの公卿、殿上人が流罪になります。そして魚名も、事件に連座して左大臣を罷免され、大宰府に流されることとなります。

 魚名は大宰府に赴く途中、摂津国で病気になってしまいます。かなり重病だったらしく、摂津国から動くことができなくなったようです。欲延暦二年、入京を許されるのですが、帰郷することなく摂津国で薨じました。

 左大臣にまで出世したものの、最後には氷上川継の乱に連座して流罪…。奈良の都に帰ることなく病死してしまうとは、ご本人にとってもさぞ無念だったと思われます。


 魚名ご自身についてはこれくらいにして、子孫の話に移りますね。まず、当ブログの今までの記事に出てきた方々をざっと紹介させていただきます。

☆藤原隆房
 平清盛の娘婿。当ブログの「平清盛の子孫」を参照して下さい。

☆藤原総継
 魚名の三男末茂の子。藤原基経と光孝天皇の外祖父。「源博雅と源雅信 藤原基経と光孝天皇」「班子女王 ~宇多天皇の母」を参照して下さい。

☆藤原鮮子(藤原連永の女)
 醍醐天皇更衣。代明親王の母。「代明親王の子孫たち」を参照して下さい。

☆藤原山蔭
 清和天皇側近の公卿。藤原定方の舅。「藤原定方とその子孫たち」を参照して下さい。

☆藤原在衡
 村上・冷泉・円融天皇御代の公卿。「誕生日♪」(私の誕生日に歴史上で何が起こったかを書いています。)を参照して下さい。

 さて、藤原魚名の子孫には、有名な方々がまだたくさんいます。では、そのうちの何人かを紹介しますね。


☆藤原時姫 (?~980)

 摂津守藤原中正の女。藤原兼家の妻となり、道隆、道兼、道長、超子(冷泉女御・三条母)、詮子(円融女御・一条母)をもうけました。兼家の別の妻であった道綱母が著した「蜻蛉日記」にも、作者との車争いや、和歌の贈答など、時々顔を出していますよね。
 時姫は上で紹介した藤原山蔭の直系の子孫なので、れっきとした魚名流の女性です。道長さんの母である彼女が魚名流だと知ったときはわくわくしました。その上、彼女を通して道長の子供たち、中関白家の人々、一条天皇や三条天皇にも魚名の血が流れているということになります。系譜の面白いところです。


☆美福門院(藤原得子) (1117~1160)

 魚名の三男、末茂の子孫である藤原長実の女。
 長承三年(1134)頃、鳥羽上皇に入内。大変美しい女性だったため上皇の寵愛を一身に受け、保延五年(1139)に躰仁親王を出産します。躰仁親王は近衛天皇として踐祚し、彼女も大きな発言力を持つこととなります。
 近衛天皇崩御後は、藤原忠通と組んで、崇徳上皇、藤原頼長と対立。これが保元の乱の一因となりました。その後も、守仁親王(保元三年に踐祚して二条天皇)の養母として、朝廷内で発言力を持ち続けました。陰謀渦巻く貴族社会をしたたかに生き抜いた強い女性というイメージを受けます。


☆藤原成親 (1138~1177)

 魚名の三男、末茂の子孫である家成の子。
 平治の乱の際、叛乱に関与したとして解官されたり、平滋子の生んだ親王(のちの高倉天皇)を皇太子にしようとして流罪になったりと、若い頃はかなり苦労したようです。帰京後は後白河院側近として中将、蔵人頭、権中納言、権大納言と出世をしていきましたが、比叡山といざこざを起こして一時解官されたりもしています。

 安元三年(1177)、成親は、息子の成経、俊寛僧津、平康頼、西光らと平家妥当を計画(鹿ヶ谷事件)して捕らえられました。事件には後白河院も関わっていたと言われています。しかし事は未然に露見し、成親も捕らえられてしまいます。
 清盛は成親をすぐに処刑しようとしたのですが、妹婿の重盛の助命嘆願によって備前に配流されることとなります。しかし最後にはその地で斬首されました。野心家だったようですが、何か解官と流罪に明け暮れた人生という感じがします。末路も哀れですよね。

 なお、先に触れた藤原隆房は、成親の甥に当たります。隆房の子孫は四条家となり、鎌倉時代以降も京の貴族社会で活躍しています。


☆藤原秀郷 (生没年未詳)

 平安時代中期の武将。下野国の住人。9世紀末~10世紀半ばの人と言われています。近江三上山のむかで退治の伝説で有名です。天慶三年(940)に平将門を討ち、その功によって従四位下に叙され下野守に任じられています。これらのエピソードから、大変勇猛な武将だったことが想像されます。

 なお、彼の子孫からは鎌倉御家人の小山氏、平泉に栄華を築いた奥州藤原氏、戦国大名の大友氏など、多くの氏族を出しています。また、平安末期に活躍した歌人、西行法師も秀郷の子孫です。


☆藤原利仁 (生没年未詳)

 平安時代中期の武将。9世紀後半~10世紀前半の人と言われています。
 最初、藤原基経に仕え、のちに敦賀の豪族、有仁の婿となり、越前国に住みました。「今昔物語集」にあるいもがゆの話(五位の官人にいもがゆを食べさせる話)に、越前国の裕福な長者として登場しています。


 以上のように、魚名の子孫は、中央はもちろん、全国各地にも拡大し、日本史上の色々なところで活躍しています。左大臣にまで昇進しながら最後には不遇だった魚名の子孫がこれだけ繁栄する…、歴史の面白いところですね。

 また、秀郷の系統からは波多野・後藤・尾藤・伊藤・佐藤・首藤・山内・近藤・武藤・大友・田村・小山・結城・大田など、利仁の系統からは斎藤・加藤・富樫・林・豊田・後藤・吉原など、多くの苗字が派生しました。
 そこで最後に余談ですが…、実は私の旧姓も、秀郷流の苗字なのです。以前、「こちら」で紹介したことがあるのですが、私の実家には真偽はともかく、信濃の豪族高遠家の一族で、武田信玄に追われて駿河に逃げてきた…という伝説があります。
 自分が諏訪ご寮人や武田勝頼の親戚(高遠家は諏訪家の分家と言われています)と考えるのも夢がありますが、魚名や秀郷の子孫であり、上で紹介した多くの有名な方々とつながっているかもしれないと考えるともっと夢が膨らみます。

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